「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『戦国大名・敗将の有終』アマゾン電子書籍紹介。

2019-05-27 06:55:08 | 温故知新
『戦国大名・敗将の有終』アマゾン電子書籍紹介。
飛鳥奈良時代から四〇〇年間も長期にわたって平穏な時代から、武家天下への鎌倉時代の百四十年余りを経て、再び京都の室町幕府の二百四十年から江戸時代の天下泰平の江戸時代までの間に、安土桃山時代の前に、日本史上に例を見なかった下剋上の親、主君を斬殺する逆罪・裏切り・騙し討ち・兵糧攻めと農民を含め全員を焼き殺しや日干し攻めなど一般の農民も交えた皆殺し・容赦ない卑怯な戦法がまかり通るのが戦国時代であった。華々しく天下取りの戦国武士は野山を駆け抜け、大きく時代を変えて、秩序を踏みにじって天下取りに血道を上げて京都を中心に諸国を駆け巡った。勝者と敗者の勝敗をかける明け暮れに、勝者の大名は後世にその名を残し、その雄姿を日本史上に標榜を立てた。だが、戦国大名の敗将を語られることは少ない。僅かの隙を突かれて、運悪く散った武将、敗将の要因は様々、運も家臣も天候にさえ見離されて野山に朽ち果てた武将も少なくない。ここに、勝者に焦点を合わせるのではなく、敗将にも焦点を当てる

歴史の回想『五山・十刹の盛衰』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-05-26 06:21:29 | 温故知新

『五山・十刹の盛衰』アマゾン電子書籍紹介。
 朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格。南宋(なんそう)の禅宗制度を移入したもので、朝廷や幕府が住持を任命する。
 臨済宗の五山に「このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
 五山、十刹(じっさつ)、諸山(しょざん)の3種の寺格がある。史料のうえで最初に五山に列せられたのは正安元年(1299))5月の鎌倉浄智寺で、そののち応長元年(1311)頃に鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺が加えられた。
 京都の禅寺は、さらに正慶2・元弘3(1333)10月に大徳が五山に列し、翌年正月南禅寺が五山第一に列せられた。
 建武年中(1334~1338)には建仁寺、東福寺も五山に加えられた。 
 やがて室町幕府が成立して天龍寺が建てられると、各寺の位次が定められるようになった。
 将軍足利尊氏は康永元(1342)4月、五山第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺、凖五山浄智寺と定めた。
 延文3年(1358)9月、将軍義詮(よしあきら)は第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とした。
 このうち建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が鎌倉五山、ほかが京都五山である。
 至徳3年(1386)7月には、将軍義満によって創立された相国寺を加えて、五山之上南禅寺、第一天龍寺・建長寺、第二相国寺・円覚寺、第三建仁寺・寿福寺、第四東福寺・浄智寺、第五万寿寺・浄妙寺という京都五山優位の位次が初めて決定された。のち一時期、義満は相国寺と天龍寺の位次を取り替えたが、やがて元に復した。
 このように五山の順位は権力者が替われば順位が変わり、その後、京都では大徳寺と妙心寺では時の執権者の意に沿わなかったとか政治的に考慮して林下として加えることが無かった。
 五山に次ぐ十刹には、浄妙寺や豊後(ぶんご)の万寿寺などが鎌倉末期に列せられたのが初見で、ついで暦応4年(1341)8月、尊氏によって相模(さがみ)浄妙寺・相模禅興(ぜんこう)寺、筑前聖福(しょうふく)寺、京都万寿寺、相模東勝寺・相模万寿寺、上野(こうずけ)長楽寺、京都真如(しんにょ)寺・京都安国(あんこく)寺、豊後万寿寺の10か寺が決められた。
 そののち義詮、義満によって一部の改定が行われたが、康暦2年(1380)正月、義満によって第一等持(とうじ)寺(京都)、第二禅興寺、第三聖福寺、第四東勝寺、第五万寿寺(京都)、第六長楽寺、第七真如寺、第八安国寺(京都)、第九万寿寺(豊後)、第十清見(せいけん)寺(駿河(するが))の十刹と、臨川(りんせん)寺(京都)、宝幢(ほうどう)寺(京都)、瑞泉(ずいせん)寺(相模)、普門寺(京都)、宝林寺(播磨)、国清(こくしょう)寺(伊豆)の凖十刹、計16か寺の位次が決められ、ここに十刹は10か寺より多い一種の寺格に変わった。
 ついで至徳3年(1386)7月に等持寺・臨川寺・真如寺・安国寺・宝幢寺・普門(ふもん)寺・広覚(こうかく)寺・妙光(みょうこう)寺・大徳寺・龍翔(りょうしょう)寺の京都十刹と、禅興寺・瑞泉寺・東勝寺・万寿寺・大慶(だいけい)寺・興聖(こうしょう)寺・東漸(とうぜん)寺・善福寺・法泉寺・長楽寺の関東十刹が決定されたが、こののち将軍義持の頃からしだいに数を増し、文明末年(1486)頃には46か寺、さらに中世末には60か寺余の多きに達した。十刹に次ぐ諸山は、元亨元(1321)に相模の金剛崇寿(こんごうすうじゅ)寺が列せられたのが初見で、そののち各国の有力禅寺がしだいに加えられて、江戸初期には全国で230か寺を数えるに至っている。
 これら禅宗官寺の多くは将軍の御教書(みぎょうしょ)によって認定されたが、なかには北朝の院宣(いんぜん)や南朝の綸旨(りんじ)によるものもあった。
 なお、禅宗官寺は原則として五山のどの派の者も住持になりうる十方(じっぽう)住持制をとっており、その住持期間も原則として三年二夏(満2年)と決められていた。五山、十刹、諸山に編成された禅宗寺院を五山派と総称し、林下(りんか)と区別する。


