昨年、本家からもらった写真の中に誰の卒業写真かわからないものがあった。
調べていくうち、背景の校舎が昭和12年に新築されたことがわかった。
大正9年生まれの本家の次男(わたしの伯父)Tさんは一階建ての旧校舎で卒業している。
なので、大正14年生まれの父の卒業写真、昭和13年度高等小学校卒業の父の写真ではないかと思った。
縁があるのだろうか、ここ数か月、近在にご健在の同級生4人の方に会うことができている。
8割の方の名前がわかった。
しかし、父がどこにいるかわからない。
同級だったことには間違いないとおっしゃっるのにもかかわらずだ。
父は大正14年3月の早生まれなので、13年4月から14年3月生まれ、昭和13年度、14年3月卒業の組のはずだ。
だが、お話をうかがった同級生の皆さんは大正14年の4月から15年3月生まれの方、つまり昭和14年度、15年3月の卒業だった。
ということは、父はこの上の学年にいたことになり、この写真自体が違うのかもと思った。
だが、同級生のTさんが、
「1年の時、出席番号の1番と2番の人が五十音の並びから外れていたのを覚えている、あなたのお父さんがその一人だった」とおっしゃった。
昨年亡くなったいとこのK小母さん(大正14年12月生まれ)の50年余り前の声がよみがえってきた。
「べんちゃん(お父さん)は、わたしと同じ大正14年生まれだけれど、早生まれなので先に小学校に上がった。
じゃが、病気になって長う休みが続いたので、わたしといっしょの学年になった」と言っていたのを思い出した。
父は尋常小学校1年の時の病気をして、1年遅れたのだ。
実は、本家には7人の子がいた。
しかし、長女のSさん、次男のTさん、4男の父を残し4人が子どもの時に旅立っている。
父だけではない、家族の悲しみや苦労にも思いがよぎる。
K小母さんが、
「お父さんはようかけりょうった(よく走っていた)」と言っていたのも同時に思い出した。
同級生Tさん曰く、
「師範出の先生が二人赴任して徒競走を教えてくれるようになった、それまで近隣校との対抗戦でいつも敗れてバカにされていたが、その年に優勝した」
「〇〇8等、しりはっとう」という歌で、よその小学校にからかわれた」、これはTさんだけでなく、同級生T女子Mさんからも聞いた。
同級生Tさんの回想によると、
「大会に行く途中の峠道におじいさんが現れて今度も負けたら帰りにこの道を通してやらんと言われた」とか、
「優勝したので地区の人を招いて運動場で優勝旗を持って誇らしく行進した」ということだった。
ところで、上の卒業写真、わたしはひとりこの人ではないかと思う人がいる。
それは、背をかがめ帽子を深めにかぶっている4列、右から2人目の人だ。
下は、昭和15年12月に出征した5つ上の長男Tさんの写真、Tさんの右が父だ。
深めに帽子をかぶっている人に似ていると思うのだがどうだろう。
古い写真がいろいろとわたしに語りかけてくれているようで、わたしは写真との会話を楽しんでいる。