「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『念仏聖一遍』アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-29 06:56:07 | 温故知新
『念仏聖一遍』アマゾン電子書籍紹介。
一遍といわば、流浪僧空也に影響された踊念仏・念仏聖として諸国を行脚し信州善光寺・高野山から熊野本宮に、伊予に戻って豊後,大隅に山陽道の安芸に厳島神社から備前に、東北の白河の関から江差、平泉から松島に、美濃から伊勢神宮に参籠し但馬、因幡、大和当麻から、京都の石清水に、さらに播磨円教寺に、そして伊予大山三島神社に参拝し、終焉の地は播磨は兵庫は和田岬の真光寺で長い流浪の念仏布教の行脚の遊行を終えた。高潔な信念の念仏僧である。
 【銅鑼、太鼓、鉦をたたきながら、節を付けながら踊りながら一遍の後に弟子たち信者が続く「ナンマンダー、ナンマンダー、ナンマイダー」村々を巡り、念仏勧進の功徳を説きまわり、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算の配り札を諸国に配り巡った、文字も読めない農民や庶民にひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、西方浄土の阿弥陀様を信じる者は、来世には極楽浄土に住むことが許されるのじゃ、弥陀を称えてナンマイダー、ナンマイダーと村々の信者の弟子とどこまでも一遍

『風雲三好一族の攻防』アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-28 06:21:10 | 温故知新
『風雲三好一族の攻防』アマゾン電子書籍紹介。
下剋上の風雲児三好長慶が京都を支配し、一時期政権を掌握した。父の主人細川晴元と対立したが和解して晴元と戦ったが、叔父政長と対立を機に、晴元と決裂し戦う、晴元と傀儡将軍足利義輝は敗れ京都を離脱、細川氏綱を擁して上洛、京都を支配した。摂津国芥川城を本拠に政権絶叫期を迎えるが、一族の相次ぐ戦死に自身も河内国飯森山で病死した。後を引き継いだ三好三人衆が長慶の家臣松永久秀と畿内で抗争し、一向宗らと連携したが、内紛化や信長の台頭に弱体化し離合集散を繰り返し、歴史の舞台消えていった。風雲三好一族の攻防』


『太閤の夢の夢』アマゾン書籍1728円紹介 

2019-06-26 06:31:59 | 温故知新
『太閤の夢の夢』アマゾン書籍1728円紹介 
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
 織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
 天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
 秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。

『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-25 05:45:45 | 温故知新
『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。
「伊予伊達騒動」は一般的に「和霊騒動」と呼ばれている。
元和六年六月二十九日(1620)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。
 宇和島藩は、慶長十九年(1614)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に十万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。元和五年(1619)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は謹慎する。実はその前にも、反清兵衛派は清兵衛暗殺を企てて、秀宗生母・龍泉院の七回忌の法要にて、当時法要の責任者だった清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。 翌元和六年六月二十九日、雨天の深夜、山家邸が襲撃され、清兵衛と清兵衛の次男と三男、そして隣家の清兵衛の娘婿、塩谷内匠とその子二人が斬殺、当時九歳だった清兵衛の四男は、現・丸之内和霊神社社殿裏の井戸に投げ込まれて殺害されたが、清兵衛の母親と妻は無事だった。秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日は大阪城の石垣修復に従事していた。秀宗はこの事件を江戸幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。 事件後、寛永九年(1932)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、その後宇和島藩では不吉なことが連続して起き、山家斬殺の祟り呪いと恐れられた。


