畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

ぼくが ここに

2017年12月05日 | まどみちお をよむ

前回の記事の続きだが、乾燥庫の入り口の旧牛小屋。
手前に吊り下がったシルバーの棒に黒いラバーの赤いものは草刈機。
整然とはいかないけれど、いちおうこうやって整えることができた。
ものがあるべきところに置いてあるというのは気もちがいい。

さて、今日はまどさんの詩で・・・。

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけしか
ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときも
  
その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として

どの人物かわからない・・・父の卒業写真

2017年11月14日 | べんちゃん
昨年、本家からもらった写真の中に誰の卒業写真かわからないものがあった。



調べていくうち、背景の校舎が昭和12年に新築されたことがわかった。
大正9年生まれの本家の次男(わたしの伯父)Tさんは一階建ての旧校舎で卒業している。
なので、大正14年生まれの父の卒業写真、昭和13年度高等小学校卒業の父の写真ではないかと思った。
縁があるのだろうか、ここ数か月、近在にご健在の同級生4人の方に会うことができている。
8割の方の名前がわかった。
しかし、父がどこにいるかわからない。
同級だったことには間違いないとおっしゃっるのにもかかわらずだ。

父は大正14年3月の早生まれなので、13年4月から14年3月生まれ、昭和13年度、14年3月卒業の組のはずだ。
だが、お話をうかがった同級生の皆さんは大正14年の4月から15年3月生まれの方、つまり昭和14年度、15年3月の卒業だった。
ということは、父はこの上の学年にいたことになり、この写真自体が違うのかもと思った。

だが、同級生のTさんが、
「1年の時、出席番号の1番と2番の人が五十音の並びから外れていたのを覚えている、あなたのお父さんがその一人だった」とおっしゃった。
昨年亡くなったいとこのK小母さん(大正14年12月生まれ)の50年余り前の声がよみがえってきた。
「べんちゃん(お父さん)は、わたしと同じ大正14年生まれだけれど、早生まれなので先に小学校に上がった。
じゃが、病気になって長う休みが続いたので、わたしといっしょの学年になった」と言っていたのを思い出した。

父は尋常小学校1年の時の病気をして、1年遅れたのだ。
実は、本家には7人の子がいた。
しかし、長女のSさん、次男のTさん、4男の父を残し4人が子どもの時に旅立っている。
父だけではない、家族の悲しみや苦労にも思いがよぎる。

K小母さんが、
「お父さんはようかけりょうった(よく走っていた)」と言っていたのも同時に思い出した。
同級生Tさん曰く、
「師範出の先生が二人赴任して徒競走を教えてくれるようになった、それまで近隣校との対抗戦でいつも敗れてバカにされていたが、その年に優勝した」
「〇〇8等、しりはっとう」という歌で、よその小学校にからかわれた」、これはTさんだけでなく、同級生T女子Mさんからも聞いた。
同級生Tさんの回想によると、
「大会に行く途中の峠道におじいさんが現れて今度も負けたら帰りにこの道を通してやらんと言われた」とか、
「優勝したので地区の人を招いて運動場で優勝旗を持って誇らしく行進した」ということだった。

ところで、上の卒業写真、わたしはひとりこの人ではないかと思う人がいる。
それは、背をかがめ帽子を深めにかぶっている4列、右から2人目の人だ。
下は、昭和15年12月に出征した5つ上の長男Tさんの写真、Tさんの右が父だ。
深めに帽子をかぶっている人に似ていると思うのだがどうだろう。



古い写真がいろいろとわたしに語りかけてくれているようで、わたしは写真との会話を楽しんでいる。

1枚の写真から

2017年09月05日 | べんちゃん
「ポツダム少尉-68年ぶりのご挨拶-呉の奇跡」は、昭和20年9月呉工廠の1枚の集合写真から始まっていた。
わたしも、今、知らず知らずのうちに同じようなことを始めている。



これは、A先生がお持ちだった。
生徒の後姿と新校舎を中心にカットした。
A先生に大感謝だ。

昭和12年から15年の間のものだ。
理由は12年に西校舎が新館として竣工完成した。
それまで西校舎は1階平屋建てのものだったからだ。
また16年から国民学校になったのに「尋常高等小学校」と書いてあった。
新校舎完成を記念したものだとしたら、12、13年ではないだろうかと思う。

父親は、大正14年3月の早生まれなので、昭和6年度にこの尋常小学校に入学、12年度つまり13年3月に卒業した。
そして13年度4月に高等小学校に入学、14年度15年3月に卒業している。
だからこの写真の中にいた可能性がある。

