「高僧名僧伝・覚鑁」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
覚鑁(1095年~1148年)平安後期の僧。真義真言宗の祖。祖号は正覚房。覚鑁上人、密巌尊者ともいう。肥前国藤津荘の伊佐氏の出身。1110年(永久元)仁和寺で出家し、1114年(永久2)東大寺で受戒。1121年(保安2)仁和寺成就院で寛助から伝法灌頂を受けた。真言教学振興のために高野山伝法の再興を発願し、紀伊国石手荘などの施入を受けて、鳥羽院の支援の下、1132年(長承元)に高野山に大伝法院・密厳院を落成。さらに密教諸流の遍学を志し、院の保護もあって園城寺の覚猶、醍醐寺の定海、勸修寺の覚信らから受法し、鳥羽宝蔵の秘書を閲覧。1134年に院宣により金剛峯滋座主となり、高野山一山を支配し。しかし大伝法院を中心とする高野山の再編は、金剛峯寺・東寺・醍醐寺の反発を招いたたため、1135年(保延元)密厳院に蟄居して無言行に入り座主を辞任。1140年の武力衝突で密厳院が襲撃されたために、根来山に逃れ、そこに円明寺を創建して没した。門弟はその後も金剛峯寺と和議・衝突を繰り返したが、1288年(正応元)の紛争で完全に決別し、ここに覚鑁の系統を真義真言宗とする。1540年(天文9)自性大師の勅諡号を与えらえたが、延暦寺の反対で撤回。1690年(元禄3)に興教大師号を与えらえた。覚鑁は密教を総合した伝法院流を開き、その著「五輪九字明秘釈」では大日如来と阿弥陀如来が同体なることを論じて浄土教を真言密教取り入れた。
「高僧名僧伝・叡尊」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子
叡尊(1201年~1290年)鎌倉時代の律宗の僧。西大寺の中公開山。興正菩薩ともいう。字は思円房。興福寺の学侶慶玄の子として大和国に生まれる。母は藤原氏。1207年(承元元)7歳で母を失って、醍醐寺門前の巫女の養子になり、その縁で醍醐寺に入って1217年(建保5)17歳で醍醐寺恵操を師として出家した。以後、醍醐寺・金剛峯寺・東大寺などで真言密教を学ぶが1234年(文暦元)真言密教の行者が多く魔道に堕ちてゆくのを見て疑問を抱き、その理由は戒律を守っていないことと結論して、戒律の復興を志すに至った。1236年(嘉禎2)9月覚盛・円晴・有巌とともに東大寺法華堂で自聖自戒をし、好夢を感じて比丘となった。大和海竜王寺を経て、西大寺に住み、1238年(暦仁元)以降そこを拠点として戒律の普及に努めるとともに、社会体制の外部に排除・疎外された非人救済運動も展開した。彼の非人救済は非人を文殊菩薩の化身としてみなし非人施行を行うもので、その最大の行事が1269年(文永6)3月に奈良坂中腹にある般若寺の文殊菩薩像の完成を記念し、非人一人一人に斎戒を受けるとともに、米などの食糧や浅鍋などの乞食の道具が施行された。1262年(弘長2)には鎌倉幕府の北条時頼の招きで鎌倉に下向した。蒙古襲来を契機として、聖朝安穏のため、伊勢神宮や石清水八幡宮に詣でて異国降伏の祈祷も行った。1286年(弘安9)に宇治川の網代破却によって殺生禁断を実行することを条件として、宇治橋を再興するなど、勧進・修造活動に活躍した。著書には自叙伝「感心学正記」や「梵網経古述記輔行文集」などがる。
「高僧名僧伝・栄西」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