「足利将軍家の変遷」アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-24 06:12:15 | 温故知新
「足利将軍家の変遷」アマゾン電子書籍紹介。 
悪名たかい足利尊氏と言えば、一四〇年の鎌倉幕府を倒して京都に室町幕府を樹立、室町幕府を樹立し260余り、尊氏から義詮、義満から義政までは北山文化を創出し、平穏と栄華を誇ったが、成立当初では、尊氏・直義の内紛が起こり、南北朝の動乱と相まって混乱をきたした。以降政権は鎌倉、京都の二元政治の中、管領や公方の制御すら効かす、足利政権は操り人形の如く翻弄されていった。その上幕府はその曖昧さ故、政権成立後の南北朝の混乱の主人公として日本中混乱を引き起こした人物である。南北動乱は後醍醐天皇は隠岐の島に流され正慶二年(1333)に名和長利らの一族らの協力によって隠岐の島より脱出に成功、伯耆船上山で挙兵から南北朝動乱と足利幕府の尊氏の物語が始まった。二代義詮、義満らの政権基礎時代を築きつつ義満の花の御所の黄金期を迎えた。四代将軍の義持の治世には京都五山と共に北山文化が形成されていった。六代将軍の義教の赤松氏に謀られてた暗殺され、幼く継いだ七代将軍義勝も不可思議な謎の死を遂げる。九代将軍義尚若くして一年半の近江陣中で病・離合集散の流浪の末、阿波で死去の将軍義稙、前将軍の巻き返しに近江で逃れて将軍義澄病死、和合・離反を繰り返した将軍義晴陣中で早世した。将軍義輝、敵対する三好一族に邸で惨殺され、三好一族の傀儡将軍義栄、波乱の将軍義昭は最期は安穏な人生と将軍家の万丈波乱の下剋上の前章時代であった。

『日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。

2019-06-22 06:40:19 | 温故知新
『日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。
日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証して見た。


『日本人の観音信仰』アマゾン電子書籍紹介。 日本に数ある諸仏の中で、最も早く到来した仏さんは観音菩薩である

2019-06-21 07:14:55 | 温故知新
『日本人の観音信仰』アマゾン電子書籍紹介。
日本に数ある諸仏の中で、最も早く到来した仏さんは観音菩薩である。苦しむ衆生を救済するという現生利益の観音菩薩は、日本人に親しみと、馴染み深く、願いをかけたり、厄除けにも御利益の有る人気のある仏さんが「観世音菩薩」と言えよう。諸国の観音霊場巡りは、今日の札所巡りの朱印巡りに大きな影響を与えた。
筆者も西国観音巡拝は二度結願満願、新西国観音巡りも結願満願している。
一度目はマイカーで観音巡って地図を片手に迷いながら廻ったものである。二度目はバスツアーで添乗員さんが案内、朱印帳なども世話をしてくれて各地の名所古跡を案内、観音札所の由来を説明してくれて、巡拝の作法やお経の唱え方まで教えてくれ気軽に参加できるようになっている。
信仰と観光と好きな歴史が学べる一挙三徳の小旅行である。また同行者の会話も帰りには親しみが湧き、信仰による交流会話があって、都会の中に暮らし、近隣の会話も少ない当世にはまたとない機会でもある。何より朱印帳や本尊のお姿集めも、添乗員の人が世話をして代行してくれる。朱印帳に描かれていく宝印を見て、次に行こうと思う励みにもなる。1000年前より神社仏閣のお参りに、村人らは諸国を自由に往来できない時代、信仰とあればお伊勢参りも、お遍路も、観音霊場巡りも通行手形などが許可されて、お伊勢参り、遍路参りに西国観音霊場巡り行ける機会を得ることが出来た。諸国を廻るまたとない機会でもあった。
観音巡拝もお伊勢参りもお遍路も、金持ちの大店ばかリが行けたわけではない。民百姓、町人らは金を出し合って「講内」を作って少しの金を出し合って、くじ引きで四,五人が巡拝やお参りに出かけていく。帰りには、各戸へお札や暦(こよみ)や各地の情報を持ち帰り、便利な物の利用や工夫が伝播されていった。巡礼やお参りは、都合の良い物見遊山の好奇心も兼ねているのである。ここに、どうゆう風に日本に観音菩薩が根付き、信仰されていったかを述べてみた。

