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コロナ渦での普通の死 #2

2021-06-19 18:21:50 | 日記

「ほりゃーなー、まー、そのころ、儂の隊は呉にいたんが、下関の方でけが人が多く、人手がいると言うことで、救援に向かえと言うことで、大きくもない船何隻かで出航した。

しばらくしたら『広島に新型爆弾が落ちて、死人、けが人がたくさん出ているらしい、直ぐに救助に向かえ』と言う命令が入り、広島の方へ向かうと、湾の奥の方の市街地方面から煙がモウモウと上っており、段々と人の焼ける臭いがしてきた。とにかく上陸したが、灼けた死人が延々と横たわっており、手当をするなってもんじゃない。まずは、遺体をどけて、通り道をつくることだった。…」と。

 その続きもあったのだろうが、話はそこまでしか覚えて居ない。

 数年後、市の最高齢者にはなれなかったようだが、おとなしく、療養施設で109歳で亡くなった。葬儀は神道であった。


今年になって亡くなったMさんは、我が家から東へ並びの4軒目で、農家らしく道路に面したガラス張りの4間(けん)以上の廊下のある平屋の住人で、毎日、背もたれ椅子に座って、新聞を開いたり、本を読んでいたりした。長らくこの自治区の長老だった。前を車で通る度に、「おお、今日も元気じゃん」と見ていた。

一度寄ってみようとかなと思っていたが、昨年(2020年)夏くらいから新聞も見ていなし、動くことなく座っていて、「こりゃーもうあかんじゃないか」と思いながらも、なおかつ、通り過ぎていたが、秋になって、本当にあまりに動かなくなり、ヒッチコッコクのサイコの中の「母親」的雰囲気を醸しており、生きてるのかしらと思ってはいたが、夕方にはいなくなっているのでサイコではなさそうだがとは思いつつ、庭に車を入れてみた。


縁側のガラス窓を「とん、とん」と叩くと、フーッと顔を向けて、目の焦点が合うのに少し時間がかって、数瞬を置いて、”オオー(知っとる人間じゃん)”といった感じで目の輝きが変わり、ガラス戸の鍵を開けてくれた。私は、何度も、私の名前を告げたが、もうそれはどうでも良いようで、「わしゃー、もうじき百歳になる。わしゃー、もうじき百歳になる。…」を繰り返す。

「うん、うん」と頷きながら、Mさんは"生けるミイラ”かと思って居たが、そうではなかった。が、話は進まない。で、そういえば、この世代の記憶のハイライトは良くも悪くも「戦争」だと介護施設の人から聞いていていたので、彼の”100歳”への思いを少し置いてもらって「戦争はどうだった」と、聞いてみた。

そしたら、堰を切ったように「終戦の頃儂は、………」と本当に、小学生の高学年の良く出来た日記のように、日時、場所、登場人物の具体名も入れて話し始めた。恐らく家族にはもう何度も、何度も話したた話だろう。ストーリー実に具体的では私にはビデオを見るような気がした。

私も3度”お話しビデオ”を聞いた。4度目に入った時に、私も「わかった。わかった、また、来るでね」を何度も繰り返し、去った。車の運転を始めてしばらくして、話の大筋は覚えているが、細部は既に全く性格に記憶に残っていない事に気づき、近いうちにビデオを持って行こうと思った。


21年3月始め、Mさんの訃報を聞いたと、言うより、隣組への「訃報投げ込みレター」を読んだ。この文が、隣組に「来て欲しいような、そうでないような」内容なので、まずは翌日、午前、隣組の一員として、お悔やみに行った。焼香の後、喪主に、昨年の話をしたら、「ありがとう。ありがとう。よう聞いてくれたねー。あの話が大好きで、集まるといつもしていたんだは。」と、涙ぐんだ。「で、百歳になったの」「ほんとは94歳。あの年になると大体が100歳になっちゃうらしんだわ」。

急に改まって会葬お礼のような物言いに変わった。終わって、「なに、これ喪主挨拶の練習」といったら、笑いながら、「そう、判る」「まーね」「これで良いかしら」「うん、良いんじゃないの。で、隣組は来た方が良いの、来なくて良いの」と聞いたら、「親戚だけでも40人以上もあるから葬儀をしないわけにも行かず、…」「そこに隣組が入ったら大変だね」。

その後、隣組は自由参加になったようだが、結局、行かなくても良いと言う話になったようだ。


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