「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-31 07:17:23 | 温故知新

『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。
「伊予伊達騒動」は一般的に「和霊騒動」と呼ばれている。
元和六年六月二十九日(1620)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。
 宇和島藩は、慶長十九年(1614)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に十万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。元和五年(1619)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は謹慎する。実はその前にも、反清兵衛派は清兵衛暗殺を企てて、秀宗生母・龍泉院の七回忌の法要にて、当時法要の責任者だった清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。 翌元和六年六月二十九日、雨天の深夜、山家邸が襲撃され、清兵衛と清兵衛の次男と三男、そして隣家の清兵衛の娘婿、塩谷内匠とその子二人が斬殺、当時九歳だった清兵衛の四男は、現・丸之内和霊神社社殿裏の井戸に投げ込まれて殺害されたが、清兵衛の母親と妻は無事だった。秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日は大阪城の石垣修復に従事していた。秀宗はこの事件を江戸幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。 事件後、寛永九年(1932)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、その後宇和島藩では不吉なことが連続して起き、山家斬殺の祟り呪いと恐れられた。


『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-30 06:52:03 | 温故知新
『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。
「伊予伊達騒動」は一般的に「和霊騒動」と呼ばれている。
元和六年六月二十九日(1620)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。
 宇和島藩は、慶長十九年(1614)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に十万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。元和五年(1619)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は謹慎する。実はその前にも、反清兵衛派は清兵衛暗殺を企てて、秀宗生母・龍泉院の七回忌の法要にて、当時法要の責任者だった清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。 翌元和六年六月二十九日、雨天の深夜、山家邸が襲撃され、清兵衛と清兵衛の次男と三男、そして隣家の清兵衛の娘婿、塩谷内匠とその子二人が斬殺、当時九歳だった清兵衛の四男は、現・丸之内和霊神社社殿裏の井戸に投げ込まれて殺害されたが、清兵衛の母親と妻は無事だった。秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日は大阪城の石垣修復に従事していた。秀宗はこの事件を江戸幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。 事件後、寛永九年(1932)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、その後宇和島藩では不吉なことが連続して起き、山家斬殺の祟り呪いと恐れられた。




「小山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-29 06:11:22 | 温故知新

「小山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
平安後期から戦国期の武家。秀郷流藤原氏。太田行政の子政光が下野国都賀郡小山郷(現栃木県小山氏)を本拠としたのに始まる。源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の創設にも長沼、結城等の庶子家と共に活躍、有力御家人として下野守護職を相伝した。南北朝期には朝氏(南郷が南方に与したが、以降は概ね足利方に属した。しかし永徳2年(1382)宇都宮基綱を攻め殺した罪で鎌倉公方足利氏満の討伐を受け小山義政は敗死。嫡男小山若犬丸も応永4年(1397)※小山犬若丸・南北朝の武将、小山義政の子。悪四郎、隆政とも称し、義政の乱で父が糟尾山中で自害した後、陸奥三春城田村祇園上で挙兵した。鎌倉公方足利氏満が自ら出陣すると、犬若丸は祇園城を捨てて逃亡し、各地で氏満軍に抵抗を続けたが応永4年奥州会津で自害した。その後小山氏は結城基光の子泰朝を持って小山氏を養子を含めて三度の再興させた。以後も名家として勢力を振るった。享徳の乱では古河公方を支えた。天正3年(1575)小田原北条氏に敗れて配下になり、小田原征伐の後北条氏と共に滅びた。



『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円

2019-08-28 06:37:40 | 温故知新
『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』アマゾン書籍・1296円
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。

「南部氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-27 06:30:28 | 温故知新
「南部氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
平安末期以来の武家。甲斐国巨摩郡南部郷を名字の地とした清和源氏加賀美遠光三男の南部光行を始祖とする。鎌倉期には、御家人として陸奥、但馬その他各地に所領を与えられ、また得宗御内人となった一族もいた。甲斐南部は室町期まで確認できるが、著名なのは、日本最北、最大の郡であり駿馬の産地として知られている陸奥国糖部郡に依存した奥州南部氏である。一戸から九戸まで郡内区画を各々名字とし、南北朝には八戸、室町・戦国期には三戸の南部信直は豊臣秀吉から糖部、岩手、鹿角、閉伊、斯波、久慈、遠野の七郡を安堵、さらに稗貫、和賀の二群を加えられ、近世の盛岡藩・八戸藩・七戸藩の祖となった。