母親は8年の2月生まれなので、14年4月に尋常小学校入学した。
16年、尋常高等小学校は時国民学校に改められた。
なので母は尋常3年ではなく「国民学校初等科3年」となったはずだ。
19年度つまり20年3月に初等科卒業、同20年4月高等科に入学した。
しかし22年、教育法改正(6334年制)で新制中学が生まれた。
長く高等小学校・国民学校高等科は2年卒業だったのが、新制中学校になったので3年卒業になったのだ。
したがって母は、21年度の終わり22年3月に卒業するはずが、22年度23年3月に新制中学校一期生として卒業した。
まだ新制中学校が建設途上だったので、この校地で9年間を過ごした。

古い写真の中からいろんなことがわかって楽しい。





「ポツダム少尉68年ぶりのご挨拶-呉の奇蹟-」その3・学歴と戦後の食糧生産

2017年08月10日 | べんちゃん
宮内貞之介(ていのすけ)さんは、大正11年生まれ、茨木県立工業学校、その後多賀高等工業(現茨木大学工学部)を卒業されている。
多くの人は尋常小学校6年、高等小学校2年(昭和16年からは国民学校)を卒業後すぐ就職していた時代なので優秀だったことがわかる。
高等工業卒つまり今の大卒の人は士官、つまり少尉になる。
わたしの父親の場合、軍人履歴を見ると「高卒」となっているので、高等小学校を出たのが14歳、その後は青年学校に在学しつつ農業をしていたようである。
(当時、高等小学校は義務ではなかったので高等小学校にも行っていない人も多かった)
16歳の年(3月生まれなので満15)に戦争突入、青年学校卒業にたどりついていなかったのではないか。
軍人履歴に「工員」とあるので、以前同級の方からの話と照合すると、おそらく水島(未確定)の軍需工場だろう。
そして19年5月25日に大竹海兵団に入っている。
高等小学校卒なので兵隊つまり二等兵からだ。


終戦直後は仕事も食べるものもなく、多くが農村で暮らすこととなった。
食糧難で農林漁業に期待がかかった。
同書はこの時代も詳細に記録されていている。

貞之介さんは、農業機械、主に耕耘機などを設計製作されていたようだ。
戦後から昭和30年代まで、わたしの地域では、農耕馬が中心だっだ。
牛と一緒の生活も今となっては懐かしいが、一方機械に対するあこがれは強かった。
この左上の〇に大のエンブレム、またステッカーを見るとワクワクする。
足踏みの脱穀機、その他農業機械・器具には、この字体で会社や製品の名前が書かれていた。

発動機のタンタンという音を思い出す。
発動機は稲刈り後の脱穀作業の時に付近の農家のものを借りていた、あるいは共同使用だったかもしれない。
ベルトをかけて脱穀機に繋いでいた。
そして汗まみれ、真っ黒になって働いた。

特に言いたいのは、この世代のみなさんは、戦中だけでなく、新生日本の担い手だった。
あの世代の人たちのおかげで今があると思う。

「ポツダム少尉68年ぶりのご挨拶-呉の奇蹟-」・その2「心晴朗なれど波高し」(立田正雄) 

2017年08月09日 | べんちゃん

「ポツダム少尉68年ぶりのご挨拶-呉の奇蹟-」に重ねた「心晴朗なれど波高し」。
著者は立田正雄(大正3生)さんである。
立田さんは、日向の噴進砲指揮官(少尉)だった。
「軍艦日向栄光の追憶」(日向会昭和52年)呉鎮守府管轄の日向乗員名簿(20年3月5日現在)によると、父は砲術科分隊(機銃・噴進砲)だったので、立田さんの指揮下にあったかもしれない。

こちらはその64、65ページ。
65ページの◇「鉄は熱いうちに打て」を徹底、を読むと、厳しさがよくわかる。


父は、海兵団(日向)での毎日が続いたが、休暇には昨日の記事に書いた同郷の大工さんの家におじゃまをしてした。
19、20歳の父の日常がほのかに浮かんでくる。

続く

「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 -呉の奇蹟-」 その1

2017年08月08日 | べんちゃん


待ちに待っていた「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 -呉の奇跡-」。
県立図書館から町の図書館に届くまで2週間かかったが、到着以来、身の周りにおいている。

