父親の19、20の頃を過ごした広島の大竹、安浦、呉を3泊4日で旅した。
今日はその初日、最初に訪ねた頼山陽の記念館。
国史跡「頼山陽居室」
wikiよりまとめる
頼山陽(らいさんよう
安永9年12月27日(1781年1月21日)~天保3年9月23日(1832年10月16日)①)。
大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人、幼名久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成、山陽、三十六峯外史と号、主著『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響。
父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し朱子学研究を進め、江戸堀北(大阪市西区江戸堀付近)に私塾「青山社」を開き、多くの文人や学者とかかわる。
山陽はこの地で誕生、母は飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸②。
天明元年(1781年)、父が広島藩学問所創設の際に登用され転居、
袋町(広島市中区袋町)③で育つ。
山陽も父と同じく詩文の才あり歴史に深い興味を示す。
天明8年(1788年)、広島藩学問所(現修道中学、高校)に入学。
その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸遊学し、父学友・尾藤二洲に師事。
帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも叔父杏坪によって連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉。3年の間著述に明け暮れ『日本外史』の初稿が完成。
文化2年(1809年)謹慎を解かれ広島藩学問所の助教に就任。
文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の
菅茶山の廉塾④の都講(塾頭)に就任。
文化8年(1811年)学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから再び京都へ出奔、開塾。
文化13年(1816年)、父春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。
翌々年(1818年)には九州旅行、広瀬淡窓らの知遇を得る。
文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付ける。
文政9年(1826年)には
『日本外史』⑤が完成。
文政10年(1827年)には
老中松平定信⑥に献上。
文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。集まった京坂の文人は、父春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子小竹、京都の蘭医小石元俊の子元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子半江、京都の浦上玉堂の子春琴、岡山の武元登々庵、さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家菅井梅関、尾張出身の南画家中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工青木木米、幕末の三筆として名高い貫名菘翁、そして遠く九州から文人画家田能村竹田も加わり、彼らは詩文書画を競った。
この他にも⑦。
その後も『日本政記』『通議』などの完成を急いだ。
天保年間に入った51歳ごろから喀血があり、天保3年(1832年)に死去、享年53。
山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば、筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかっていたという。
また、遺稿とされる『南北朝正閏論』の自序にこれを書く決意をしたのは9月12日の夜(死の10日前)と記す。
最初の妻との子長男が頼聿庵、京都で生まれた2人の子次男が頼支峰と三男が頼三樹三郎。
『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。
『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
『日本外史』は武家の時代史で、簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読された。参考史料として軍記物語なども用いているため、
歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見⑧する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つとも言い得る。ただし簡明であるがゆえに巷間で広く読まれ、幕末・明治維新から、昭和戦前期まで、広く影響を与えた。
なお山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名、同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に。
ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)あり、易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の皇統の一貫に基づく国体の精華を強調している。
①西暦と年号など覚えていれば理解が早いのに勉強不足で残念、旧暦と新暦の月日が異なるのが新鮮。
②文人の家系なのだと。
③こちらに頼山陽史跡資料館。
④福山市神辺、記念館あり。
⑤これが何といっても山陽の最大業績、だが今はそれほどの注目を浴びることはない、まったく過去の思想家。この注目されない山陽に目を向ける、これが旅の目的、楽しさである。
⑥禁書にされないようまず定信に献上し許しを得るねらいがあったとのこと。
⑦記念館では、これよりも前(たぶん広島時代)に古川古松軒との交流ありと紹介。
⑧記念館では、山陽は細部は歴史考証の得意な学者に任せ、自分は概略を書き記すことに徹するとあった。