「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-26 06:04:30 | 温故知新
「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
「蜂須賀氏」(はちすかうじ)安土桃山時代から江戸時代の大名。出自は、尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)を領した土豪武士。蜂須賀小六正勝が桶狭間(おけはざま)の戦いに織田信長を助けたときから頭角を現し、豊臣秀吉をもよく助け、1  天正9年(1581)に播州龍野に封じられて大名となり、嫡子家政の子蜂須賀至鎮が慶長5年(1600)徳川家康の養女を娶って家督を相続。関ケ原の戦いに家政は西軍に与したが出陣せず、至鎮が東軍に属し、本領を保った。1600年に阿波国一円を知行された。さらに家政の嫡子至鎮が元和1年(1615)に淡路を加増されたことによって、徳島藩25余万石の大大名に列せられた。その後は忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕を経て、茂韶のとき(1869年)版籍を奉還することによって、270年続いた蜂須賀氏の阿淡両国支配に終止符が打たれた。

『日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。

2019-08-24 06:18:49 | 温故知新

『日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。
日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証して見た。


『日本人の観音信仰』アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-23 07:16:44 | 温故知新
『日本人の観音信仰』アマゾン電子書籍紹介。
日本に数ある諸仏の中で、最も早く到来した仏さんは観音菩薩である。苦しむ衆生を救済するという現生利益の観音菩薩は、日本人に親しみと、馴染み深く、願いをかけたり、厄除けにも御利益の有る人気のある仏さんが「観世音菩薩」と言えよう。諸国の観音霊場巡りは、今日の札所巡りの朱印巡りに大きな影響を与えた。
筆者も西国観音巡拝は二度結願満願、新西国観音巡りも結願満願している。
一度目はマイカーで観音巡って地図を片手に迷いながら廻ったものである。二度目はバスツアーで添乗員さんが案内、朱印帳なども世話をしてくれて各地の名所古跡を案内、観音札所の由来を説明してくれて、巡拝の作法やお経の唱え方まで教えてくれ気軽に参加できるようになっている。
信仰と観光と好きな歴史が学べる一挙三徳の小旅行である。また同行者の会話も帰りには親しみが湧き、信仰による交流会話があって、都会の中に暮らし、近隣の会話も少ない当世にはまたとない機会でもある。何より朱印帳や本尊のお姿集めも、添乗員の人が世話をして代行してくれる。朱印帳に描かれていく宝印を見て、次に行こうと思う励みにもなる。1000年前より神社仏閣のお参りに、村人らは諸国を自由に往来できない時代、信仰とあればお伊勢参りも、お遍路も、観音霊場巡りも通行手形などが許可されて、お伊勢参り、遍路参りに西国観音霊場巡り行ける機会を得ることが出来た。諸国を廻るまたとない機会でもあった。
観音巡拝もお伊勢参りもお遍路も、金持ちの大店ばかリが行けたわけではない。民百姓、町人らは金を出し合って「講内」を作って少しの金を出し合って、くじ引きで四,五人が巡拝やお参りに出かけていく。帰りには、各戸へお札や暦(こよみ)や各地の情報を持ち帰り、便利な物の利用や工夫が伝播されていった。巡礼やお参りは、都合の良い物見遊山の好奇心も兼ねているのである。ここに、どうゆう風に日本に観音菩薩が根付き、信仰されていったかを述べてみた。