栄西(1141年~1215年)平安末期から鎌倉初期の僧。日本臨済宗の初祖とされる。「栄西えいさい」ともいう。号は明庵。千光国師ともいう。備中吉備津宮神宮賀陽氏の人。14歳で出家、天台と密教を学ぶがとくに大山の基好からは禅宗が請来する頃まで密教をを受法している。1168年(仁安3)4月入宋して天台山・阿育王山などを巡拝重源と出会ってともに帰国、天台座主明雲に請来の典籍を呈す。その約20年間は密教の研鑽と撰述を専らとし、台密葉上流の祖となる。1187年(文治3)再入宋してインドに行こうとして許可されず、天台山へ赴いて臨済宗黄龍派の虚菴懐敞に会う。密教と禅について問答を交わし、天台山から天童山へ移る虚菴に従って臨済宗を受法。1191年(建久2)に帰国して筑前博多聖福寺で禅法を説き、また「出家大綱」を著して戒律、とくに比丘戒の重要性を強調した。筥崎の良弁の訴えもあり、延暦寺からの圧力で1194年朝廷から、達磨宗の大日能忍とともに弘法を停止される。これに対して1198年「興禅護国論」を撰し、自ら意図が最澄の古法の復興にあること、叡山教学に禅の否定であることを述べ、禅宗が時機相応・鎮護国家の教えであると主張した。1199年(正治元)頃鎌倉に降り、源頼朝の忌日法要や密教祈祷の導師を務めるなどして幕府の帰依を受け、寿福寺を建立して鎌倉での地歩を築き、1202年(建仁2)には将軍源頼家の本願で建仁寺の建立に着手、3年で完成して再び京に拠点を得た。その後も幕府の権威を背景とし、重源の後を受けて東大寺の勧請職についたり法勝寺の塔を再建するなどし、京と鎌倉を往来して活躍して、1213年(建保元)権僧正にに任じられた。従来、密教との兼修という栄西の禅は純粋禅の宣揚による軋轢を避けた便宜的なものとされ、建仁寺に真言院・止観院を置いて延暦寺の末寺としたものも同様の配慮であるとみられている。しかし「興禅護国論」の主張や建仁寺建立中に撰した「日本仏法中興願文」を見ると、一貫して戒律の厳守による仏教界の刷新と最澄への復興が述べられており、密教と禅の兼修も便宜的な姿勢でなく、積極的な宗風であったと思われる。また明全を通じて道元にも多大な影響を与えている。1215年(建保3)6月5日鎌倉で母したといわれるが、京で没したともいわれている。
「高僧名僧伝・円仁」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
円仁(794年~864年)平安前期の天台僧。下野国都賀郡の人。俗姓は壬生氏、父は都賀郡の三鴨駅長麻呂。幼時、栃木県下都賀郡岩舟町に現存する大悲寺の広智に師事し最澄の創始した天台宗触れる。808年(大同3)広智に伴われて比叡山に登り、以後最長の下で修業。814年(弘仁5)の年分得度者として得度。「摩訶止観」を学ぶ。817年、最澄の東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受け、また故郷下野国の大悲寺で円頓菩薩大戒を授けらえた。823年4月、延暦寺での菩薩大戒受戒にあたって教授師となり、ついで最澄の本願に基ずき12年の籠山に入る。828年(天長5)山内の諸僧の要職により半ばにして籠山を中止。以後、延暦寺から出て天台宗の布教に尽力。835年(承和2)請益僧として遣唐使に随行し渡唐することになり、翌年5月、遣唐使とともに難波を出帆。しかしこの年、および翌年の大宰府からの出発は、逆風にあって2度とも失敗した。838年6月、3度目の渡海に成功し、同年7月、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、南通県堀港・呂四の中間地帯に上陸。かって師僧最澄が登山した天台山に行くことが目的であったが、許可されず、ひそかに唐にとどまり求法の旅を続けることを決意し、こののち、847年まで足掛け10年間、苦難の求法に明け暮れた。なかでも会昌の廃仏という仏教弾圧の苦しみを現地で体験。その記録は「入唐求法巡礼行記」帰国後、天台宗の布教に専念し、天台座主となる。864年(貞観6)没。866年7月、慈覚大師諡号を贈られた。
「高僧名僧伝・鑑真」アマゾン電子書籍紹介。