『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍紹介

2019-05-24 06:08:28 | 温故知新

『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍紹介
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
 感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇壮大な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情,今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。

『南都・北嶺の僧乱記』アマゾン電子書籍紹介。

2019-05-23 05:21:47 | 温故知新
『南都・北嶺の僧乱記』アマゾン電子書籍紹介。
平城京から平安京に遷都され、仏教の朝廷への影響が一挙に比叡山の天台系に主導権が移って行き、宮中の御斎会は仏事の覇権争いが日々激しくなっていき、武力を持って自分たちの言い分を押し通すために朝廷に押しかけていった。
 興福寺は藤原氏の氏寺として権力を行使、春日社の神木を持って京都に狼藉を働いた。
 それを屈し、南都の言い分を聞き入れた朝廷に、比叡山延暦寺側は大挙僧兵が日吉神社の神輿を持って京都に押しかけ、神々の威光を持って朝廷の大臣や上皇に強訴を繰り返した。
 有力寺院は財力的にも力をつけ、武力もそれぞれの寺院に僧兵を南都の興福寺・比叡山延暦寺も常時三千人を下らなかったと言われている。 武力すなわち朝廷への発言力となり、興福寺の春日社の神木や、延暦寺の日吉社の神輿で都に押しかけて狼藉を働いた。
 京都の役人や公家は神の威光の神罰を恐れて手出しができず、僧兵の強訴拡大に拍車をかけていった。
 ところが、北嶺の比叡山にも内紛が勃発、円仁派と円珍派に分裂し、円珍派は坂本の園城寺を拠点に寺門派を形成し、僧兵を持っての焼討の応酬を重ねた。
 一方、南都では興福寺と東大寺が双方僧兵を持って南都の主導権廻り僧兵の攻撃の応酬が繰り返され、複雑に南都六宗は荘園と僧兵の武力をもって戦いが続き、多武峰の拠点を持つ談山神社の僧兵は比叡山延暦寺派に組み込まれ、中国地方の大山寺まで強大な僧兵を持つ勢力へと成長し