「京極氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-22 06:16:38 | 温故知新
「京極氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
近江の国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、佐々木信綱の四男京極氏信(1220~1295)が京都の京極高辻に居を構えたことから京極氏を名乗る。南北朝から室町時代に佐々木高氏、京極導誉が足利尊氏に仕えて勢力を拡大し、さらに高秀、高詮等が将軍の信頼を得て、同族の六角氏と近江を二分して北6郡(愛智・犬上・坂田・浅井・出雲・伊香・高島)の守護職得、四職(侍所所司)家となった。京極高数(?~1441)は嘉吉の乱で将軍義教とともに討たれた。
京極持清は応仁・文明の乱で東軍細川勝元方として活躍したが、一族の内訌などにより急速勢力を失う。京極高清(?~1538)は重臣多賀氏の離反や将軍家から追討、六角氏との対立や隣国からの侵略などで一時領国を追われた。その後家臣の上坂氏、次いで浅井氏の台頭によって北近江で実権を失った。近世では讃岐国丸亀藩・多度津藩・丹後国宮津藩主・津山藩主・田辺藩主・但馬国豊岡藩主となる。






大久保長安事件の陰謀』アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-21 05:46:46 | 温故知新
大久保長安事件の陰謀』アマゾン電子書籍紹介。
一階の猿楽師から、武田家臣団に加えられて出世したが、武田氏崩壊後は浪人になって流浪後、家康の大久保忠隣に召し抱えられ、武田時代の土木事業・農業事業で技術を生かし活躍し、家康の関東入国後領国支配で辣腕を振るって、十年以上も費やして諸国に一里塚を設置し、検地法を編み出し、石見・佐渡・伊豆の金銀山の鉱山開発し、膨大な資金を私財、蓄財した嫌疑を持たれ、家康にその資金で徳川幕府の転覆陰謀策に嵌められた。一族眷属は連座し死罪、磔晒し首に処罰をされた。史実を明確にされることなく、多くの謎に秘められたなぞ多い不思議な事件であった。


『日本人の釈迦仏と阿弥陀仏』アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-20 06:59:03 | 温故知新
『日本人の釈迦仏と阿弥陀仏』アマゾン電子書籍紹介。
日本歴史の三大要因の一つに仏教伝来がある。6世紀半ば欽明天皇の時代に百済から仏教が伝わったと言うのが一般的である。仏教は紀元前5世紀頃インドの仏陀に端を発し、中国、朝鮮半島などを経て伝わった。インド中国と経て来る内にバラモン教に影響を受けた諸仏なども加わって、多種多様の諸仏が形成されて伝わった。中でも、実在したと言われる釈尊(仏陀)と大乗仏教で重要な尊像の一つの阿弥陀如来の無量寿如来・無量光如来という、西方極楽浄土に有って衆生を救済するという阿弥陀如来は釈迦如来に次いで古く形成され、中国に伝わり、やがて日本に伝わって我が国の仏教に大きな影響を与えた。釈迦如来の法華経を元に影影響を受けた日蓮宗や法華宗に、釈尊から何代も伝承された達磨によって禅宗が形成確立された。釈迦仏と阿弥陀仏がインドでどう形成され、小乗仏教として、又大乗仏教として、中国で熟成され、仏教解釈にその歴史を見ることが出来る。やがて日本にアジア全域に伝播され、日本では官寺から一般民衆の信仰として、宗派として大きな二つの流れを作った。釈迦仏からは、日蓮宗、法華宗系、禅宗系から臨済宗・曹洞宗などが形成されていった。また阿弥陀仏系の宗派からは浄土宗。真宗、時宗、融通念仏宗が立宗開化させた。釈迦仏と阿弥陀仏のインド誕生から、中国で熟成された経歴を考察しつつ、日本人に支持され精神的支柱としてあり続けた意義と歴史に及ぼした影響を考えてみた。

「朝倉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-18 06:04:48 | 温故知新
「朝倉氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
室町幕府管領家斯波氏の重臣、後に越前の戦国大名。但馬国朝来の土豪であったが、南北朝初期に越前守護斯波氏に従って越前に入部し、足羽郡を中心に土着的な勢力を伸ばす。長禄2年(1458)に朝倉孝景は守護代甲斐氏と結んで、守護斯波義敏方の勢力を討って頭角を現し、足羽郡の一乗谷を本拠地として軍事力を強化。孝景は応仁・文明の乱の中の文明3年(1471)に西軍から東軍に寝返って自立し戦国大名になるが。この時に越前守護職を与えたと伝えらえている。永正3年(1506)以降は加賀の本願寺派一向一揆と敵対していたが、永禄11年(1573)一乗谷で元服した足利義秋の仲介で本願寺と和睦し、浅井軍と連携し、反織田信長勢力の一環となった。天正元年(1573)8月に信長に敗れ、朝倉義景は自殺、朝倉氏は滅亡した。