『政僧・天海と崇伝』アマゾン・書籍・電子書籍紹介

2019-06-20 06:02:11 | 温故知新
『政僧・天海と崇伝』アマゾン・書籍・電子書籍紹介
大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃せない。
崇伝(1569)は家康に見込まれて、徳川幕府の初期の参謀役的存在で実務面で大きな発言力と、豊臣家の残党の一掃の為に方広寺鐘銘事件を提起し、紫衣事件で提起攻略と徳川幕府の諸大名の法的立案と諸法度で秩序作りで、徳川幕府の幕政の骨格を作ることに辣腕を振るった。
一方天下の知恵袋と称され天海は、江戸城築城に立地条件に有って、兵法に合理的な設計を提案し、天下の江戸城を構築した。
天海は年齢的に崇伝より年長だが、秀忠、家光に見込まれて幕政に参入し絶大な信頼とその温厚な性格から、徳川幕府の相談役と調停役に手腕を発揮した。
硬軟両者の志向は時として対立し、崇伝は臨済宗南禅寺派の再興の祖として、金地院としてその名を知らしめた。
南光院天海は天台僧として日光の輪王寺・寛永寺を建立し、家康の死後の祭祀に山王一実神道を展開し、崇伝の吉田神道の大明神の主張を打ち負かした。日光東照宮に貢献した。天海は秀忠から家光まで政僧であるながら、仏教道に徹した。

『古事記が描く説話の憧憬』アマゾン電子書籍紹介

2019-06-19 06:04:30 | 温故知新
『古事記が描く説話の憧憬』アマゾン電子書籍紹介
『古事記』の趣旨内容は大きく分けて、史的記述と説話記述に分類される。中でも説話の部分の情景は想像をかきたてる。気宇壮大で荘厳で、痛快活劇、報復と応酬、喜怒哀楽の憎愛、露骨な性描写・奇想天外な武勇伝説話の展開・天地開闢・国生み神生み・黄泉の世界・禊・天の岩戸・大蛇退治・稲葉の素兎・根之堅洲国・国譲り・天降り・熊野から大和・倭建の英雄伝説・兄弟の王権争奪戦・父王の怨念の復讐・禁断の愛・聖帝と女性遍歴・忘れらた八十年間待った約束・また歌に詠み込まれた数々の哀愁・優雅な皇宮の暮らしの風景などなど、これらの『古事記』の数々の描かれた説話から古代の情景が浮かび上がってくる。
時代の趨勢と運命に生き、今日と変わらない生きとし生けるものの柵に生きる、生き様を垣間見、古代に生きた人々の光景に憧憬を覚えるものである。


『大久保長安事件の陰謀』アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-18 05:08:42 | 温故知新
『大久保長安事件の陰謀』アマゾン電子書籍紹介。
一階の猿楽師から、武田家臣団に加えられて出世したが、武田氏崩壊後は浪人になって流浪後、家康の大久保忠隣に召し抱えられ、武田時代の土木事業・農業事業で技術を生かし活躍し、家康の関東入国後領国支配で辣腕を振るって、十年以上も費やして諸国に一里塚を設置し、検地法を編み出し、石見・佐渡・伊豆の金銀山の鉱山開発し、膨大な資金を私財、蓄財した嫌疑を持たれ、家康にその資金で徳川幕府の転覆陰謀策に嵌められた。一族眷属は連座し死罪、磔晒し首に処罰をされた。史実を明確にされることなく、多くの謎に秘められたなぞ多い不思議な事件であった。
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『幕藩一揆の攻防』アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-17 05:21:09 | 温故知新
『幕藩一揆の攻防』アマゾン電子書籍紹介。
日本史上,最も天下泰平で安定した時代は、慶長年間から始まった徳川幕府の江戸時代である。西暦1603年から1867年の明治維新までの約260年間の鎖国と共に、幕藩体制の下に日本の独自な統治と伝統文化、風習と習慣を形成していった。
江戸時代の天下泰平社会であっても、苦しい暮らしの百姓一揆は藩政に絶えることなく訴え続けた。藩政の財政難に検地を(税率)改め重税と税制を変え巧みに百姓に負担求め、百姓は年貢、労役に疲弊し、耐え切れなく越訴、箱訴、駕籠訴など、一揆を頻繁に起こした。一揆には秩序を乱し、混乱を招いたとして、厳しい処分が下されたが、処分は農民ばかりに、厳しい処罰は下されなかった。
藩政の失策として大名にも厳しい沙汰が下され、減封、転封、改易から切腹まで百姓同様の処分を下された。放漫藩政に破たんする藩には「藩再建屋」松波勘十郎様なるものが現れ、何カ所かの藩検地の見直しや地域物産の販売で成果を得たが、最後は水戸藩で失敗し獄死している。越訴によって藩政の失政が、幕府の知る所に至り大名が改易に処せられた。
天候異変で疲弊する百姓に年貢は農民の飢餓に死者の数が悲惨さを物語り、惣代、庄屋は立ち上がり、首謀者として斬首、磔(はりつけ)を以て収束をした。また地域に一揆で犠牲になった「義民」を後世に伝え残され、今尚、偉人として顕彰されている。
江戸中・後期には、打毀し、「世直し一揆」と藩政を揺るがす騒動へと変化していった。幕藩体制で52件の一揆を探り、江戸泰平の世に幕藩体制の維持・存続と、民・百姓の生存をかけて、丁々発止の攻防を繰り広げられた。







