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釈尊がおっしゃったという
生まれたばかりの子供がこんな事をいうわけもないし
インドの人が 漢文を唱えるわけはない
後から付会されたものである
だが この言葉
人のあり方の真髄をついてる
彼が自分を語ることはない
自分の思うところを説くだけだ
天上天下 全宇宙において
あなたという 私は
一人 たった一人の 尊いものである
この社会は 主人と奴隷で成り立っている
フランシス・フクヤマ氏の論だ
ウィキペディアより引用させていただく
>優越願望と対等願望
マルクスは、歴史の発展は経済的な階級対立にあると主張したが、フクヤマはむしろ精神的な優越願望(megalothymia:メガロサミア。直訳すると誇大気概)・対等願望(isothymia:アイソサミア。直訳すると平等気概)の対立によって生じると主張する(これはそのままニーチェ哲学の貴族道徳・奴隷道徳に類比できるだろう)。優越願望とは、他人よりも上に立ちたいという野心であり、向上心であり、勝利への執着心である。対等願望とは、差別はいけない、傲慢になってはいけないというような、キリスト教的な博愛主義、平等主義である。上下関係や身分制度などの秩序や差別はあって当然だと主張する優越願望の強い貴族と、貴族も同じ人間に過ぎないと主張する対等願望の強い奴隷との対立が、歴史の本質的な流れなのである。フクヤマは、長い歴史の闘争の結果、ユダヤ的対等願望(奴隷道徳)はゲルマン的優越願望(貴族道徳)に勝利したと述べている。出身や人種、性別、宗教などによる差別がなくなれば(それは法制度的には男女普通選挙制など、各種の政治的権利の平等によって達成される)、もはや歴史を発展させる要素はなくなる。しかし、必ずしも経済的な平等や、生産手段の共有化を達成する必要はない。人間が憤りを感じる不合理は、あくまで機会の平等、ルールの平等が破られた場合であり、公平な自由競争の結果としての不平等(スポーツの勝敗や成績、学歴、収入、企業内のでポストの差など)は納得して受け入れる。ルールが公平なら、社会に競争が存在することは人間の優越願望を健全に消化する上で重要なことであると、フクヤマは指摘している。機会の平等だけでなく、結果の平等まで認めてしまえば、努力する者も怠ける者も報酬は同じになってしまい、健全な競争意識を減退させ、共産主義体制のような悪平等に陥ってしまう。
政治的権利、機会、ルールの平等が達成されたら、もはや不合理は存在せず、大規模で組織的な内乱も反乱も起きなくなる(奴隷が反乱を起こす理由がなくなる)ので、歴史は終わる。
ここで言う貴族とは、マルクス主義的な唯物史観で言うような、土地や生産手段を私的所有している者を指すのではない。単純に精神のあり様であり、降伏するぐらいなら死を選ぶという気概を持った人間を貴族と呼び、殺されるぐらいなら降伏すると考える者を奴隷と呼ぶ。貴族が土地や財産を所有しているのは、あくまで死を恐れずに戦った結果であり、その戦利品である。貴族にとって広大な土地や財産は自分の物理的・生理的な欲求だけを満たすものではなく、自分の勇敢さを示す勲章であり、ステイタスであり、アクセサリーである。だから貴族は、一生かかっても費やせないほどの財産を持っていても、なお貪欲にその領土や資産を拡大しようとする。
彼の論は正しい
だが 人の全てではない
社会は 主人と奴隷だけの関係にある人ばかりではない
人は 主人と奴隷 立場によって 論を使い分ける
主人はゆう
自分はもてる能力によって金 地位を手に入れた
自らの能力努力によって得たものだ
平等と施しは 努力をしないものを甘やかすだけだ
俺は君らが想像もできないほど頑張り努力した
その結果得たもの 文句あっか
君らだって 努力すれば俺のようになる
わからないのか?
