「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「政僧・天海と崇伝」オンデマンド・アマゾン。@880円

2022-01-05 08:42:34 | オンデマンド・アマゾン。

『政僧・天海と崇伝』アマゾン書籍紹介
大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃せない。
崇伝(1569)は家康に見込まれて、徳川幕府の初期の参謀役的存在で実務面で大きな発言力と、豊臣家の残党の一掃の為に方広寺鐘銘事件を提起し、紫衣事件で提起攻略と徳川幕府の諸大名の法的立案と諸法度で秩序作りで、徳川幕府の幕政の骨格を作ることに辣腕を振るった。
一方天下の知恵袋と称され天海は、江戸城築城に立地条件に有って、兵法に合理的な設計を提案し、天下の江戸城を構築した。
天海は年齢的に崇伝より年長だが、秀忠、家光に見込まれて幕政に参入し絶大な信頼とその温厚な性格から、徳川幕府の相談役と調停役に手腕を発揮した。
硬軟両者の志向は時として対立し、崇伝は臨済宗南禅寺派の再興の祖として、金地院としてその名を知らしめた。
南光院天海は天台僧として日光の輪王寺・寛永寺を建立し、家康の死後の祭祀に山王一実神道を展開し、崇伝の吉田神道の大明神の主張を打ち負かした。日光東照宮に貢献した。天海は秀忠から家光まで政僧であるながら、仏教道に徹した。


歴史の回想「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」オンデマンド・アマゾン。@1320円203ページ

2022-01-05 08:36:47 | オンデマンド・アマゾン。

「古事記紡ぐ一宮の神々」アマゾン書籍紹介。
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。


歴史の回想・「重源」オンデマンド・アマゾン。@1100円124ページ

2022-01-05 08:31:31 | オンデマンド・アマゾン。
重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和国は平郡県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平郡で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。
一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。
 醍醐寺は空海の孫弟子の聖宝が貞観一六年(874)に上醍醐准胝観音本尊・如意輪観音を安置して開山した。
その後,下醍醐も堂塔が立ち並び、五重塔は京都で一番古い建造物となっている。
醍醐寺も落雷による焼失、戦火による焼失と、再建と消失と繰り返してきた。
 重源が出家した修行の地は現在の下醍醐と違って西国一の険しい札所で知られている。かつては上がり口には結界があって、女人禁制で信仰の道場であった。
一二歳の重源は日々厳しい修業に励み、早朝より薬師堂・醍醐寺の鎮守神で有る清瀧権現拝殿・准胝堂・五大堂などへの勤行を勤める。
 醍醐山の頂上(標高450M)には如意輪堂と開山堂・白山権現が立ち並び山頂笠取山に向かう途中に奥の院がある。

「芭蕉紀行漂泊の憧憬」オンデマンド・アマゾン。@1540円

2022-01-05 08:26:24 | オンデマンド・アマゾン。

『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
 感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇壮大な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情,今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。
先人に学び貴ぶ謙虚な芭蕉の姿勢が読み取れる。現代人には、その先人への畏敬と謙虚さが欠落していることを、「紀行文」が教えている。
また芭蕉の物事の興味旺盛は物見遊山のなかに、土地土地の人々の暮らしぶりを観察し俳句に綴っていく紀行であった。
また道中の出来事風景や習慣、習わしを詳しく書き残したことで元禄二年(1689)の時代背景を知ることが出来る。


「日本仏教十三宗・諸派総覧」オンデマンド・アマゾン。@1540円

2022-01-05 08:23:31 | オンデマンド・アマゾン。

『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン電子書籍紹介。
「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。
仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。
「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。
ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。
「十三宗五十六派」と言われた時代から、時代の変遷で、離合集散、栄光衰退、宗派間の攻防などで、攻防は繰り返し、吸収されたり、消え去った宗派も少なくない。
ここに伝統的に宗派として存続した仏教伝承から時代の趨勢に消え去った宗派まで網羅し、列挙し日本の歴史の重要な要因として明記した。


「太閤の夢の夢」オンデマンド・アマゾン。@1760円302ページ

2022-01-05 07:52:41 | オンデマンド・アマゾン。

「太閤の夢の夢」
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
 織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
 天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
 秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。