歴史の回想・『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-08-17 07:10:20 | 温故知新

『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。 
戦国の乱世、紀州、和泉、河内の国々は国主・頭目等の治安維持を守り切れず、三好一族や松永久秀などの戦国大名の台頭によって紀州などの僻地に追いやられ、宗教集団の根来衆や寺社勢力の総国が勢力が台頭し、紀伊半島に雑賀衆や泉南地域の一向宗や紀州半島の奥地の熊野などに独自の集団を作りあげた。また湯河一族なども独自の自治国を作りあげた。
 信長と秀吉は三好一族などの一掃したあと紀州征伐に取り掛かったが、信長は本能寺で横死、秀吉が紀州征伐に根来寺、粉河寺、高野山など雑賀衆・根来衆の鉄砲に武装化した集団で天下統一の目前に向かって来た。根来寺、粉河寺は秀吉軍の18000人兵士に大炎上し灰塵と化した。
 高野山は攻撃前に降伏し、武装解除し秀吉軍に帰順の意を表し高野山の焼討は免れた。
 岸和田城を中心に戦いが繰り広げられ大坂襲撃、和泉の戦、千石堀攻撃は大規模で熾烈を極めた。太田城の水攻めは長時間んを要し秀吉軍10万の兵力を持って陥落させた。その後は紀伊半島の奥地の紀伊国一揆など地侍反乱で鎮圧で南紀攻略を持って紀州征伐に収束を見た。


戦国大名・敗将の有終』アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-16 07:35:35 | 温故知新
『戦国大名・敗将の有終』アマゾン電子書籍紹介。
飛鳥奈良時代から四〇〇年間も長期にわたって平穏な時代から、武家天下への鎌倉時代の百四十年余りを経て、再び京都の室町幕府の二百四十年から江戸時代の天下泰平の江戸時代までの間に、安土桃山時代の前に、日本史上に例を見なかった下剋上の親、主君を斬殺する逆罪・裏切り・騙し討ち・兵糧攻めと農民を含め全員を焼き殺しや日干し攻めなど一般の農民も交えた皆殺し・容赦ない卑怯な戦法がまかり通るのが戦国時代であった。華々しく天下取りの戦国武士は野山を駆け抜け、大きく時代を変えて、秩序を踏みにじって天下取りに血道を上げて京都を中心に諸国を駆け巡った。勝者と敗者の勝敗をかける明け暮れに、勝者の大名は後世にその名を残し、その雄姿を日本史上に標榜を立てた。だが、戦国大名の敗将を語られることは少ない。僅かの隙を突かれて、運悪く散った武将、敗将の要因は様々、運も家臣も天候にさえ見離されて野山に朽ち果てた武将も少なくない。ここに、勝者に焦点を合わせるのではなく、敗将にも焦点を当てる

「柳沢氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-08-13 05:49:33 | 温故知新

「柳沢氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
江戸時代の普代大名。戦国時代は甲斐武田氏に仕え、後に徳川氏の家臣となる。柳沢安忠(1602~1687)のとき、3代将軍家光の弟駿河大納言徳川忠長付となる。忠長の改易により浪人、やがて上野国舘林城主綱吉に仕えた。その子柳沢吉保は、綱吉の将軍家相続に伴って幕臣になり、側用人、老中上座、甲府城主(15万石余)にまでなり、松平姓を名乗ることを許される。子の柳沢吉里(1687~1745)のときに大和国郡山藩主となり、幕末まで存続。帝鑑間詰。明治維新後は柳沢姓に復し、伯爵を授けられた。別に吉保の四男経隆は越後黒川藩主、五男の時陸も越後国三日市藩主となって分家し(ともに1万石)幕末に至った。2家とも帝鑑間詰。維新後は子爵だった。犬将軍徳川綱吉と柳沢吉保の特別な側用人で江戸幕府の政治が行われ、生類憐みの令や功罪、混在した政治が執り行われた。