のんびり百名山より。
空襲のことは耳にしていたので、呉の戦いも空襲の一つという認識だった。
しかし、呉の場合は、空襲だけではなく本格的な戦場になっている。
調べてみれば知らないことばかりだった。
広島県倉橋島北部音戸町の東岸に繋留された日向。着弾した海面に白波が。多数の軍艦が浮き砲台とされた。
「信号兵の思い出―戦艦日向の最後―」大皿俊治
1.呉徴水第五八六一一号
昭和十八年一月、大竹海兵団へ入団した私の兵籍番号である。この数字は、呉鎮守府管下の海兵団で水兵を命ぜられた第五八六一一番目の現役兵であるという意味らしかった。大竹で二ヶ月にわたって水兵としての基礎教育を受けた私は、信号員を志望して横須賀の海軍航海学校へ送られ、発光・手旗・旗りゅう信号やラッバ吹鳴などを文字通りたたき込まれたのち、その年の九月一日にはかねてからの駆逐艦乗り組みの熱望もむなしく「鬼の日向か、地獄の伊勢か」と歌われるほど軍紀厳正で有名な、戦艦日向への配乗を命ぜられたのであった。そのころ日向は、佐世保海軍工廠のいちばん奥にある第七船渠に入っていて、リベットを打つ響きが、ドックの壁にこだましていた。艦尾の五、六番主砲塔があった跡には、格納庫と射出甲板が、ほとんど出来上がった巨大な姿を見せていた。ミッドウエー海戦で失った四空母の穴を埋めるために、日向と姉妹艦・伊勢は、爆撃機二十二機を積む航空戦艦にコンバートされている最中だったのである。略
2.情島へ
(昭和20年)連日のように沖縄へ向かって特攻機が飛び立っていたころ、内地の重油タンクはすっかり底をついて、生き残っていた十指にもみたない戦艦、巡洋艦、航空母艦等の大型艦を動かすだけの燃料もないところから、軍艦を島陰に疎開させる計画が具体化しつつあった。動けない大きな軍艦を港の中につないでおいても、格好の爆撃目標になるだけ、というのが、追い詰められていた当時の実態であった。事実、三月十九日に呉軍港が初めて米空母機動部隊の艦載機に攻撃されたとき、沈没した艦こそなかったものの、戦艦日向、伊勢、榛各、空母天城、龍鳳、巡洋艦利根、大淀など在泊大型艦のほとんどが、大なり小なり損害を受けたのである。伊勢は倉橋島音戸沖へ、榛名は江田島小用桟橋の近くへ、そして日向も呉港外の情島沖へ転錨することになり、四月二十七日一〇〇〇ごろ、最後の出港ラッパを鳴らして、呉港二十一番ブイを離れた。戦艦大和の巨体はすでに無く、港内には数隻の小型駆逐艦と潜水艦がひっそりと固まっているだけで、見送りの帽を振ってくれる人もいない、寂しい出港であった。原速十ニノットで江田島の北を回り、能美島、倉橋島を左に見て、音戸ノ瀬戸の東南、情島の東北に投錨した時には、昼も大分すぎていた。この"航海"で、わずかに残っていた重油の大半を消費した、と聞いている。さっそく船体に迷彩塗装を施したり、後檣のトップに木の枝をしばり付けたりして、擬装にとりかかったが、うわさに聞く他艦の擬装ほど徹底したものではなかった。五月五日、B29の編隊が飛来し、七㌔ほど北方の広航空廠に白昼精密爆撃を加えた。陸上砲台や呉軍港方面から撃ち上げる対空砲火は編隊まで届かず、いたずらに弾幕を張るだけである。こうした事態のために、長い射程を持った日向の三式弾射撃が期待されていたのであったが、このとき日向は潮流の関係で艦尾を北に向けており、後ろを向いている四門の主砲も、巨大な格納庫のため広の方向は死角になっていたのである。
航空廠は爆煙で覆われ、やがで鉄骨の残骸だけになった。北方へ望遠鏡を向けるたびに、私達は責められているような気持ちになった。五月七日、自力航行する重油もすでになかった日向は、呉から来た数隻の曳船に引かれ押されて、情島の北西に移動し、海岸から百㍍ほど離れた水深約十㍍の浅瀬に、艦首を東に向けて前後に錨を打ち、艦を固定した。この方向は、艦首正面を広工廠に、左四十五度の射撃角度の最も良い位置を呉軍港方面に向けており、また爆撃されて浸水着底したとしても、上甲板から上は海面上に出ていて、防空砲台として使用できるはずであった。大型艦を呉港内からあちこちの島陰へ疎開させるに当たって、「特殊警備艦」という名称が与えられていたが、これは、擱坐したのちも海上砲台に使おうとする含みを持っていると聞かされていた(日向の場合は、爆撃で罐室をやられて主砲塔を動かす電力が失われたため、この計画は成功しなかった)。