鑑真(688年~763年)奈良時代中期唐僧。中国の揚州江陽県に誕生。戒師招請のために入唐していた栄叡、普照が初めて鑑真に渡航を要請したのは743年、揚州大明寺においてであった。鑑真の名声はすでに高かったが、彼は直ちにとかいを決意し、難色を示す弟子たちに「是は法事ののためなり。何ぞ身命を惜まん」といったと伝える。しかし渡航は容易ではなかった。第一回、第四回目は役人に妨害され、第二、三、五回目は風浪にさえぎられて、特に五回目は難渋を極めた。鑑真は失明し、栄叡は客死した。ようやく実現したのは753年(天平勝宝5)のことで、遣唐使大伴古麻呂の船に乗り、12月薩摩国阿多郡秋妻屋浦に到着。翌年2月に入京し、吉備真備より「今より以降、受戒伝律一に和上に任す」の勅を伝えらえたという。4月には聖武上皇以下多くの人々が鑑真より菩薩会を受け、賢璟、善謝らは旧戒を捨てて受戒した。755年、東大寺大仏殿の西に戒檀院を作り、自らは同寺唐禅院に住して戒律の普及に努めた。翌年5月大僧都となる。この抜擢は彼の医学に関する専門的知識による貢献と、「学業優富、戒律清浄にして聖代の鎮護にたたえ、僧尼の領袖」という高い評価によるものと思われる。また、757年(天平法宇元)には「仏法を護持することは木叉より尚きはなし」と言い、戒律を学ぶもののために、備前国に施入させられたことも、鑑真らへの期待によるものだろう。ところが同年8月「政事燥煩にして敢えて老を労せざれ」として大僧都の任を解かれる。慾758年には、故新田部親王の旧宅に「唐律招提」の名を立てて、寺院を建立しはじめる。760年~761年には東朝集殿が施入され、藤原仲麻呂の家からは食堂が寄進された。鑑真は伝律と唐招提寺の充実に力を尽くしたが、生前には金堂が完成しなかった。
「高僧名僧伝・行基」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍
行基(668年~749年)奈良時代の僧。河内国大鳥郡蜂田首虎身の長女古爾比売。15歳で出家し、24歳で高宮寺徳光を師主として受戒した。高宮寺は大和国葛城上郡高宮郷市大字西左味にあった寺で、金剛山の中腹にあたり、修行の根拠地になる山寺である。徳光は山林修行も習ったと推定される。一方、経典学習のため法興寺、薬師寺所属しにも、摂論系の瑜伽・唯識学を学習した。704年(慶雲元)山林を出て故郷に戻り、生家を改め家原寺とした。長年にわたる山林暮らしをやめて故郷に戻ったのは、三階教に出会ったからと考えらえる。三階教は隋の信行により開かれた民衆宗教で、山林修行を否定し、街頭宗教で山林信仰を否定し、街頭集落における民衆の宗教的共助活動を重視し、無尽蔵施と称する布施行により我が身と祖先の罪業が消滅すると説いた。その教籍は道昭が請来し法興寺禅院に安置した。行基はこれを読み、716年(霊亀2)以降、街頭に出て、民衆不況に乗り出した。出家の弟子には布施行を勧め、知識を結成して、布施屋の建設(9か所)架橋(6か所)、道路修理(1か所)、院と称する民衆的寺庵の建設(40か所)などを進めた。717年(養老元)政府から名前をあげてその行動を叱責され、722年にも抑圧を受けたが、翌年三世一身法が出ると、溜池の構築(15か所)灌漑溝の整備(6か所)・開田にも乗り出し、その行動が社会的に有益であることを立証した。730年(天平2)、731年には15もの院を建設した。これに伴い政府の彼に対する姿勢も変化し、731年在家の弟子の一部に出家が許されるという得点に浴したが、これは藤原不比等と四子と光明皇后の影響が考えられる。740年恭仁京の造営が始まると、大和・山城の国境の泉川(木津川)に泉大橋と泉橋院を建て為政者の注目を集めた。743年、聖武天皇による大仏建立事業が始まるとこれに協力し、745年大僧正に任じられた。749年、不況の拠点であった平城京の喜光寺で没した。
「高僧名僧伝・役行者」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