『魏志和人伝』アマゾン電子書籍紹介

2019-05-22 05:48:38 | 温故知新

『魏志和人伝』アマゾン電子書籍紹介
魏志から見た和人(日本)と国交で和国は大きく三つの国に分かれ紛争は絶えなかった。中でも最も大きい山都国は周辺に領主・郡主らの部族を三〇箇所を持っている。敵対国として九国の球磨国は幼い女子が女王で、もう一国の勢力が中国半島の出雲国も二十箇所の部族や領主を有している。山都大国が中国の皇帝に献上し良好な関係を作り、和国の支配者の扱いを期待し、朝貢の返礼に銅鏡五十枚下賜された、それを聞いた球磨国は中国の皇帝に朝貢し、和国の王印を下賜された。出雲国と球磨国の関係は良好だったが、山都大国の軍勢が出雲国を攻撃、直ぐに球磨国に応援を求めた。山都大国は球磨国に攻め込み、征服をする。ところが山都大国の弟が反乱し、兄の王を幽閉した。兄王は球磨国まで逃げ込み山都大国の軍勢を見方に山都大国に攻め上がり、弟王を滅ぼした。兄王は球磨国の女子の女王に一目ぼれで結婚の運びとなった。


『日本仏教十三宗諸派総覧』グーグル・楽天・角川・書籍紹介。1512円。

2019-05-21 05:18:20 | 温故知新

『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン書籍紹介。1512円。
「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。
仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。
「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。
ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。
「十三宗五十六派」と言われた時代から、時代の変遷で、離合集散、栄光衰退、宗派間の攻防などで、攻防は繰り返し、吸収されたり、消え去った宗派も少なくない。
ここに伝統的に宗派として存続した仏教伝承から時代の趨勢に消え去った宗派まで網羅し、列挙し日本の歴史の重要な要因として明記した。


『幕政三改革と世情と功罪』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介

2019-05-19 05:36:42 | 温故知新


『幕政三改革と世情と功罪』アマゾン電子書籍紹介
江戸時代の封建的時代にも幕政の改革が必要として執り行われたが、何時の時代にも改革はリスクと弊害をもたらす者である。
江戸時代の中期の徳川幕府八代将軍吉宗が起こした「享保の改革」享保改革は紀州藩主から将軍に就任した吉宗は紀州時代の政策を生かし、より庶民的な立場に立って、概ね好評で自ら政務を執ったので一定の評価を得たと言えよう。
寛政改革」の松平政信は役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。 
 その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。
 結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。 
 定信引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
 定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
 その後、老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。
 江戸後期の水野忠邦の「天保の改革」は失政に終わり、その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。
 しかし老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、弘化二年(1845)九月、加増のうち一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。
 享保・寛政・天保年間の庶民の暮らしぶりと、改革は庶民の暮らしに豊かさをもたらしたか、疲弊にだけに終わったのか、江戸幕閣の幕政の政策と庶民の暮らしぶりの功罪を検証してみた。


『重源』アマゾン書籍紹介1080円

2019-05-17 05:11:40 | 温故知新

『重源』アマゾン書籍紹介1080円
重源と言えば東大寺再建で知られている。平安末期の戦乱の中で、醍醐寺に出家し、流浪僧から、宋に渡航する事三度、念仏聖から、東大寺再建まで八六歳の生涯の物語である。
一、「上醍醐寺に出家」
重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和 国は平群県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平群で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。西国観音三三所有名な、上醍醐で修業を積み、下醍醐で教学を収めてた。.
二、「修験者への道
遊学に出た重源は、修験者の道を歩む、まず、大峰山に向かい、洞川から大峰山に表行場・裏行場の荒行を修行し、峰々を駆け巡り、ついで吉野山の金峯山寺の蔵王 権現で感得し、吉野から大峰奧崖は、、吉野から熊野まで七五靡くまで、形成されている。熊野三山の修行終えて、伊勢神宮参拝から御岳山で修験道を納めて京都に戻る。
三、「法然に浄土教を学ぶ」
京都に戻った重源は、時の流行の阿弥陀信仰に法然に浄土教を学び、阿弥陀聖として高野山など、流浪僧となって、浄土教を布教し、念仏聖となる。
四、「唐へ求法への道」
「中国三度入宋」入宋を試みて交易船で中国に阿育王寺と国清寺に修行し教学を納め帰国、その際い、阿育王寺より、舎利殿再建の資材の勧進を依頼された。二回目は重源が目指す五台山に登る。五台山で修行、教学を収めて帰国した。三度目は阿育王寺に依頼された資材の手配で入宋し舎利殿完成確認し帰国しあt。
五、「東大寺焼失」
平氏と南都六大寺が対立、南都僧兵を持って七〇〇〇人で対抗し、平重盛は4万の兵を持って奈良を攻撃し、奈良は悉く焼失し、東大寺を始め興福寺を焼失し、灰塵と化した奈良東大寺の再建に朝廷と公家・貴族の嘆きと再建の熱望した。
六、「東大寺再建と勧進」
東大寺再建に白羽の矢が重源に、六一歳の高齢の重源、一大決心、東大寺再建総勧進と言う重責に、西に東に奔走し、工事に勧進に何千と言う人々を束ね、結束させ見事大仏を完成さたが、大仏殿完成前に重源死去した。後は行勇と西行に任せられて完成した。 
七、「浄土寺建立」
浄土寺の建立と阿弥陀三尊像という、重源生存中の最大傑作の素晴らしさとその謎を探り、その偉大なる重源の企画力と行動力を表し、物語にした。