最盛時には二千名からいた乗組員の半数以上は、本土決戦に備えて転属した。再び航行することは考えられなかったので、機関科分隊がごっそり減り、エンジン四基、ボイラー八基のうち、一基のボイラーを焚くのに必要な人員だけ残って電気を起こしていた。動けなくなったとは言っても、その程度の重油はまだ持っていたのである。搭載機がなくなってからも、応急員として全員残っていた整備科の兵隊たちも大部分は退艦し、艦内で定数に近い員数をそろえていたのは、主砲、高角砲、機銃分隊と、航海科分隊の信号・見張りぐらいだったと思う。優秀な下士官兵が出て行ったあとへは、補充兵、国民兵、徴兵繰り上げの若年兵などが補充されて来たが、海兵団で十分な訓練を受けないまま乗艦して来るので、熱意は人一倍あっても一人前の勤務には程遠い状態で、失敗を繰り返しては若い下士官の罰直の対象になっていた。彼らに対して毎晩のように甲板整列が行われ、怒号、罵声が艦内のあちこちで聞こえた。その間にも夜になるとB29の編隊が現れ、徳山、岩国、呉…といったなじみ深い街が次々に焼かれて行く火が、遠くに見えた。
3.第一波の戦闘
七月二十四日火曜日、この日も晴天であった。夜明けごろ「敵小型機の大編隊、豊後水道南方に接近中」の情報が入った。三月十九日以釆、久しく姿を見せなかった米空母機動部隊の来襲である。高角砲も届かないような高空から爆弾をバラまいて行くB29は、軍艦にとってさほど恐ろしい存在ではなく、また敵としてもなじめなかったが、目の前まで接近して攻撃して来る空母機はわれわれの正面の敵という感じであったし、過去の対戦の経験から彼らの破壊カの恐ろしさも熟知している。「今日は激しい戦闘になるぞ!」闘志と緊張感が背筋を走り抜けた。〇七〇〇(午前七時)を少し過ぎたころ、見張り員が右一四〇度方向に敵艦上機八機を発見。「対空戦闘配置に就け」が、かかった。編隊は日向を横に見て、右四〇度方向の上蒲刈島の北方で急降下に入った。陸上砲台が発砲する。弾幕の中を小さい機影がスーツと舞い上がり、身をひるがえして舞い降りる。まもなく、敵機は急に方向を変えて南方へ退散し、あたりは静かになった。最初の来襲は、あっけなく終わったが、そのあと艦橋でトラブルが起こった。実戦経験のない新乗艦者や若い兵隊達にとって「配置に就け」のラッバは突然の出来事だったのであろう。戦闘配置にかけつけるのが精一杯で、艦長用の鉄カブトや防毒面を用意するのを、だれも気付かなかったのである。これは若い信号兵の仕事のひとつとして、日ごろから口やかましく教えられていたことであった。敵機の姿が見えなくなると、艦長は、戦闘艦橋で航海長を叱責した。総員配置が解かれると、一部の当直員を残して、水兵長以下に甲板整列がかかった。艦長の叱責が末端まで下りて来たときには、罰直にまで増幅していた。"鬼の日向"の伝統は厳然と残っていたのである。甲板に並んだ兵隊の前で、下士官が交代で長い長い文句を並べ始めた。たるんでいるから鉄カブトを忘れたのだ、というのは制裁を加える口実である。「ウオーミングアップ」も終わって、いよいよ本番のバッターが振られようとしたとき、戦闘ラッパが鳴り渡った。
「対空戦闘配置に就け!」。罰直どころではない。戦闘艦橋へ、防空指揮所へと一斉に散った。○八四〇であった。右一七〇度方向右舷艦尾に近い方角から、ゴマ粒をまいたような艦上機の大群が迫って来る。距離はすでに二万㍍を割っていた。上空にはほとんど雲もなく、視界は良かった。編隊の真ん中へ、三十六㌢主砲の三式弾を撃ち込むには絶好の日和である。ところが、敵も長射程の三式弾射撃の威カを警戒しているのだろうか、情島を楯にとるような態勢で接近してくる。四基八門の主砲は右舷に重々しく旋回したものの目の前に横たわっている標高百㍍ほどの稜線が邪魔になって、発砲できそうにもない。どうやら、最初から機銃を主体とする近距離戦闘にもつれ込みそうな気配である。鉄カブトをかぶった艦長は、戦闘艦橋の羅針儀の前に立った。