役行者(生没年未詳)役優婆塞、役行者という。飛鳥時代、大和葛城山に住んで呪術宗教家「続日本紀」文武天皇3年(699)5月24日条に、はじめ小角は葛城山に住み、呪術のあることで名を知られていたが、後年その才能を損ね妖惑をもって讒言したので、この日伊豆島に配流に処した。「日本霊異記」では孔雀王の呪法を修め、奇異魔験力を得た人とされ、鬼神を駆使すること自在で、もろもろの鬼神に対して大和の金峰山と葛城山との間に橋を架けよと強要した、ことから葛城山の一言主神が人に託して「役優婆塞が天皇を傾けようと謀っている」と讒言したので伊豆島に流されたとする。平安中期には金峰山山上が岳の金剛蔵王菩薩を祈りだしたといわれ、後期には大峰山、葛城山をはじめ諸国の霊山に踏み分けたとされる。修験道の開祖に仮託され、多様な伝説が生まれた。
「古代の回想・刀伊入冠」マゾン電子書籍紹介。
1019年寛仁3年3月28日、刀伊の賊徒が五十余隻の船団を組んで、壱岐・対馬に襲来して壱岐守藤原理忠を殺し、4月7日筑前国怡土軍・志摩郡・早良軍に至り。略奪・強奪・放火に及んだ。さらに博多湾に侵入し、那珂郡能古島から、同11日、船越津に現れ、わが将兵の反撃にあい、同13日肥前国松浦郡を襲い、逃走した。賊船は長さ八尋から十二尋(平均十五メートル前後)かいを、3、40もち、5,60人乗りでであった。一帯は100人前陣2~30人が太刀を持ち、後陣は7~80人、弓矢・楯を持つという布陣で十隊、二十九隊と組んで上陸した。権師藤原隆家の反撃、賊徒襲来の報せは4月7日に大宰府に届いた。この時大宰府には道長との争いに敗れた中関白の伊周の弟隆家が権師として赴任していた。武力に長けていた隆家は悲報を京都に飛駅使をもって伝えるとともに、府の官人を警固所に配して防戦した。7日には能古島で前少監大蔵種材・藤原明範らが応戦し、隆家もみずから兵を率いて士気を鼓舞した。ただ兵船の準備が遅れたが、10~11日ににわかに北風が烈しく吹き荒れて戦闘中止の間に兵船38隻を整え逆襲した。12日船越津で検非違使財部弘延らが戦い、大宰府少弐平致行ら種材らが兵船追撃し、13日松浦郡では前肥前介源知らが応戦したため高麗方面に逃げた。刀伊とは朝鮮語で蛮夷を意味し、高麗では北方を境に接する女真を指していた。女真族は、東北満州ツングーンの民族と言われ、渤海国治下、黒龍江口の南北辺から沿岸一帯に居した。刀伊はこの頃しばしば高麗沿岸を襲ったため、高麗はこの対策に力を入れて入り、その余波が我が国及んだ。
「古代の回想・蝦夷征討」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
「蝦夷」は古代に新潟県北部、東北地方から北海道南部にかけて居住原住の民の総称。中国では古代以来漢民族が自ら国家・文化を優れたものとして世界の中心である中華とし、周辺の国家・民族を未開・野蛮な夷狄(いてき)であるとする中華思想があり、それに基ずき周辺の国家・民族を支配する帝国型の国家を構築したが、古代日本はこれを受容して諸藩・夷狄を支配する帝国型国家を構築し、国家支配に組み込まれない東北・北海道・新潟地方の民の夷狄の一つの蝦夷として設定した。この意味では蝦夷は政治的概念である。帝国型国家では地域・人民を天皇の支配の内か外かによって化内・化外に分け、夷狄は諸藩とともに化外に属するるという考えが有力であるが、律令法においては化外諸は諸藩だけで、夷狄は服属しているか帰属をよていされたものとして化内に位置図けられていたと考えられる。蝦夷の表記は7世紀半ばに成立し、その以前は「毛人」の表記を用いる。「蝦夷」の語は中国における東方夷狄の「夷」とエビ、ガマガエルなど体をかがめている小生物を意味する「蝦」の合成語で、日本における造語「蝦夷」の読みはエミシ、エミス、エブス、エビシで8世紀にはエビスと読まれた。エゾのの語は12世紀から見え始める。「蝦夷の文化」形質人類学の上では蝦夷と呼ばれた人々には倭人とそれと共通の祖型から発し別な進化を遂げた続縄文人とを含む。文化的に東北地方北半は縄文文化の系譜を引く北海道系の文化と弥生文化の系譜を引く西日本系の文化が混在する中間地帯で、蝦夷の文かは両者の複合的なものである。「古事記」「日本書紀」などにみるような古代国家が蝦夷を未開な狩猟民と表現するのは、蝦夷・夷狄と位置づけが野蛮人であることを強調するために強調するために一部の生業を誇張したからである。
