米海軍 最新イージス駆逐艦「ダニエル・イノウエ」ハワイ真珠湾に到着 12/8就役予定
11/23(火) 15:18配信
『戦闘艦艇』として史上初の日系名を持つ船
西太平洋を横断しハワイに到着したアメリカ海軍のイージス駆逐艦「ダニエル・イノウエ」(画像:アメリカ海軍)。
アメリカ海軍は2021年11月19日(金)、イージス駆逐艦「ダニエル・イノウエ」がハワイ州真珠湾にあるパールハーバー・ヒッカム統合基地に到着し、太平洋艦隊隷下の第3艦隊所属となったことを発表しました。
「ダニエル・イノウエ」は、アーレイバーク級イージス駆逐艦の68番艦として建造された船で、原型、いわゆるフライトIといわれる初期建造艦と比べて、多くの改良が施されたフライトIIAと呼ばれるタイプに属します。
イージスシステムは最新型の「ベースライン9」を搭載、優れた艦隊防空能力以外にも弾道ミサイル対処能力が向上しているのが特徴です。
艦名の由来は、2012(平成24)年に亡くなった元アメリカ合衆国上院仮議長、ダニエル・イノウエ氏。彼はハワイ出身の日系二世として、第2次世界大戦時はアメリカ陸軍の兵士としてヨーロッパ戦線で従軍、大戦後は政治家に転身し、日系人初の上下両院議員として活躍。そのような功績から戦闘艦艇にその名が付与されました。
なお、旧日本海軍や海上自衛隊には人名由来の艦名を持つ艦船はないため、同艦は日本人を含む初の日系の人名が付いた『戦闘艦艇』になります。 ちなみに、アメリカ海軍インド太平洋コマンドでは「ダニエル・イノウエ」の真珠湾到着を「Sailed home:帰宅」と表現していました。就役は2021年12月8日を予定しているとのことです。
乗りものニュース編集部
過去には『戦闘艦艇』ではないものの初の日系人の名を冠した米軍艦「プライベート・サダオ・S・ムネモリ」も存在しました。
サダオ・ムネモリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サダオ・ムネモリ(Sadao Munemori、日本名:旨森 貞雄、1922年8月17日 - 1945年4月5日)は、アメリカの兵士。
日系アメリカ人初の名誉勲章受章者となった。
愛称は「スパッッド(Spud)」。階級は上等兵。
経歴[編集]
19世紀末に、広島県からアメリカに渡った父・亀太郎と母・なわのもとに2男3女の次男としてカリフォルニア州ロサンゼルスにて生まれる。高校卒業後は、自動車整備士となった。
1942年に軍へ入隊する前は、日系人収容所の1つであるマンザナール強制収容所に収容されていた。入隊した当初は、陸軍情報部日本語学校に在籍していたが、第442連隊戦闘団の編成を知り、転属を申し出て、それを受け入れられる。
第442連隊戦闘団第100歩兵大隊所属としてイタリア戦線に従軍、ドイツ軍の防衛線であるゴシック・ライン攻略作戦に参加。1945年4月5日にセラヴェッツァの「ジョージア高地」山頂への進撃中、塹壕に投げ込まれた敵の手榴弾に覆い被さって戦死し、中にいた2人の部下の命を救った。自らを犠牲にして仲間を救った功績により名誉勲章を受章した。
名誉勲章[編集]
ムネモリが受賞した名誉勲章には下記のように記されている。
彼はセラヴェッツァで勇敢に戦った。敵の強固な守備と火攻、部隊長の負傷によりセラヴェッツァに留まらざるをえなかった時、彼は砲火の中で正面の敵に対峙し、手榴弾を持って機関銃二丁のある敵を果敢に打ち倒した。 敵砲兵の掃射と爆撃から後退したとき、彼は不発の手榴弾が彼の部下のいる塹壕に転がってゆくのを見た。すぐさま駆けた彼は手榴弾に覆いかぶさり、爆発を一身に受け止めた。彼の迅速で英雄的な行動は部下を救い、部隊の勝利に大いに貢献した。
顕彰[編集]
勇敢にして自己犠牲を厭わない日系人兵士を象徴する人物として、下記に記念碑と共にムネモリの像が建てられている。
- カリフォルニア州ロサンゼルスのエバグリーン墓地にある日系部隊戦死者のための慰霊碑「殉国碑」と共に大理石製の像が飾られている。
- イタリアのトスカーナ州ピエトラサンタの「ゴシック・ライン戦没者広場」にある日系人兵士を称える記念碑の上にムネモリのブロンズ像が飾られている[1]。
- カリフォルニア州の州間道路105号線と405号線の交わるインターチェンジは、彼の名にちなみ「サダオ・S・ムネモリ・メモリアル・インターチェンジ(Sadao S. Munemori Memorial Interchange)」と命名された。