私は艦長伝令として、その左後方でラッパを握りしめ「打ち方始め」の号令を待った。戦闘に傭えてガラス窓を一杯に下ろした艦橋の中を、さわやかな朝風が吹き抜けて行く。敵編隊はじりじりと右前方へ移動し、右四五度方向、距雛五千㍍あたりまで来ると、約四十機の一団が本隊から分かれ、左へ旋回して日向へ機首を向けた。艦長が、大声で「打ち方始め」を命令した。私は、回れ右をして、大支柱に取り付けてある高声令達器(拡声機)に向かって、ラッバを吹鳴する。右舷の高角砲群が一斉に火蓋を切った。「敵編隊、急降下に入る!」。頭上の防空指揮所で見張り員が絶叫した。 敵編隊は弾幕を突破し、朝日を背に数珠つなぎになって突入して来る。機銃も、ロケツト砲も、おびただしい火箭を飛ばし始めた。猛烈な対空砲火にひるんだのか、一番機は早々に爆弾をほうり出し、きらりと白い腹を返して避退した。当たらない。左手の海面に水柱が上がる。二番機も三番機も駄目だ。艦橋よりも高い水柱が、次々と艦の左右に立ち上がり、弾片がバラバラと降り注いで来た。 一機が黒煙を曵いて海中へ突っ込んだ。また一機。息もつかせぬ集中攻撃のため、歓声を上げる余裕などない。やがて、敵機は潮が引くように一斉に姿を消した。直撃弾こそなかったものの、連続して爆発した約四十発の至近弾のため、艦の周囲は海底の泥がまき上げられて、真っ黒な泥海となってしまった。機銃台では、足もとに散乱した空薬爽を片付けるのに忙しい。まだ弾幕の残っている上空を見上げると、別の編隊が呉の上空で舞っている。
4.第二波の戦闘
だが、いつまでも"観戦"してはいられなかった。第二波がやって来たのである。先刻と同じ地点で二手に分かれ、一部はそのまま呉へ、残りは日向に向かって来た。進入コースも機数も、判で押したように同じである。「敵編隊、来襲!」「打ち方始め」。二十五㍉機銃が、甲高い音をたてて、赤い曵光弾の束を撃ち上げる。やや間隔を置いて乾いた音を響かせているのは、十二・七㌢高角砲だ。またも右舷前方からの攻撃である。後部と左舷の機銃、高角砲は使えない。一番機の黒い胴体が、みるみる太くなった。舷側に大きな水柱が上がる。だが、今後の敵機は、十分に踏み込んでから爆弾を投下した。また一機。たたきつけられるような激しいショック。直撃弾だ。後部に命中したらしい。艦が前後に揺れる。足もとが心もとない。次は至近弾。そして、またもや命中弾だ。三万八千㌧の巨体が震動する。至近弾も、ぐっと近くなって、爆発のたびに船体を持ち上げられるようだ。そして、命中また命中。直撃弾は、艦の中、後部に集中しているらしいが、水柱と爆煙のため視界をさえぎられて様子がわからず、後ろを振り返るだけの余裕もない。艦橋の中へ爆煙と哨煙の渦が流れ込んで、薄暗くなって釆た。息苦しい。無限に続くかと思われるような爆弾の炸裂音。互いの表情に、ようやく不安の色がただよう。 大支柱に取り付けてある電話が鳴った。「機関科指揮所。火災、機関員が閉し込められている」伝令が報告した。爆発の衝撃で甲板や隔壁が変形すると、扉が開かなくなり、中の乗員は脱出不可能になる。そこで何人かの機関兵が、艦内に電気を送るためにボイラーを焚いているはずであった。「煙で窒息する。あと数分…」火と煙に苦しめられている仲間の姿が目に浮かぶ。だが、彼らに何をしてやることが出来るというのだ。間もなく電話が途絶えた。機関科指揮所といえば、艦のいちばん底の罐室の中にある。被害は、そこへまでも及んでいるのか。海面に、また至近弾の水柱が上がった。爆弾を落とした敵機が、再び昇して機銃掃射を加えて来た。鉄板に機銃弾がビシビシと命中する。このとき艦橋の中には二十名ほどもいたろうか、わずかな器具や壁を楯にとって、少しずつ左舷側へ退避を始めた。私も体を隠したいが、羅針儀の前に立ったままの艦長から、あまり離れるわけにもいかない。背筋のあたりに不気味な予感が走って、無意識に左前方へ一、二歩踏み出したとき、張り裂けるように異様な音響と衝撃を背後に感じて倒れた。あるいは本能的に伏せたのかも知れないが、倒れているのに気付いたのは、爆煙に吹き払われて周囲が見えるようになってからである。爆弾が八㍍ほど右後方の、戦闘艦橋後部の右舷機銃台を直撃し、デッキを貫通してその下の無線電話室で炸裂したのであった。立ち上がったとき、すでに敵機の姿は見えなかったから、おそらく最後の一機が投下した爆弾だったのであろう。このとき、艦橋内に約二十名、後部の左右機銃台に五、六名ずつの計三十名ほどが同じデッキにいたと記憶しているが、後下方で起こった爆発によって十余名が死傷し、ことに右舷後部の配置員は、全員戦死または重傷を負った。