『日本人の釈迦仏と阿弥陀仏』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-06-16 05:55:35 | 温故知新

『日本人の釈迦仏と阿弥陀仏』アマゾン電子書籍紹介。
日本歴史の三大要因の一つに仏教伝来がある。6世紀半ば欽明天皇の時代に百済から仏教が伝わったと言うのが一般的である。仏教は紀元前5世紀頃インドの仏陀に端を発し、中国、朝鮮半島などを経て伝わった。インド中国と経て来る内にバラモン教に影響を受けた諸仏なども加わって、多種多様の諸仏が形成されて伝わった。中でも、実在したと言われる釈尊(仏陀)と大乗仏教で重要な尊像の一つの阿弥陀如来の無量寿如来・無量光如来という、西方極楽浄土に有って衆生を救済するという阿弥陀如来は釈迦如来に次いで古く形成され、中国に伝わり、やがて日本に伝わって我が国の仏教に大きな影響を与えた。釈迦如来の法華経を元に影影響を受けた日蓮宗や法華宗に、釈尊から何代も伝承された達磨によって禅宗が形成確立された。釈迦仏と阿弥陀仏がインドでどう形成され、小乗仏教として、又大乗仏教として、中国で熟成され、仏教解釈にその歴史を見ることが出来る。やがて日本にアジア全域に伝播され、日本では官寺から一般民衆の信仰として、宗派として大きな二つの流れを作った。釈迦仏からは、日蓮宗、法華宗系、禅宗系から臨済宗・曹洞宗などが形成されていった。また阿弥陀仏系の宗派からは浄土宗。真宗、時宗、融通念仏宗が立宗開化させた。釈迦仏と阿弥陀仏のインド誕生から、中国で熟成された経歴を考察しつつ、日本人に支持され精神的支柱としてあり続けた意義と歴史に及ぼした影響を考えてみた。


『大和朝廷王権の群像』アマゾン電子書籍紹介

2019-06-15 06:44:50 | 温故知新
『大和朝廷王権の群像』アマゾン電子書籍紹介
仏教伝来と蘇我氏の台頭、大和朝廷の確立の飛鳥時代に蘇我三代の渡る強権から、乙巳の変から壬申乱を経て、平安京に遷都されるまでの、二百年余り波乱と国家形成の中、日本の国家の骨格を成す重要な時代でも有った。
敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、光仁、桓武の二十人の天皇と六人の女帝と二回の重祚、異例尽くめの政変、飛鳥から難波宮遷都、再び飛鳥に、そして近江大津宮、そして飛鳥浄御原宮、大藤原京に、平城京へそして恭仁宮、紫信楽宮と点々として遷都されて、平安京に至るまでの間に、皇権と政権を巡る戦いは、次の時代に打たれる「布石は新たな物語を、喜怒と盛衰の、間に間に、繰り広げられていった」200年余りの凝縮された時代を振り返って、歴史は私達に何を伝え残したのか、歴史の検証したものである。