歴史の回想「日本神道の神々」アマゾン・オンデマンド@1210円

2022-01-05 07:25:40 | オンデマンド・アマゾン。

日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証して見た。


歴史の回想「野田城・福島城の戦い」アマゾン電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 11:47:17 | 投稿済C

三好三人衆との戦闘中に本願寺も加担。石山合戦はじまる
三好長慶の時代、三好政権を支えてきた三好三人衆。彼らは長慶の死後も政権の中枢を担いますが、信長が上洛してきた時に反発して幾内から追い出されてしまった。本記事で扱う「野田城・福島城の戦い」は三好三人衆による幾内奪回戦の一つです。合戦の途中で本願寺勢力も三好方に加担したことから「第一次石山合戦」とも言われ、以後10年にもわたる石山合戦の端緒となりました。さて、戦の展開はどのようなものだったのでしょうか。
背景は信長の上洛にあり
織田信長が上洛して将軍足利義昭を誕生させたのは永禄11年(1568) このときに信長上洛を阻止しようとした三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)は、戦いに敗れて京都を追い出されます。これがきっかけで「織田 vs 三好」という敵対関係ができあがることになった。再び京の奪還を狙っていた三人衆は、翌年に入ってすぐに将軍義昭の仮御所・六条本圀寺を攻撃。しかし、このときも明智光秀らに阻まれて京都奪還は叶わなかった。(本圀寺の変)それでも三人衆は反織田を貫き、元亀元年(1570)6月、信長が姉川の戦いで近江に出陣していた頃、同 19日にこれを機とみた三好三人衆の1人・三好長逸が摂津の荒木村重を調略。村重は池田城から主君・池田勝正を追放して三好方に与する。7月21日に三人衆は摂津国中嶋に進出して野田城・福島城を築城。ここを拠点として反織田の兵を挙げるためにのもである。この三人衆の動きに呼応し、細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着。『松井家譜』によれば、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったと言われている。この雑賀衆は水兵・鉄砲兵からなる傭兵部隊で三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれている。こうした動きに対し、織田方の松永久秀・久通父子がいち早く対応した。彼らは大和の信貴山城で戦闘準備を整えると、27日には信貴山城を出発して河内に入国し、三人衆軍の河内侵攻に備えた。こうした流れを経て、摂津で織田・足利義昭連合と三好三人衆ら反織田勢力との戦いがはじまった。合戦地は摂津国・野田城、および福島城一帯(現在の大阪府大阪市福島区)。色濃い部分は摂津の範囲は野田城・福島城の戦い、始まる。反織田勢力の総数は8千程とされている。顔ぶれに含まれている本願寺顕如は、はじめは中立を保っていたものの、途中で反織田の兵をあげることになっていく。なお、三人衆は浅井長政・朝倉義景・顕如らと開戦前から通じていたという説も。


歴史の回想「徳川四天王・榊原康政」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・角川・楽天ブックス。

2021-01-31 09:16:52 | 投稿済C

「榊原康政」が生まれた榊原家は、陪臣という家柄である。分かりやすく言うと、松平氏(のちの徳川家)に仕えていた譜代大名の「酒井忠尚」に仕えていた家柄。1548年(天文17年)、「榊原長政」の次男として、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)に誕生しました。幼名は「於亀」「亀丸」いつから使われたかははっきりしませんが、「小平太」という別名も持っている。徳川家康に見出され、小姓からの立身出世。徳川家康は主家である松平家はまだまだ小さな御家でしかなかった。その頃三河の地を巡って、尾張国の織田信秀と、駿河国の「今川義元」、そして「松平広忠」(徳川家康の父)が争っていた。榊原康政が生まれた頃、「松平竹千代」徳川家康は、わずか7歳で今川家の人質になるはずであるが、ところが、駿府へ送られる道中、何と織田家の家臣により略奪され、織田家の人質となってしまい、その後、織田家と今川家が和睦し、改めて今川家の人質にされたのである。このときは、「松平竹千代」(徳川家康)が天下人になるなど、まだ誰も想像できなかったに違いがなかった。松平竹千代(徳川家康)は、人質のまま1555年(天文24年/弘治元年)に元服して、今川氏一族の関口刑部小輔の娘「築山殿」と結婚し、「松平元信」と改名。さらに1558年(弘治4年/永禄元年)に「松平元康」と改名します。そんな中、1560年(永禄3年)、榊原康政にチャンスがやってくるのです。この時期、家臣達の中から年の近い者達が、松平元康(徳川家康)の人質生活にお供をしていました。経緯は不明ですが、榊原康政は13歳のときに、松平元康(徳川家康)と出会い、小姓に見出されたのである。その日から、榊原康政は松平元康(徳川家康)の家臣になりました。なお、榊原康政と同じ、「徳川四天王」と呼ばれる「本多忠勝」、「井伊直政」も松平元康(徳川家康)の小姓であり、榊原康政は、頭脳も武功にも優れていたと伝えられている。譜代大名の家柄でもなく、次男という状況下で生まれた榊原康政は、いくら下剋上の時代とは言っても、相当な能力がなければ出世のチャンスはなかったと考えられている。初陣は三河一向一揆、松平家を大いに悩ませたのが、1563年(永禄6年)~1564年(永禄7年)に起きた一向宗による蜂起であった。戦国時代であるので、当然武将達も必死で権力や領土を奪い合いをしたが、鎌倉・室町時代は寺の坊主達も権力や武力を持っており、僧兵と呼ばれる武闘集団も戦に参戦をした。なかでも貧しい農民や領民が入りやすかった浄土真宗本願寺の一向宗は、門徒も命懸けで抵抗したのである。