薄れてゆく煙を透して私の目に映ったのは、デッキに足の踏み場もないほど散乱している死傷者と、彼らの体の一部分であった。ある者は白い事業服を紅に染めて転げまわり、またある者はすでに動くだけの力もなく、血だまりの中で呻いていた。直撃を受けた右舷機銃台では、徴兵前に同じ職場で働いていた同年兵が、数名の兵と共に奮戦していたはずであったが、機銃もろとも文字通り散華して、近くの鉄板に肉片がわずかにこびりっいているだけであった。左舷側の機銃員もすべて打ち倒され、一人は抱きっくような格好で銃床にめり込んでいた。艦橋後部にある航海長休憩室の厚い鉄の扉は無造作に裂け、その向かい側、艦長休憩室の鉄壁にたたき付けられて立ったままの姿で戦死していたのは、確か機銃分隊長の士官だったと記憶している。鉄板で囲まれた狭い艦内での爆発は、陸上や海面での炸裂と違ってエネルギーの逃げ場が少ないため、かえって何もかも破壊せずにはおかない力で室内を暴れ回リ、鉄板を引き裂き、人体をむごたらしく傷つけるのであろう。艦長はしばらく呆然としておられたが、上空に敵機がいないのを確かめて、死傷者を下の羅針艦橋へ運ぶよう命じた。だが、生存者は十余名しかいないうえに、下へ降りるラッタルが破損して足場が悪くなったので、作業は思うようにはかどらない。腹部に弾片を受けて、苦しみ暴れる同期の信号員を担って、ようやく一段下のデッキまで降りると、戦闘艦橋で勤務していたはずの一人が、下部見張り所の前まではね飛ばされ、頭を真っ二つに割られて倒れていた。羅針艦橋は、戦闘艦橋から長いラッタルを三つほど降りた所に作られていて、航海用の器具や部屋の構造は、戦闘指揮に使う上の戦闘艦橋と同じである。平時の航海の際はここで操艦をするので、航海艦橋とも呼ばれている。広さにゆとりがあるうえ、航行することもないので仮包帯所になっていたが、私達が降りて行ったときには、すでに各所から運ばれて来た死傷者で一杯になっていた。死体は山のように積み上げられ、うめき声、叫び声の間を衛生兵が応急手当てに走り回っている。私が戦闘艦橋で見た地獄の光景は、艦内数か所いや十数か所で繰り広げられていたのである。
5.看護婦の救援看護
死傷者の搬送がようやく終わると、艦長が待ち受けていたように「鎮守府へ連絡したいが…」と言われた。あまりに負傷者が多く艦内だけでは手当て出来ないので、呉海軍病院の応援を得たいのだが、電信室もやられて交信不能になっていた。陸上を中継するよりほかに方法がない。
私は、対岸の倉橋島の大浦基地に「本艦死傷者多数、鎮守府二迎ヘヲ依頼サレタシ」、と発光信号を送ったが「陸上電話線故障、中継不能」の信号が返ってきた。戦闘艦橋のリノリウムばりのデッキは、赤い池のようになっていて、慎重に歩かないと血のりに足をとられて転倒した。
無電室をやられてから、敵情は全く入って来なくなったが、時刻からみてもまだまだ攻撃は続くてあろう。戦友が残した血潮を洗い流し拭き取って、次の来襲に備えた。だれも彼も、自分の血、他人の血で白い事業服を赤く染め、黙々と作業をしている。ふと海面を見下ろしたところ、いつの間にか数隻の漁船が出て来て、至近弾の水中爆発のため白い腹を出して浮いている魚を、競争のように網ですくい取っている。艦内に多数の負傷者が苦しんでいるのとは、あまりにも対照的な光景であった。あの漁船で負傷者を病院へ運べば、助かる者も多勢いるのである。大声で呼びかける声もあったが、生業に余念がないとみえて、全く反応がない。一一三○ごろだったと思う、音戸ノ瀬戸を抜けて三隻の曵船が近づいて来た。十二㌢見張り眼鏡の焦点を合わせると、船上に白衣の姿が見えた。看護婦だ!