歴史の回想『後白河・院政の攻防』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介

2019-05-16 05:32:16 | 温故知新

『後白河・院政の攻防』アマゾン電子書籍紹介
平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。
長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。
病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。
信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。
しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。


『宇都宮城の釣天井事件』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介

2019-05-15 04:46:40 | 温故知新

『宇都宮城の釣天井事件』アマゾン電子書籍紹介
本多正信・正純は徳川幕府創設期に幕臣として貢献し、絶大な信頼を得て、栄誉栄華を手にし、幕閣の中枢として、辣腕を振るったが、創設にこれと言った功績のままに立身出世を成し遂げ、周りの大名の不手際には容赦なく制裁と罰を将軍家の意向で裁可してきた。正純は父正信、将軍家康が亡くなって後ろ盾を失い、日頃より反目する者の恨み妬みが「宇都宮城釣天井事件」の謀略が仕込まれて、失脚し惨めな最期を迎えることになった。二代将軍秀忠でさえ疎ましく思っていた。


『天明飢餓の鎮魂』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介

2019-05-14 05:34:30 | 温故知新

『天明飢餓の鎮魂』アマゾン電子書籍紹介
天明年間の飢餓は悲惨で過酷なものであった。
ここ信州地方の、この川上村にも決して無縁ではなかった。
天候不順に加え、浅間山大噴火が、田畑に灰が降って耕地を荒廃させた。
その年も日照り続きで、百姓は空を見上げては、ため息ばかりつく日々が続いた。
天候の不順に、幕府の田沼意次の失政で、追い打ちをかけるように被害を増大させた。
幕藩体制の確立ととともに新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。
しかし行き過ぎた開発は人手不足に招き、強引に治水した河川が耕作地に接近しすぎたために、洪水を頻繁に発生させ、米の生産を低下させた。
さらに田沼意次の重商主義政策が打ち出され「年貢増微策」転換され、稲作に行き過ぎた奨励、食の備蓄米の払い底し、江戸への廻米に向けるなど失政が重なった。
さらに貧困から抜け出すために江戸などの都会に向かって農民の流失に歯止めがきかず、均衡が取れなかった。
また田沼政治の金融政策の失政で米市場の機能しない状態が混乱に拍車をかけた。
 農民の不満は生死をかけて、一揆が勃発し、打壊しを、もって対抗手段に出た。


「日本二十三大師の足跡」グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介

2019-05-12 06:11:55 | 温故知新


「日本二十三大師の足跡」アマゾン電子書籍紹介
 日本では「大師」と言えば弘法大師を指す場合が多い。正式な大師号の勅贈は、清和天皇の貞観八年(866)七月、最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が初めて贈られた。僧に贈られる位号としては、他にも国師号、禅師号などがある。
現在の日本では、特に空海を指す事が多く、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言も残っている。
円光大師法然房源空(1133~1213)浄土宗開祖。元祖大師。土佐配流された後、帰京。布教に努める。『選択本願念仏集』などを撰述。加諡された正確な大師号は、 円光(東山天皇・1697)東漸(中御門天皇1711)五百回忌)・慧成(桃園天皇・171)五五〇回忌)・弘覚(光格天皇・1811)六〇〇回忌)・慈教(孝明天皇・(1861)六五〇回忌)・明照(明治天皇・(1911)・七〇〇回忌)・和順(昭和天皇・1961)・七五〇回忌)・法爾(今上天皇・2011)・八百回忌)大師(八つ)。
ここに「日本二十三大師の足跡」として取り上げて記してみたが、また一宗派の尊称として大師と呼ばれている場合もあり、他にも記録的に曖昧な表記で大師と記されている者もあるが、宗派間の争いで尊称として贈られた場合もある。特に近世で明治天皇・大正天皇・今上天皇も大師号を勅贈されている場合もあり、定めらえた大師号の数を捉えるのは難し。
【十八大師】
朝廷から大師号を贈られた一八人の高僧。天台宗の伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)・慈慧大師(良源)・慈摂大師(真盛)・慈眼大師(天海)、真言宗の弘法大師(空海)・道興大師(実慧)・法光大師(真雅)・本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師(覚鑁・月輪大師(俊芿、浄土真宗の見真大師(親鸞・慧灯大師(蓮如、曹洞宗(そうとうしゅう)の承陽大師(道元)、浄土宗の円光大師(源空)、融通念仏宗の聖応大師(良忍)の各大師。