歴史の回想「徳川四天王・本多忠勝」電子書籍紹介」・アマゾン・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 07:29:15 | 投稿済C

本多忠勝は天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前に本多忠高の長子として生まれた。幼名を鍋之助、通称は平八郎である。本多氏は古くから「松平(後の徳川)氏」に仕えた譜代家臣の家柄である。忠勝は自分の代になって岡崎城東の洞(ほら)へ移住した。なお、本多家には5つの系譜、洞、伊那、大平、土井、小川があり「本多正信」は小川本多家である。忠勝の初陣は永禄3年(1560年)13歳のことで、家康が駿河遠江の大守「今川義元」の先鋒となって行った「尾張大高城の兵糧入れ」に加わった。15歳の時の戦では叔父の忠眞が、自分が倒した相手の首をとるよう命じたものの忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断った逸話が残っている。勇猛な忠勝らしい少年時代であったと言える。三河の国は「一向一揆」が多く発生し、家康は大変苦労したが、忠勝は常にこれに従い活躍した。その結果18歳にして与力50余人が与えられたという。そうした中、徳川家康は、元亀3年(1572年)武田信玄と遠江、三河で衝突した(一言坂の戦い)。この時に黒糸威の鎧と鹿角兜を身につけ大奮闘したのが本多忠勝である。後に「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と武田の武将に言わせしめたほどの戦いぶりであった。ちなみに「唐の頭」とは「ヤク」(チベット地方にいるウシ科の動物)の毛を兜に束ねたもので、輸入品ゆえ滅多に入手できなかった貴重品で、それと並び称されたのである。天正3年(1575年)の「長篠の戦い」後、武田氏が滅ぶと、家康はこの間の忠勝の戦功を賞し「花実兼備の勇士」と褒めたたえた。時に忠勝35歳、花も備えた風格を帯びていたようである。ただ、武将の花とは、相手を威圧する優美さでもある。この当時、馬上の武将が競って鎧・兜・指物等武装に気を使ったのは、視覚的・心理的に相手を威圧する「花」なのである。豊臣秀吉が天下人となり、家康が大阪城にて秀吉の前に屈服する姿は、テレビドラマ等でよく知られている。その後、両者の同盟の証として秀吉の妹「朝日姫」と家康の婚儀が整ったが、家康側からの結納の使者について秀吉は「その格にあらず」として気に入らず、結果的に「本多忠勝」が望まれて大阪城に派遣されたとい。天正18年(1590年)小田原城は開城し、秀吉から家康に北条旧領が宛がわれた。この処置により忠勝に大多喜城10万石への途が開けていくことになった。大多喜に入城してからの忠勝は、南の里見氏への防御を念頭に、城下を強固に整備し、現在の大多喜町の原形を作り上げていくのである。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦後処理に伴う知行割で、忠勝は桑名10万石の城主となり、大多喜城は次男の忠朝に与えられた。同9年、忠勝は病により隠居を願い出たが許されなかったという。このころ、忠勝は「戦友」に宛てた書状の中で「去年より眼病気に候て・・・・」とあり、眼の病を患っていたことがわかる。その後も病身を押して公務に励み続けたため、将軍秀忠は労いの言葉を送っている。慶長10年(1610年)10月18日、戦国の世を駆け抜けたさしもの勇将もこの世を去った。墓は桑名の浄土寺にあり、大多喜には良玄寺に供養塔がある。