「曵船が来ます。病院かららしい看護婦が乗っています。本艦へ向かって来る」目を血走らせ黙々と血のりを拭っていた連中が、腰を上げてどやどや集まって来た。望遠鏡をのぞいて奇声を上げる者もいる。それは、危険を冒して呉海軍病院から負傷者の収容に来てくれたことに対する感謝と安堵の表現であったが、半面、久しぶりに女性の姿を眺めることが出来た喜びの声、と言った意味も強かった。私達は内海に停泊していたにもかかわらず、三か月以上も異性と接する機会がなかったし、つい先ほど地獄の業火をくぐり抜けて殺気だっていた時であっただけに、白衣の乙女達の姿は天使のように見えた。気のせいか、今まで沈欝だった艦橋の空気も、ややほぐれて来たようであった。笑顔を見せている者さえある。艦長も、ゆったりと双眼鏡を下ろして、穏やかに「負傷者移乗の用意にかかれ。信号員! 曵船へ"御苦労さん"と信号を送れ」と言った。三隻が舷側に横付けしたのは、正午少し前である。少数の配置員を残して、総出で重傷者から担荷に乗せた。すでに看護婦達は、白衣を血に染めて手当てを始めていた。移送作業の合間に、交代で戦闘配食の握り飯を食べる。手の汚れは、もう気にならなかった。それよりも、早朝から休みなく働いていたので、疲れ果てて、腰から膝にかけて力が入らない。しかし、あわただしい食事が済めば、また死傷者を運搬しなければならない。太陽は真上から照りつけ、さざなみがぴたぴたと舷側を軽くたたいている。風はない。いつものように物憂いほど静かな夏の日の午後であっだ。
少なくとも七、八発の直撃弾を食ったはずであったが、日向はがっしりと浮いていた。火災もすべて消し止められている。ただ、爆弾が集中した中部の上甲板から後部の射出甲板にかけては対空火器にかなりの損害をこうむっているらしい。高角砲や機銃を、なんとか直そうと、手を油だらけにしている姿が方々に見られた。一三〇〇ごろ、南の空に編隊が湧いたように姿を現した。「敵機来襲!」「戦闘配置に就け」。曳船は死傷者の収容を中止し、急いで舷側から離れた。編隊は日向の右前方を通過して、呉を目指している。数機が本隊から離れて急降下態勢をとったが、命中しなかった。再び曵船が寄って来る。呉の上空は、はや対空砲火の弾幕で真っ黒になっている。爆撃を終えて帰る途中だったらしい二、三機が、いきなり機銃を撃ちかけて来た。左舷の機銃台が応戦し、曳船はあわてて避退して行く。こんなことが数回繰り返したように思う。波状攻撃がある度に収客作業を中断されはしたが、一五〇〇ごろまでに収容者で一杯になったので、艦内にはまだ死傷者が残っていたが、ひとまず呉へ引き返すことになった。
6.第三波の戦闘
手を振っている白衣の姿が、レンズの中で小さくなって行く。私達は再び視線を空へ戻した。しばらくは静寂がつづいた。やがて、南の青空が一団のゴマ粒を吐き出した、ゴマ粒は間もなく豆粒ほどの大きさになり、数梯団の編隊にふくれ上がった。今朝から定期航路のようになっているコースを北上して来る。どうして彼らは、こうも同じ接敵法を繰り返すのであろうか。右前方四五度方向、五千㍍あたりで左ヘパンクして日向へ機首を向けた。次の編隊も、その次も、旋回して態勢を整えている。「対空戦闘!」。この甲高い、テンポの速いラッバを、早朝から何回吹奏したことか。またも、右斜め前方から爆撃コースに入った。対空砲火の力が、かなり衰えて来ていたこともあったろうが、今までの攻撃隊のうちでは最も勇敢であった。艦に体当たりするのではないかと思われるほど接近して爆弾を放した。エンジンの轟音が、艦橋を揺するようにひびく。至近弾だ。その次も外れた。艦は水柱で取り囲まれ、デッキの上にも、どっと崩れ落ちて来る。ガンッ! 遂にやられた。前檣楼全体が、ぐらぐらっと揺れる。命中の衝撃が続いた。艦橋の中を爆煙が吹き抜けて行く、機銃の発射音が、急に衰えて来たようだ。爆弾が当たると、付近の対空火器は使えなくなるので、全体の防御砲火が弱くなり、爆撃はますます正確になってゆく。わずかに残っている機銃台は、過熱した銃身に水をかけながら応戦を続けている。舷側から浸水が始まったのか艦が右に傾き始めた。いきなり頭上で爆発が起こった。音、というよりも圧力といったほうが正確であろう。体が裂けたかと思われるような衝撃を受けて、すべての感覚を失った。しばらくは何も見えず、聞こえない。