『秀次切腹事件』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-05-11 05:52:16 | 温故知新

『秀次切腹事件』アマゾン電子書籍紹介。
豊臣秀次は、秀吉の甥である、若くして人質同様に養継子に送られ、武士として一人前になって秀吉引取られた。秀吉に継子が居なかったために、秀長、秀次は重用された。秀吉は継子を諦めたかのように、秀次を関白の位を譲り、ゆるみと驕りの素行の見受けられ世間の冷ややかな評価の最中、秀吉に待望の秀頼が誕生した。秀次の事態は急変、謀反の疑いが巷に広まった。秀吉に弁明をするが、高野に行くこと命じられ、警護は解かれて、賜死を命じられ、家臣共々切腹を強いられた。事は家臣だけではなく、一族眷属、老若なんよ死罪、遺体は四条河原に掘られた溝に打ち捨てられて、秀次は晒し首にされた。非情な秀吉の仕打ちには多くの謎が秘められて、秀吉の晩成を汚す大きな出来事であった。


『修験道の神仏』アマゾン電子書籍紹介。

2019-05-10 06:24:22 | 温故知新

『修験道の神仏』アマゾン電子書籍紹介。
仏教伝来以来、日本古来の古神道との仏教の目立った争いは無かった。当初、官寺としての仏教による鎮護国家の色彩が強かったので、神仏の競うことはなかった。
 そんな中で人里離れた山岳に神秘的支配に求める人々に古神道の神々と、仏教の密教的諸仏が融合して、独自な神仏習合の「修験道」が誕生していった。
その代表的山岳信仰の先駆者こそ「役小角」で近畿地方から九州から、四国、中国と方から東北地方まで影響され伝播されていった。九州は善正、白山は泰澄、日光は勝道、東北は能登が未開の峰々を切り開き聖地・霊地の聖域を広めていった。近畿地方の役行者を心棒する修験者は真言系と天台系に凌ぎを削り、大峰山から熊野三山まで朝野の別なく、神仏習合の権現として崇敬されていった。伊勢神宮、出雲大社、大神神社に仏教では禅宗系、日蓮宗系、浄土宗系以外は神仏混在で諸国に広まって行った。ところが、明治の神仏分離令以降、廃仏運動で分離され、仏教は被害を受けて衰退していった。中でも修験道は往時に比べて、各地に細々伝承されて行っている状態である。改めて、修験道の歩んだ歴史を振り返って見たのである。

『風雲三好一族の攻防』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-05-05 05:16:09 | 温故知新

『風雲三好一族の攻防』アマゾン電子書籍紹介。
下剋上の風雲児三好長慶が京都を支配し、一時期政権を掌握した。父の主人細川晴元と対立したが和解して晴元と戦ったが、叔父政長と対立を機に、晴元と決裂し戦う、晴元と傀儡将軍足利義輝は敗れ京都を離脱、細川氏綱を擁して上洛、京都を支配した。摂津国芥川城を本拠に政権絶叫期を迎えるが、一族の相次ぐ戦死に自身も河内国飯森山で病死した。後を引き継いだ三好三人衆が長慶の家臣松永久秀と畿内で抗争し、一向宗らと連携したが、内紛化や信長の台頭に弱体化し離合集散を繰り返し、歴史の舞台消えていった。風雲三好一族の攻防』