

この開拓団略図は、わたしを連れて帰ってくれた引き揚げ者の先輩が書いたものだ。
わたしたち第二広島村隊は、
昭和21年9月10日 山河屯駅から汽車に乗り
9月17日新京着
9月30日錦西着
10月15日コロ島着
戦車上陸用舟艇に乗船し
16日コロ島を出発
10月21日佐世保へ入港
10月22日上陸した。

帰還
汽車が福山駅に入る時に大きな工場のあたりをたくさんの人が歩いているのを見て、
何と外国人が多いのだろう
日本人はどうなってしまったのだろう
と思い、おじさんに聞いたら
「あれはみんな日本人よぉ」との返事にびっくりしてしまった。

わたしは、日本が敗けて、国民全員がわたしたちのようにボロボロの服を着ているのだとばかり思い込んでいたので、
歩いている人たちの服装が、皆 とても立派で外国の人だと思ったのである。
夜、綱木の玄一おじさんの家に着いた。
そして 艮の家に帰った。
おじいさん、おばあさん、父の弟の十一叔父さんは わたしがひとりだったので、相当びっくりしていた。
おばあさんは、
ヨシや、よう帰ってきたのう と泣いて喜んでくれた。
そして 戦後
おばあさんの苦労は当時たいへんなものだったらしい。


着て帰った服は 日本では着れるものではなく、
その夜は、十一叔父さんの物で間に合わせたが翌日から着るものがない。
おばあさんは、わたしよりも少し大きな子供のいる家へ行き古着を譲ってもらうのに走り回った。
何とか恰好がついたので、小学校に転入である。
何年生かと聞かれたので「3年生です」と答えると、校長先生が 3年生の教科書を持ってきて、
ここを読んでみなさい と言う。

まる一年勉強していないので、うまく読めなかった。
2年生のは何とか読めたので2年生に入ることになった。
一緒に日本に帰った高村のきみちゃんも本当の年よりも一級下に転入した。
おばあさんは学校の道具も集めなくてはならない。
教科書、鞄、ノート、下敷き、鉛筆、消しゴムなど一切合切なんにも無いのだ。
もらいに行ったり買いに走ったり。
当時 教科書は、進級して要らなくなったものを、全教科 人に譲り渡していた時代だった。

子供時代に、わたしがおばあさんに口ごたえしたり、言うことをきかなかったり、悪いときには
この時どんなに苦労したかを持ち出して
「満州へかえれ!」と怒ったものだが、しかし、そんな小言をいいながらも大変に可愛がってもらった。
最後に***************
ここから 父の自分史は少年期、青年期、就職後 結婚へと続く。
わたしたち兄弟が幼い頃は、父を日本へ連れて帰ってくれた命の恩人たちと交流があったが、
次第にその方々の子、孫が世帯主になり、父の葬儀を最後にやりとりがなくなった。
両手で抱くことができるくらい小さな小さな満男さんと照男さんの 遺骨の無い二つの墓石はわたしたち子供にも印象的で、
幼い頃から 、父に連れられて毎年 お墓参りをして手をあわせていたが、
父の他界した翌年にその墓地に行くと、もう撤去してあり
その代わりに とても立派な『○○家 先祖の墓』が建てられていた。
そうして、少しずつ時が流れ
世の中も景色もいろんなことが変わって行き
父の人生も消滅していく。
こうやって、私の父の思い出を誰かが読んで知ってくださったことに感謝したい。
ありがとうございました。