歴史の回想「高屋城の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 06:00:30 | 投稿済C

「高屋城の戦いの概略」
高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏や三好氏の介入を受けるようになった。当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄3年(1560年)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。永禄11年(1568年)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、15代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に畠山高政共々協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆や大和の松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は信長派と義昭派とに分裂した。当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀4年(1573年)6月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられてしまった。安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。11月には三好義継も信長の攻勢を受け味方の裏切りにあって自害し(若江城の戦い)、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。12月には堺に逃亡していた義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多聞山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。天正2年(1574年)2月20日、義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。この足利義昭御内書は御内書で、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が浦上宗景、宇喜多直家と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が備中へ差し向ける軍勢を讃岐に向かわせることに対して賛意を表している。こうした動きから、4月に摂津国の池田勝正、讃岐国の十河一行、雑賀衆の鈴木孫一ら雑賀衆や、三好義継に従っていた若江城の残兵や、池田勝正に従っていた池田城の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・細川昭元や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、阿波国の三好康長を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、石山本願寺も挙兵している。信長はこの報を京都でうけ討伐軍を編成。武将は柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重といった面々である。第2次・一旦兵を引いた織田軍だったが、天正3年(1575年)3月22日に信長は細川藤孝に対して、「来たる秋、大坂合戦を申し付け候。然らば、丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべきこと肝要の状、件の如し」という朱印状を与えた。秋には石山本願寺を攻撃するので、丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備を進めるよう命じたものである。また摂津住吉郡に、


「家康と一向一揆」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 05:42:50 | 投稿済C

「家康と一向宗の概略」
一揆の勃発は諸説あるが、永禄六年(1563)とされる。 三河の領国化を進める徳川家康の収奪に反抗した門徒農民が、反徳川の在地領主と組んで引き起こした。徳川家臣からも多くが一揆側に加わり、家康は苦戦し 平定するのに半年を要した。定説では、永禄六年(1563)九月 家康の命を受け菅沼定顕が佐々木(岡崎市佐々木町)に砦を築き、同地区にあった浄土真宗本願寺系列寺院 上宮寺から、兵糧とする穀物を奪ったことに抗して一向宗徒が蜂起したという。著名な大久保彦左衛門の著書『三河物語』では、野寺(安城市野寺町)の本証寺に侵入した無法者を西尾城主酒井正親が捕縛したため、不入の特権を侵害されたとして一揆が起こったという。どちらにしても家康が、不入の特権を持つ 本願寺系寺院に介入したため勃発したと思われる。不入の特権は、家康の父広忠が上宮寺・本証寺・勝鬘寺の三河三ヶ寺に認めた検断権(逮捕)の拒否、年貢・諸役の免税であった。三河の本願寺教団は、この特権をもとに寺内町を形成し、寺内から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、家康家臣に貸し付けたりして裕福な宗教ブッロクを形成していた。三河統一を目指す家康としては、必然的に解体を計らねばならぬ存在であった。一揆は三ヶ寺に集結した門徒衆と これに呼応した吉良氏・荒川氏、松平一族の桜井・大草、重臣の酒井忠尚らが家康に対戦の構えをとった。石川氏・本多氏・内藤氏・鳥居氏の一族からも一揆に呼応するものが多くで家康は苦戦するが上宮寺には渡村の鳥居氏を、勝鬘寺には和田村の大久保党を、本証寺には藤井松平氏と西尾城の酒井正親を配し対抗した。永禄七年(1564)一月に一揆連合軍が岡崎城を攻めるため、大久保党の和田砦を攻撃、家康も出陣しなんとか撃退している。この合戦を境にして一揆の大将格の討ち死・降伏も多く、吉良氏・荒川氏といった反対在地勢力も家康方に攻められ、三河から退去した。家康は一揆に加担した多くの家臣を許したが、一向宗は禁止し教団の解体を行っている。三河一向一揆は初期徳川氏の領国経営の前に立ちふさがった大難関であった。天正十一年(1583)、叔母石川妙春尼の嘆願によって家康は本願寺派寺院の再興を許した。