いや、胸だけが押しつぶされるように痛かった。痛いと感ずるのは、まだ生きている証拠なのか。冷たい風が頼をかすめたような気がして、無意識に口を開いた。おそらく、金魚が水面に口を出してバクパク空気を吸っているような格好だったであろう。かすかに.明かりがさしてきた。黒煙の切れ間から、海が、向こうの山がぼんやり見える。隣にだれか倒れている。煙で息が苦しい。左にかく、左舷の張り出しまで出て、空気を吸おう。起き上がろうとして、はっと気がついた。私は、その張り出しに倒れているではないか。艦橋の中央で、艦長のそばに立っていたはずなのである。爆風で吹き飛ばされて来たのであろう。まだ他人のもののように感覚のない手足を突っぱって、ようやく立ち上がる。新鮮な空気を一杯に吸い込むと、胸がきりきりと痛んだ。艦橋の中にこもっていた爆煙が風に吹き流され、明るさが戻って来るに従って、被害の模様がようやくのみ込めて来た。右舷前部の、天井の分厚い鉄板が大きく裂けて艦橋の中に垂れ下がり、火の粉を降らしながら激しく燃えている。前檣楼最上部の防空指揮所に命中した爆弾が、甲板二層を貫通して三層目の測的所甲板で炸裂したのである。測的所甲板は、私達のいた戦闘艦橋の天井でもあった。そして艦橋の床では、再び凄惨な情景が繰りひろげられていた。第二波の爆撃の際、艦橋員は半数ほどが死傷して、すでに十余名に減っていたのだが、生き残りの約半数がまた倒されたのである。右舷前部で十一㌢望遠鏡に就いていた見張り貝員は、右大腿部を根もとからもぎ取られて即死し、その傍らに倒れていた三、四人の氏名は、すでに判別し難かった。艦長は、全身に火傷を負って、羅針儀の付近に倒れていた。私は、確かに艦長のすぐ左後方に立っていたのだ。それが、どうして助かり、艦長が黒焦げになるほどの重傷を負ったのであろうか。運命という一片の言葉だけでは片付けられない不思議である。天井が、またたく間に火の海になった。厚く塗ったペンキが燃え、鉄板が燃えて、火の塊が降って来る。下からも、どっと煙が吹き上げてきた。羅針艦橋からも、激しい火炎が舞い上がっている。あとで羅針甲板右側にも被弾があった、と教えられたが、いつ命中したのか覚えていない。
呉方面から帰って来たらしい編隊が、急に身をひるがえして接近しで来た。戦闘艦橋で生き残っていた七、八名は、ドラム罐や望遠鏡の架台を楯に姿勢を低くし、デッキの血だまりに伏せた。敵機はガーツと爆音を残して次々に飛び去って行く。爆撃の恐怖があまりに大きかったため、私達は敵機が接近して来るたびに、右に左に逃げ回った。しかも、なるべく集団の中心に自分を置こうとする。そこには、士官も、下士官も、兵隊もなかった。自分だけは生き延びようとする、赤裸々な人間本然の姿があった。そのうちに、ふと気がついた。彼らはしきりに攻撃のまねを繰り返しているが、機銃掃射も爆弾投下もしない。「大丈夫だ、撃って来ないぞ」大声で叫ぶと、二、三人がつられたように立ち上がった。上空を見上げると、一杯に広がっていた弾幕もきれいに拭い去られ、青い夏の空に数機の敵機が、日向の最期を見届けるように、旋回を続けていた。日向は、わずかずつではあったが、傾いて行くようであった。致命傷になった一弾というものはない。艦齢二十七年の老戦艦にとどめを刺したのは、十数発の直撃弾と数十発の至近弾の集積であった。外板のリペツトがゆるみ、舷側が開いて、徐々に浸水して行ったのである。米戦略爆撃調査団の報告書には、七月二十四日、〇九一五から一六三〇にわたって約百機が呉地区を空襲し、うち五、六十機のTBF(アベンジャー雷爆撃機)が日向に約二百発の爆弾を投下、直撃弾十、至近弾二十ないし三十発を与えた、と記されている。しかし、私は、来襲機数と命中弾は、この数字よりもっと多かった、という印象を持っている。
7.艦橋からの脱出