これは、呉海軍工廠の地図のページ。
今日の記事は海軍工廠にいたわたしの親せきの思い出から。


父親方の祖父の墓地の周りの木が大きくなって困っていると聞いていた。
墓地は広くて民家も数軒あるのでいろいろと調整がいる。
親せきに行くと自然と呉の話題になった。
もう80才になられるそこの奥さん曰く、
「うちは大工なので、海軍工廠で宿舎とかを建てていた、べんちゃんが休日になると我が家にやってきた。抱き上げてもらったりした、宮島にいっしょに行ったけれど、階段を一緒に歩いた(背負ってもらった)ことがあったと思う。泊まって帰ったことも再々だったと思う」という話を聞いた。
「戦局が厳しくなって、軍の方から、危ないから郷里に帰るように言われ家族一同帰った。子どもながらにべんちゃんが遊んでくれたことが思い出になっている」
呉市〇〇・・・と住所まで克明に覚えておられたのだが、残念ながらノートをしていない。
早く聞いて残しておこうと思う。
19歳の田舎青年が休みの日に、この地図かこの地図に近いところの、同郷の親切な大工さんの家でくつろがせてもらっていたのだ。

こちらは呉の街並みなど。


父が亡くなったのは、わたしが10歳、父はその時41歳だった。
戦争のことも子ども時代のこともほとんど聞いていない。
しかし、このように調べていくと、いろんなことがわかってきて、父から聞いているような気さえしてくる。
「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 -呉の奇蹟- 」の著者フランツさん、ありがとうございます。

続く

再掲・朝が来ると

2017年04月29日 | まどみちお をよむ
4年前の記事を再掲します。



朝が来ると とび起きて
ぼくが作ったのでもない
水道で 顔を洗うと
ぼくが作ったのでもない
洋服を きて
ぼくが作ったのでもない
ごはんを むしゃむしゃたべる
それから ぼくが作ったのでもない
本やノートを
ぼくが作ったのでもない
ランドセルに つめて
せなかに しょって
さて ぼくが作ったのでもない
靴を はくと
たったか たったか でかけていく
ぼくが作ったのでもない
道路を
ぼくが作ったのでもない
学校へと
ああなんのために

いまに おとなになったら
ぼくだって ぼくだって
なにかを 作ることが
できるように なるために
       

まどさんの優しい謙虚な詩です。




わたしが作ったのではない
パソコンに向かって
わたしが作ったのではない
まどさんの詩を借りて
わたしが作ったのでない
デジカメの写真と
わたしが作ったのでない
ブログに
こうやって
記事を書き続けている

何もかも
自分でしているように
思っているけれど
ほんとうは
してもらっている
ああ
なんのためにと
気づかされる

こちらは前掲のものを少し変えてみました。

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ユキヤナギ

2017年04月14日 | べんちゃん


K叔母さんの話し。
わたしの父が豊岡川の祖父の実家に来た時のこと、
ユキヤナギの白い花を見て、
「ぼかぁ、この花が好きなんじゃ」と言っていた。
私の旧宅の岸に咲いているのは、おじいさんの実家から移したものだとも言っていた。
初めて耳にした話だった。

K叔母さんは、父の墓にお供えしてくれていたそうだ。

再掲:さくら

2017年03月31日 | まどみちお をよむ


「さくら」  まどみちお

さくらの つぼみが
ふくらんできた

と おもっているうちに
もう まんかいに なっている

きれいだなあ
きれいだなあ

と おもっているうちに
もう ちりつくしてしまう

まいねんの ことだけれど
また おもう

いちどでも いい
ほめてあげられたらなあ‥と

さくらの ことばで
さくらに そのまんかいを‥







「さくら」 はたかえる

はるかなむかし
「さく」ということばを
そのまま
なまえにもらった花 
さくら

どんな花も
つぼみがひらくことを
「さく」というのに 
きみだけが
もらったなまえだよ
さくら

こどもも
おとなも
おとしよりも
たいせつに
呼んできたきみのなまえ
さくら



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明日はお立ちか

2017年03月12日 | べんちゃん


父親は昭和19年5月25日に大竹海兵団に入っている。
これは、5つ上の兄が昭和16年に海軍に行くときの写真で、いちばん右が父で16歳。
5つ上の兄、つまりわたしの伯父さんだが、もっと話を聞いておけば良かったと悔やまれる。
先日来、大正10年生まれのK先生(伯父と同年齢)のお話をうかがう機会に恵まれて、週に1回くらいのペースでノートをとりながら聞いている。
明日はお立ちかを大陸で古参の兵士に大陸で歌ってあげたところ家族を思い出して目を潤ませていたという。
次にお邪魔した折、曲をPCで聞いてもらったら手をたたいて喜ばれた。