「古代の群像・天智天皇」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍
古代7世紀の天皇。661年~668年称政、668年~7671年在位。中大兄皇子・葛城皇子・開別皇子とも言い、諡号を天命開別天皇ともいう。父は舒明天皇、母は皇極、斉明天皇。同母の弟妹に天武天皇(大海人皇子)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)がある。異母兄古人皇子の女、倭姫王を皇后として「日本書紀」によれば8人の嬪・宮人と間に建皇子・川島皇子・志貴皇子・大友皇子(弘文天皇)・鵜野讃良皇女(持統天皇)など4人の皇子と、10人の皇女(元明天皇)があった。641年(舒明天皇13)父舒明天皇の死を受けて母の皇極天皇が即位したが、この年に中大兄の皇子は舒明天皇の殯宮で16歳で柱(生前の徳行などを称え、死を悼んで詞を述べる)をした。中大兄の皇子は当時の有力な皇位継承候補者の一人であったが、権力者であった蘇我氏と対立する立場にあった。おりからの中国では唐の帝国が発展して周辺に威圧を加え、朝鮮でも高句麗・百済・新羅3国が覇権を争うという緊迫した事態の中で、権力集中化を図る中臣(藤原鎌足)は中大兄皇子に接近し、二人は645年(大化元)蘇我蝦夷を・入鹿父子を倒し、新政権を樹立した。中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子として、都を飛鳥から難波に遷し中臣鎌足を内臣、中国帰りの知識人である高向玄理・僧旻を博士に任じ、旧来の世襲的な官制を改め、地方で国造の支配するクニに変えて評の制度を敷き、田地の調査を行い、統一的な税制を志向するなど、いわゆる大化の改新の政治改革を推進した。653年(白雉4)孝徳天皇と対立し飛鳥へ帰っていったが、655年(斉明天皇元)工業区上皇が重祚して斉明天皇になると引き続き皇太子として国政を掌握した。660年唐・新羅が百済を滅ぼすと、日本は百済の遺臣の反乱を支援し、軍を朝鮮に派遣することに決した。翌年斉明天皇は筑紫で客死すると、中大兄皇子は皇太子の地位のまま朝鮮派遣軍の指揮を執った。日本軍は663年(天智天皇2)白村江で唐の水軍と戦って大敗し(白村江の戦)以降中大兄皇子は、唐・新羅の侵攻に備える一方、国内の政治的動揺を抑えることに意を用いた。664年には26階の新冠位を制し、諸氏の氏上や、私的な領有民としての民部・家部の制を定めた。その後唐との関係が好転すると、667年、近江大津宮に遷都し、翌年668年、即位して天智天皇となった。(近江朝廷)670年に全国的な戸籍である庚午年籍が作られた。「弘仁格式」序に言う天智朝のいわゆる近江令は、まとまった法典として成立するには至らなかった。中国的要素の教養をもつ百済の貴族の渡来により、近江の朝廷では漢詩文が高度なはってを示し、その影響から和歌も形を整え、額田王等の歌人が活躍した。671年、天智天皇は子の大友の皇子を太政大臣として12月、46歳で没した。
「古代の回想・長屋王の変」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