火が、足もとの鉄の甲板を、じりじり焼き始めた、天井は、かなり前から燃えさかっている。防空指揮所から見張り員が六、七名、転げるように降りて来て、「上も火災だ。負傷者が降りて来られない」というが、私達も負傷者の救助どころか、生存者まで火に包まれそうな状態になっていた。ラッタルは破壊され、下も火の海であったが、戦闘艦橋から脱出できそうな方法が二つあった。一つは、マンドレッド(弾片防御物)として吊るしてある口ーブを解いて、艦橘の外側を二十㍍ほど伝って最上甲板まで降リる。ただし、途中で火炎の中をくぐり抜けねばならず、ローブが焼け切れてしまうおそれもあった。もう一つは、戦闘艦橋後部から、揚艇用デリックのワイヤを伝って、空中サーカスのように煙突の探照灯台までの約二十㍍を逃げるのである。気の早い者が、ローブを解くのを待ちきれずに、二㌢ほどの太さがあるデリックのワイヤにぶら下がった。うまく行けばよいが、と見守っていると、手を滑らせて十五㍍ほど下の短艇甲板に墜落してしまった。防毒面を付けたので、息苦しさからは解放されたが、火はますます燃えひろがり、壁の鉄板が赤くなった。ようやくロープの用意が出来ると、副長が「後艦橋で指揮をとる」と言い残して、垂れ下がったロープを握った。だれかが「敬礼」と叫んだ。それは、艦橋を放棄する敬礼なのか、艦橋に残して行かねばならない戦死者や艦長以下の重傷者に対する決別の敬礼なのか、よくわからなかったが、私は、配置を守って戦死した同期の鴨井水兵長に視線を送って敬礼を捧げた。右舷側で倒れている彼の遺体は、すでに炎の壁の彼方に在った。副長が姿を消すと、統いて航海長、見張長と、士官、下士官の順で火炎の中へ降りて行った。火はますます燃えさかっている。ドラム罐の防火用水を頭からかぶって、順を待つ短い時間が、実に長く感じられた。ようやく順番が来て舷外に乗り出すと、吹き上げてくる熱気に包み込まれ、下部見張り所の横を通過して羅針艦橋にさしかかるころには、全く火の中にのみこまれた。思わず握りしめた手をゆるめると、もんどリ打って下の甲板にたたきつけられた。幸い距離が短かったので、どこにも傷はない。助かった。見上げると、二、三人が団子のようにロープにつながったまま、火勢にためらっている。この連中もどうにか無事に降りられたが、その直後にロープが焼き切れた。残った者は、再び揚艇用デリックのワイヤにすがって、軽業師のように煙突へ渡り始めたが何名かは力つきて下の甲板へ落下した。戦闘艦橋より上の、防空指揮所や測的所甲板から逃げ遅れた者は、火煙に追われて、二、三十㍍の高所から海面めがけて身をおどらせたが、大部分は露天甲板に転落して即死した。その中には、私と同期の男前だった見張り員の姿もあった。十名ほどの生存者は、副長と共に誘爆している銃砲弾の弾片を避けながら、変わり果てた上甲板を走って後艦橋へ移った。後部見張り所に上がると、数発の直撃弾を受け大きく崩れ落ちている射出甲板の全貌が見えた。エレベーターも陥没している。艦の中央部、第三、第四主砲塔横のデッキにも大穴が開いていた。脱出してきた巨大な前檣楼は、真っ赤に焼けて、数十㍍も黒煙を吹き上げている。上空に敵機の姿はなかった。呉から数隻の消防艇が救援に来てくれたが、高い前檣楼までは水が届かない。しかし、日没までには、上甲板や射出甲板の火災はすべて鎮火した。前檣楼は強い西日を浴びて、南の風にあおられながら、ますます火勢を増して燃え上がっている。私は、全身黒焦げになって戦闘艦橋で倒れていた艦長の姿を思い出していた。私は、燃える艦橋から目を離すことが出来なかった。やがて長かった七月二十四日の太陽が、倉橋島の陰に沈んで行った。暗黒の中で前檣楼は燃え続け、海面を赤く染めた。二〇〇〇ごろ、航海科員に総員集合がかかって人数を調べたところ、信号、見張り員など総数七十余名のうち、集まったのはわずか十八名しかいなかった。犠牲者の多くは若い兵隊で、航海学校を出て一緒に日向へ配属された同期の信号員五人のうち生き残ったのは、私と浦野水兵長の二人だけになっていた。右肩に掛けていたはずのラッパが、なくなっていたのに気付いたのは、その時である。空襲のたびに、幾度も「対空戦闘」を吹鳴したラッパがなかった。取り外した覚えは、全くないのである。艦橋の真上で爆弾が破裂したとき、吹き飛ばされたのかも知れない。私のすぐ右にいた鴨井水兵長が戦死し、艦長が瀕死の重傷を負ったのは、全くの偶然であろうか。これは、ラッパが私の身代わりになってくれたのではないか。そう思うと、なくなったラッパに感謝する気持ちが、こみ上げて来るのであった。
8.ついに擱坐