奴隷はゆう
自分はずっと努力してきた
やつらは 単に運に恵まれ 環境に恵まれただけじゃないか
同じ努力をしてるのに
何故 やつらだけ いい思いをする?
何故 自分はこんな惨めな思いをしなければいけない?
許せない
正義は何処へいった? 思いやりは何処へいった?
同じ人間だろう 思いやることを忘れたのか?
彼らは主人と奴隷以外の関係を想像出きないらしい
第3の人間がいる
自由人
主人と奴隷
この関係はとても役に立つ
人類が争いを少なくするため
我慢と妥協する人を生んだ
主人だけでは共争いで滅ぶ
従う人が出来て主人が安定し
群れが協力関係に入る
従う人がいるから主人は主人としていられる
従う人がいなくなれば もう主人ではいられ無い
しかし
主人と奴隷は
何万年に渡り 安定を得なかった
自分はアスペルガーであるので 人間の部外者
人の中の異邦人であり 観察者でもある
天上天下 全宇宙において
あなたという 私は
一人 たった一人の 尊いものである
自分は自由人
これはミーイズムに基づく言葉ではない
ナルシスムではない
もっと 素朴なものだ
幸いにして自分は五体満足である
しかし 五体不満足であろうと
知恵遅れであろうと
おぎゃーっとこの世に生まれた瞬間
そのまんまで 尊いのだ
あなたには このように生まれたものの苦しみを知らない
普通だからそんな事を言ってられるんだ
違う 主人と奴隷を離れなさい
この世に生まれた自分自身を尊びなさい
それが釈尊の本意だろう
エリクソンの言うアイデンティティ
自己同一性 自己認識とも意味は取れる
母の浮気によって生まれた子だ
生涯 母は彼に真実を明かさなかったと言う
自己認識は 他者との比較によって確認されるものではない
自分はどのようであろうと自分
ダメであろうと アホであろうと 無力であろうと
その あるがままで尊いのだ
自信
自らを信じること
他者との比較による自信は
違う
その時 その目はすでに他者に向いている
在るが儘の自分を無条件に信じる
自分は特別である
だから 自分以外の人々も全て特別である
自分は自由である
だから 自分以外の人も全て自由である
自分は全ての人に対等である
だから 自分以外の人も全て自分に対等である
自分にとって全てはあるがままでいい
だから 全てを受け入れている
自分は自由
だから
あなたがたも自由
自分という認識があってのあなたがただし
あなたがたの認識によって自分は存在し得る
自由とは
無制限のわがままではない
無制限の自己主張ではないんだよ
権利と義務と責任
この範囲内において
君は自由なのだ
わかるかな?
わかるよね
あなたは 今のあなたののままで
そのままで 尊いのだよ
それを忘れないで欲しい
わかるね
私は疑問だ。面に点は無限にとれると言うが, それはどうだろうか。
そもそも点は可視的でないし, 分けることも出来ない。にも拘わらず, 面から無限に捉えられると言うのはおかしくないか。いや, おかしい。何故, 分けることが可能なのか。
それは紛れもなく, 0(点)を偽装した1(存在)だからである。
【0∞1】
0は質であり事だ。つまり存在の1とて切り離すことの出来ない事であり, 1ですら質的な変化の前には絶対に保存出来ない。
ならば, 面から捉えられる疑惑つきの点とは, 質的な変化の中に絶対に保存できない粒(物)のことではなかろうか。
因果とは, 粒と無数の軌道を表す法則性。中道とは, 因果の破綻に伴う己意志の解放と, 俯瞰者としての自我の確立, 物に対する執着の終焉と柔軟な捉え方(認識), そして, これらを機軸とする物事の確立である。
結局, 私は点が膨張した不可分の面を観ているのだ。
《‥ああ‥物語は美しい。酷く滑稽なほどに‥》
【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。
原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。
ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。
即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。
《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》
【知・法の根本】
如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。
宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。