長屋王の変、729年(天平元)2月に起こった。左大臣長屋王が自殺に追い込まれた事件。長屋王が密かに左道を学び国家を傾けようとしていると密告を受け、兵が王宅を包囲し、取り調べの結果、王は自刃。妻の吉備内親王、子の膳夫王、桑田王、葛木王らも後を追い、夫妻は生馬山に葬られた。家内の人らも捕らえられ、縁坐したものいたが、まもなく王の兄弟・妻子が許されるなど、事件は終結した。これは聖武天皇と夫人藤原光明子との間に生まれた皇太子基王が前年に死去し、かつ聖武と県犬養広刀との間に安積親王が生まれるという状況下で、光明子立后を図る藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こしたものとみられる。同年8月、天平に改元ののち光明子は皇后となった。
「古代の群像・持統帝の中継」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
持統天皇(645年~702年)古代の女帝。686~690年称制。父は天智天皇、母は曽我石川麻呂の女。遠智媛
名は鸕野讃良皇女、諡号を大倭根子天之広野日女尊、また高天原広野姫天皇という。天智天皇の弟大海人皇子の后となり草壁の皇子を産んだ。672年(天武天皇元)の壬申の乱にあたって夫と行動を共にするとその後皇后となり、政権を補佐した。686年(主鳥元)の天武天皇死後は皇后のまま即位せず国制を取り(称制)689年(持統天皇3)皇太子草壁皇子が没する、翌年正式に即位をした。天皇は夫の跡を継いで律令国家建設の事業を推進、7689年飛鳥浄御原令を班賜し、官制や人民支配の体制を整えた。また初めて中国的な条坊制を採用した。藤原京の造営を進め、694年、ここに遷都。仏教の信仰にも圷、薬師寺の造営を進め、694年には諸国に金光明経を分かつなど、国家仏教を推進した。天皇は自己の系統に皇位を伝えることに腐心し、696年太政大臣の高市皇子が没すると、翌年、草壁皇子の子で15歳の軽皇子(文武天皇)を皇太子としてこれに譲位し、その後も上皇として文武天皇の政務を後見、その体制下で701年(大宝元)大宝律令が完成した。翌年12月22日没、火葬の後天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。その存在は以後の皇位継承に大きな影響を与えた。
「古代の群像・橘諸兄」マゾン電子書籍紹介。
橘諸兄・橘佐為を始祖とする古代の名門貴族。736年(天平8年)に敏達天皇の系譜を美努王の子葛城王と佐為王が、臣籍降下し橘宿祢を賜わったことに始まる。橘性は兄弟の母県犬養宿祢三千代が708年(和銅元)元明天皇より橘宿祢を賜わったことに因む。737年の疫病により藤原四兄弟の死に後に、諸兄は左大臣・正一位となり政界を指導したが、藤原仲麻呂の台頭により辞任、失意のうちに757年(天平宝字元)に死去した。その直後、子の奈良麻呂も仲麻呂打倒計画したとして獄につながれた。9世紀、奈良麻呂の孫橘嘉智が嵯峨天皇の皇后となり仁妙天皇を産み勢力を回復した。子弟のために学館院を創設した。三筆の一人橘逸勢が、842年(承和9)承和の変ともあり、橘氏の勢力は檀林皇后の死後衰退していった。
「古代の群像・天武帝の謎」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
天武天皇(?~686年)古代の天皇。673年~686年在位。父は舒明天皇、母は皇極天皇で、天智天皇・入間皇女の母妹、同母弟。大海人皇子と言い、天智天皇皇女のウノノサラサ皇女(持統天皇)を皇后とした。「日本書紀」によれば、皇后の産んだの草壁皇子他・大津皇子・長・弓削・高市・新田部・忍壁・磯城の諸皇子と大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・託基諸皇女とがあった。「日本書紀」には668年(天智天皇7)立太子したとあり、天智朝において重要政務に参画したと思われるが、やがて天智天皇と疎隔を生じ、671年には天智天皇の子大友の皇子が太政大臣となった。