幕藩一揆の攻防』アマゾン電子書籍紹介。

2019-06-14 05:35:03 | 温故知新
『幕藩一揆の攻防』アマゾン電子書籍紹介。
日本史上,最も天下泰平で安定した時代は、慶長年間から始まった徳川幕府の江戸時代である。西暦1603年から1867年の明治維新までの約260年間の鎖国と共に、幕藩体制の下に日本の独自な統治と伝統文化、風習と習慣を形成していった。
江戸時代の天下泰平社会であっても、苦しい暮らしの百姓一揆は藩政に絶えることなく訴え続けた。藩政の財政難に検地を(税率)改め重税と税制を変え巧みに百姓に負担求め、百姓は年貢、労役に疲弊し、耐え切れなく越訴、箱訴、駕籠訴など、一揆を頻繁に起こした。一揆には秩序を乱し、混乱を招いたとして、厳しい処分が下されたが、処分は農民ばかりに、厳しい処罰は下されなかった。
藩政の失策として大名にも厳しい沙汰が下され、減封、転封、改易から切腹まで百姓同様の処分を下された。放漫藩政に破たんする藩には「藩再建屋」松波勘十郎様なるものが現れ、何カ所かの藩検地の見直しや地域物産の販売で成果を得たが、最後は水戸藩で失敗し獄死している。越訴によって藩政の失政が、幕府の知る所に至り大名が改易に処せられた。
天候異変で疲弊する百姓に年貢は農民の飢餓に死者の数が悲惨さを物語り、惣代、庄屋は立ち上がり、首謀者として斬首、磔(はりつけ)を以て収束をした。また地域に一揆で犠牲になった「義民」を後世に伝え残され、今尚、偉人として顕彰されている。
江戸中・後期には、打毀し、「世直し一揆」と藩政を揺るがす騒動へと変化していった。幕藩体制で52件の一揆を探り、江戸泰平の世に幕藩体制の維持・存続と、民・百姓の生存をかけて、丁々発止の攻防を繰り広げられた。

『将軍家を支えた幕閣』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-06-12 06:03:36 | 温故知新

『将軍家を支えた幕閣』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。
日本歴史の中で、武士天下で鎌倉幕府、室町幕府、そして最も長く存続した。 戦国時代意を終止符を打った三傑野中でも最も長く安定し、平穏な264年余を築いた江戸幕府は徳川家康に端を発している。 徳川将軍家は、慶長8年(1603)に初代・徳川家康が征夷大将軍に就任してから、慶応3年(1867)に第15代・徳川慶喜が大政奉還するまで、264年間にわたる江戸時代を通じて、征夷大将軍職を世襲した家系である。
 この間、日本の実質上の君主・支配者として、武家社会を含む日本社会全体の頂点に君臨した。その将軍職を支えたのが、大老と老中である。江戸幕府最高職、大名の交代寄り合いを支配し、評定所の寄り合いに参加し、町奉行・勘定奉行・遠国奉行等を揮し、幕政を運営の中核に有った。定員は四名から五名。三万石以上の譜代大名がその職に就いた。徳川幕府が徐々に形成され、寛永11年(1634)の老中宛法度が出され、朝廷、公家・門跡支配が出され、大名の御用・訴訟、老中奉書への加判、幕領代官御用、金銀納め方、大分の遣い方、大造の普請、作事、知行割、寺社方、外交、国絵図などを掌握した。 家康、家光、綱吉、吉宗、家斉の親政以外は幕閣が合議制の下に協議されて幕政によって裁可され決断されてた。その後機構改革により大番・留守居衆、寺社奉行、奏番者、大目付、などを采配、 長き江戸泰平の世を支えたのは幕藩体制の下、組織化された体制と、幕政秩序は幕閣によって運営され統治された面は否めない。
 藩一揆、大名のお家騒動、法度破り、治安、経済、お家断絶や改易は幕閣によって決断され、幕藩維持に貢献していった。
大老・老中になった者に、猿楽師から老中に身を起こした者もあれば、流浪の身で敵方から家康の家臣になったものなど、初期徳川幕府では戦場の実績で起用された。