『大内氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
中世周防の武家。周防国の在庁官人多々良氏の内、大内村を本拠として、周防権介を称する一派が、大内介とよばれ、後に家名とした。
鎌倉期には幕府の御家人となり、周防の在国司として守護に準ずる地位を得ていた。南北朝期、大内弘世は北朝方として、応安年間(1368~1375)に防長両国を統一し、次いで九州に出兵して関門海峡を確保した。その子大内義弘は筑前に進出、博多を支配、応永の乱後は家督争いに一時家内が混乱したが、大内政弘の代までには国人層の大内氏御家人化が進められ、分国統治制度を整備された。大内義興・大内義隆の時代には、周防・長門を中心に、東は備後・石見から西は豊前。筑前に至る海上交通の要衝を支配する大大名として幕府政治にもしばしば介入した。天文20年(1551)義隆が家臣陶晴賢の謀反に有って死去し、大友氏から大内義長が養子に入って跡を継いだが、
弘治元年(1555)厳島の戦いで晴賢が敗北すると衰退。1557年毛利氏との合戦で義長が戦死し、大内氏は滅亡した。大内氏は大内版を出版するなど学術工芸の分野で奨励した。百済の王族を祖と称し、朝鮮や明との対外交流を積極的に行い、領国内でのキリスト教布教を許可した。弘世の代に本拠となった山口は、大内氏の居館を始め、在住を義務付けた家臣の屋敷が立ち並び、在住を義務付けられた家臣の屋敷が立ち並び、かつ京都から貴族文化人が招かれたので、人口も多く、和歌・連歌をはじめとする伝統文化が発展した。
中世周防の武家。周防国の在庁官人多々良氏の内、大内村を本拠として、周防権介を称する一派が、大内介とよばれ、後に家名とした。
鎌倉期には幕府の御家人となり、周防の在国司として守護に準ずる地位を得ていた。南北朝期、大内弘世は北朝方として、応安年間(1368~1375)に防長両国を統一し、次いで九州に出兵して関門海峡を確保した。その子大内義弘は筑前に進出、博多を支配、応永の乱後は家督争いに一時家内が混乱したが、大内政弘の代までには国人層の大内氏御家人化が進められ、分国統治制度を整備された。大内義興・大内義隆の時代には、周防・長門を中心に、東は備後・石見から西は豊前。筑前に至る海上交通の要衝を支配する大大名として幕府政治にもしばしば介入した。天文20年(1551)義隆が家臣陶晴賢の謀反に有って死去し、大友氏から大内義長が養子に入って跡を継いだが、
弘治元年(1555)厳島の戦いで晴賢が敗北すると衰退。1557年毛利氏との合戦で義長が戦死し、大内氏は滅亡した。大内氏は大内版を出版するなど学術工芸の分野で奨励した。百済の王族を祖と称し、朝鮮や明との対外交流を積極的に行い、領国内でのキリスト教布教を許可した。弘世の代に本拠となった山口は、大内氏の居館を始め、在住を義務付けた家臣の屋敷が立ち並び、在住を義務付けられた家臣の屋敷が立ち並び、かつ京都から貴族文化人が招かれたので、人口も多く、和歌・連歌をはじめとする伝統文化が発展した。
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