同年天智天皇の死の直前に大海人皇子は近江を去って吉野に引退、翌671年(天武天皇元)には吉野を脱して美濃に赴き、東国の兵を集めて大友皇子を擁する近江の朝廷を倒して(壬申の乱)、翌年天武天皇となった。即位後の天皇は、朝鮮半島を統一を完成した新羅との国交を保持しつつ、中国の唐とは交渉を断ち、強大な皇権の下で政治の主導権を握り、畿内豪族層の結集の上に立つ中央集権的政治体制を確立に努めた。天皇は豪族層を国家の官人として組織することに意を用い、673年には大舎人の制を、678年には官人の勤務の評価・昇進の法を定め、また685年には親王をも授与の範囲を含める新しい官位制を施行した。この前年のh八色の姓の制定も、位階の制と結合した朝廷の新しい身分秩序を定めたものである。皇族・豪族の経済的基盤についても、675年、天智朝に諸氏に賜わった部曲を廃止し、食封性にも改革を加え、封主・封民間の私有民的な関係に徹しせしめた。天皇はまた理念的な面で天皇を中心とする支配層の結束に努めた。大来皇女を斎宮とするなど伊勢神宮の祭祀を重んじ、広瀬・龍田の神の祭祀を国家の手で行い、国造を諸国の大祓いにに奉仕させるなど、神祇の祭祀権を天皇に集中させた。仏教については大官大寺等の造営し、また地方に普及に進める一方で、寺院・僧尼には厳しい統制を加え、鎮護国家のためのものとしの位置づけを図った。宮廷においては中国風の衣服をや礼法を定め、礼楽備わった威容を誇示することによって務めるとともに、官人には武装を整え、乗馬に習熟することを命じた。681年における帝紀・上古諸事に記定「古事記」序にみえる帝紀・旧辞の削偽定実等の事業も、諸氏の由来を皇祖神から連なる天皇系譜、歴代の事績の中に位置づけ、全支配層の意識のうえでの一本化を意図としたものとみられる。天皇は皇位継承の紛争の再燃化を恐れ、679年には皇后・諸皇子と吉野で会盟し、681年には皇后を母とする草壁皇子を皇太子にとしたが、大津皇子も才能に優れ、皇太子地位を脅かした。686年(朱雀元)9月9日、天皇は病により没した。天皇死の直後、変によって大津皇子は自殺した。その後、皇太子の草壁の死を受けて即位した持統天皇は夫の事業を継承し、飛鳥浄御原の施行や藤原京への遷都を実現させた。
「古代の群像・藤原仲麻呂」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
藤原仲麻呂(706年764年)奈良時代の官人。のちに藤原恵美義勝という名前に改名。武智麻呂の第二子。母は安倍貞吉もしくは真虎の女貞媛。叔母光明皇后の信任を得て政権を掌握した。民部卿、参議、左京大夫、近江守、式部卿などを歴任し、749年(天平勝宝元)孝謙天皇が即位すると大納言となり中将大将を兼ね、光明皇太后のために新設された紫微中台の長官をも兼任する。756年聖武大上天皇は道祖王立太子を遺詔して死去するが、757年(天平法宇元)天皇、皇太后と偽って道祖王を廃し、自分が後見していた大炊王を皇太子に仕立て上げた。同年紫微内相となって内外諸兵事をつかさどり、橘奈良麻呂らの反乱計画(橘奈良麻呂の乱)を未然に鎮圧して反対勢力を一掃し、兄の右大臣豊成を左遷して政権を掌握した。758年大炊王即位(淳仁天皇)に伴い、大保となり藤原恵美義勝の名を賜わり、鋳銭、挙稲、恵美家印使用などの特権を得た。760年に大師(太政大臣になる)同年光明皇太后が死去すると、権勢は揺らぎ始める。道鏡を寵愛する「孝謙大上天皇と仲麻呂の傀儡である淳仁天皇の関係が険悪化し、762年には太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握の宣言に至り、その対立は決定的になった。764年ついに武力衝突し、緒戦に敗れて逃走し仲麻呂は近江の国戦闘の末斬殺された。