歴史の回想「稲葉山城の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-30 15:35:35 | 投稿済C

岐阜城は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で、国の史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となる。その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山となり、旧名は稲葉山と言う。そのため、1547年9月には、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めをしたが、この時、斎藤道三は籠城し、その後、加納口の戦いにて織田勢を壊滅寸前にまで迎撃している。その後、織田信秀と和睦すると、1548年に帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせた。そして、斎藤道三は下剋上を進め、1552年に美濃の守護・土岐頼芸を追放し、美濃の実権を握った、1554年、家督を子の斎藤義龍に譲ると、斎藤道三は鷺山城に隠居した。その後、斎藤道三と斎藤義龍は次第に不仲となり、1556年、長良川の戦いで斎藤道三は敗死してしまった。長良川の川むこうが、長良川の戦いがあったと推定される場所である。斎藤義龍が1561年に急死したあとは、子の斎藤龍興が13歳で跡を継ぎ、1561年6月には、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退している。1564年、竹中半兵衛・安藤守就らに、僅かな手勢にて稲葉山城を6カ月間占拠されると言う事件も起こっている。西美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の内応を取り付けた織田信長は、1567年に稲葉山城の戦いで、城下の井口まで攻め入ると、斎藤家の家臣らは降伏し、戦えなくなった斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へ逃亡した。以後、織田信長は本拠地を小牧山城から、稲葉山城に移し「井口」の地名を「岐阜」と改めて、岐阜城と改名し、天下統一に向かって城下に家臣らを住まわせ、楽市楽座を行った。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、岐阜城を訪問している。1575年、織田信長は嫡子・織田信忠に家督を譲り、安土城に入ると、織田信忠が岐阜城主となった。1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長・織田信忠が倒れると、留守居・斎藤利堯が岐阜城を掌握するも、織田信孝らに服従した。1582年6月27日、清須会議(清洲会議)のあと、織田信孝が岐阜城に入り、柴田勝家と組んで、次第に豊臣秀吉と対立。1583年、柴田勝家が敗れて、織田信雄が岐阜城を包囲すると、塀の逃亡が相次ぎ、僅か27名となった織田信孝は降伏。その後、切腹させられた。


歴史の回想「徳川四天王井伊直政」電子書籍・グーグルプレイ・アマゾン・楽天ブックス。角川。

2021-01-30 12:50:25 | 投稿済C

井伊直政は1561年(永禄4年)遠江国祝田に生まれで今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」により謀殺されてしまった。井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継いだが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていなかった。そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごしたようである。1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」と再婚。井伊直政は「松下虎松」として松下家の養子となり、浜松へと移住した。1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れる。徳川家康が「初鷹野」(年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことである。井伊直政は、「四神旗」を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れた。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を持たれたようだった。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えた。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れた。さらに300石と16人の同心衆を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たした。徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾り、この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領した。1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのである。1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺で茶会を開いていた。この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事であるが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれている。伊賀越え危機を家康らと家臣らで帰還できた。家康に随行する井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で折られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かかった。この頃三河の地は混乱し「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国の北条氏と、越後国の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いである。


歴史の回想「荒木村重の下克上」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」

2020-07-31 19:44:37 | 投稿済C

「荒木村重の下克上」アマゾン電子書籍・グーグル・プレイ電子書籍・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」
荒木村重(1535~1587)安土桃山時代の武将。先祖は丹波の波多野一門という。父義村の頃より摂津国池田に住み、池田城主池田勝正に属したが池田家の内紛に乗じて勢力を強め、やがて「中川瀬兵衛らと池田21人衆を形成して主導権を掌握。1571年(元亀2)茨木の茨木佐渡守や高槻の和田惟政らと白井河原に戦って茨木城を奪い、近郷に威を振るった。1573年(天正3)足利義昭と織田信長と不和に際して信長に従い、功により摂津国一国の支配を任され、従4位下摂津守に叙任された。その後は信長の播州・紀州攻略の主力として功績があったが、1578年讒言により信長に怒りを買い、やむえず本願寺・毛利氏と通じて本拠伊丹有岡城に立て籠もって信長に背いた。籠城10カ月ののち、毛利を頼って安芸に逃れ、後に尾道に住んだ。かつては千利休に茶の湯を学び、晩年は境に住み茶の湯を持って豊臣秀吉に仕えた。