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AB19450916VIRGO
 

1960高1

2007-01-12 00:03:34 | 個人フォルダ
中2 Kさんちに養子になり苗字が変わった 越境入学
札幌南4条西24丁目 結構覚えているもんだ 洋館風 洋梨の木が1本あった

満州で 女手ひとつで一旗挙げた 女丈夫のお母さんだった
無口なアイヌのお手伝いさんがいて 家事はまったくしない人だった

手回しの立派な蓄音機があり 俺は暗い廊下で座り込んでパットブーンをよく聴いてた

3年のとき 一人になりたかったのだろうか 今ではわからない
その人の引止めを断って Oさんのお宅の6畳ほどの屋根裏部屋に下宿した

春頃だろうか 顔面麦粒腫という病気になり 顔が包帯でミイラ男のようになり
半年ほど休学 酒 タバコを覚えたのもその頃だ
トリスをなめながら ピースで指を黄色くし
ニーチェとカミユを何度も読み返し それで満足だった

当然成績はガタ落ちし100番代まで落ちていた
勉強しないのだから当たり前と思っていたが
後から聞いた話では 親父は心配してたようだった

琴似町の社宅で家族と暮らすようになった頃の写真 親父が撮ったのだろうか
母と叔父 年上の姪 弟と妹

転校で 大夕張にいた頃の友人と別れたのが多少つらかった
札幌では 友人を作らぬことに決めていた
多少すさんではいた 何故だったのかやはり今ではわからない
某筋もんの息子が妙になついて 閉口したことがあった
立会人になってくれと頼まれたりして 
つるんで歩くのは好みでは無かったので 必要な時しか合わなかったが
今頃 いいじじいになっているだろうか どうしてるだろう

親がいるおかげで生活してるなんて 頭に意識のかけらさえなく
一人で生きているつもりだった 怖いものは何も無く
自分の世界の中で生きていた 子供だったんだな

親には感謝している どんなにしっかりしてるように見えても子供は子供だ
だが そういう時期も必要だったのかもしれない 言い訳だが
だから 自分の子供たちは成人するまで手離さ無かった
あの頃の自分 結構引きずっているものだから余計そう思う

雪駄履いて 町を歩いていた
世間などどうでもいいと思ってた
親は 俺の外での生活は知らない
自分でできる事は自分で処理していたし
面倒なことは家に持ち込まなかった
子供ながら 親に対してその程度の気遣いはあったと思う

渡された写真 記憶がはっきりよみがえる
まるでドミノみたいに次から次へ
よく愛想尽かさず育ててくれたものだ
出来損ないの息子だが こうやってこの年を迎えることができた

幸せものだと思う 死んだ親父 元気なお袋に感謝する
面と向かっては 恥ずかしくて言えない

記録だ 先に繋がるわけでもなく 終わったことを振り返るのはもう意味の無い事だ
先の未来が見えない時 不安と同時に希望がある
未来が見えた時 不安は無くなるが 希望も無くなる
帳尻は きちんと合うようになってるものだと思う


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