後檣には、日没時に降下するはずの軍艦旗が、前檣楼の火炎に照らされて、風に泳いでいた。夜更けと共に火勢も衰え始めたが、艦体の傾斜はますます激しくなり、ギギーツと異様な音をたてながら、艦尾から沈み出した。怪音のたびに艦が震動し、海面が泡立ち盛リ上がって来るようである。怪音は明け方まで続いた。海底が浅いことは知っていたが、艦体の亀裂、転覆という事態を想像すると、疲れ切っていても眠る気にはなれなかった。翌二十五日〇四〇〇、総員集合。廃虚のようになった上甲板や射出甲板で点呼が始まった。前檣楼の猛火もようやく治まって、暁の光の中で白煙を風になぴびかせている。主砲砲台の一、二、三、四分隊には死傷者はほとんどいなかった。五、六、七分隊は高角砲、機銃員だったため被害が大きく、機銃の応援に行っていた整備科員を含め、この三個分隊だけで戦死三百名に上ったと記憶している。十一分隊・通信科全滅、十四分隊航海科の信号・見張り貝も四分の三戦死、残存していた機関科も全滅、その他の各科も相当の死傷者を出し、戦死者の総計は艦長以下約五百名。全員の半分近くにも達したろうか。戦死者に黙濤を捧げたあと、信号、見張り、機銃、高角砲員を残して、他は情島に幕舎を建てて待機することになった。艦は沈んでも上甲板から上は海面上にあるので、所期の目的どおリ海上砲台になったのである。ただし、罐室が全滅して発電出来ないため主砲の発砲は不可能、機銃や高角砲も手段をつくして修理を行ったが、当面の戦闘に使用出来るのは、三連装二十五㍉機銃五基だけという心細い砲台であった。その後も日向は、ゆっくり沈下を続け、二十五日夕刻には、一四番砲塔付近の上甲板を海水が洗い始め、二十六日早朝、ほぼ水平の姿勢のまま全く着底した。
日向が大打撃をこうむってから四日後の七月二十八日に、米航空機動部隊は、また呉軍港に攻撃隊を指向して来た。敵編隊は赤褐色に焼けただれて擱坐している日向には目もくれなかった。この日は艦載機ばかりでなく、沖縄か硫黄島から飛来したのだろうと思うが、双胴のP38を伴ったB24の編隊が次々に頭上を通過して行く間、日向は沈黙を守っていた。艦長代行の副長が、事前に機銃指揮官や機銃員達へ「撃つな、絶対に撃つな」と言い含めていたのである。副長としては、これ以上の犠牲者を出したくなかったのであろう。敵機の中には疑ぐり深いパイロットもいたらしく、"死んだふり”をしている日向の上空を低く旋回する者もあった。機銃員達は闘志をむき出して口惜しがったが、命令が出ていては、撃つわけにもいかない。一度だけ編隊を離れた一機が、機銃掃射を仕掛けて来たとき、我慢しきれなくなった機銃員が引き金を引いたが、後檣の陰で機銃弾を避けていた副長が、発砲音に気付いてあわてて「打ち方止め」と怒鳴ったので、あっという間に交戦は終わり、敵機も飛び去った。この日、呉軍港周辺では戦艦伊勢、榛名、巡洋艦利根、青葉、大淀などが日向と同じ運命をたどった、と聞いている。擱坐してからも、私達は情島からボートで日向に"通勤"して、後檣に軍艦旗を掲げ、機銃に配員して警戒体制をとっていた。もはや戦闘はなかった。そしてその状態が日常化していった。八月六日朝、突然雷に打たれ薄桃色のキノコ雲が立ち上がるのを望見したのが、唯一の異変事である。そのころ私達は、八月十五日付で日向が第四予備艦に編入される、という内報を知らされた。「予備艦船規則」に第四予備艦とは「船体等ノ現状如何二関セズ当分就役ノ目途ナキモノヲ以テ之二充ツルヲ例トス」と記されている。戦艦日向の戦争は七月二十四日で終わっていたのである。
9.鎮魂への思い
七月二十四日がめぐって来るたびに、私は炎に包まれていた日向の姿を思い出す。かつての一兵士には、正義の戦争と誤った戦争との間の明確な一線が理解し難いが、乏しい戦闘体験に基づいて言わせてもらうならば、どんな種類の戦争でも、戦場は人間にとって地獄であろうということは断言できる。私は、生き残った戦友とともに、平和の日を見ずに倒れた戦友に対して、冥福を祈りたいと願っている。
昭和20年3月26日現在、呉鎮守府管轄の部の軍艦日向乗船名簿に、父親の名前が一水(砲術科分隊 機銃・噴進砲)として記載されている。大皿さんと同じ経験をしていたと思う。なお大皿さんは、『軍艦日向栄光の追憶』(日向会事務局)に、「油断大敵」「空爆下の日向の奮戦(日向信号員当時水兵長大皿俊治)として寄稿しておられる。その文の一部は『別冊週刊読売・実録太平洋戦争史』(昭49)にも掲載された。
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