地底小人の日和たび

週末小旅行と地球のすきまにもぐる旅

時代を駆ける旅ー江戸村岩村の巻

2011年05月26日 18時24分18秒 | 週末旅行
さて、鉄砲鍛冶の名に惹かれて岩村で途中下車を決めた私たち


なんともローカル色満点の岩村駅


しかも上りホームで降りると、線路をわたって駅舎に行くことになるのだ
線路の真ん中に立ってみる爽快感
まさに♫線路は続くよ〜どこまでも♪


岩村駅



岩村の地図
これを頼りに鉄砲鍛冶の家を探す。


街の中は江戸時代の城下町の雰囲気が色濃く残り、長屋が連なる。
岩村は江戸時代に東濃地方の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町で、多くの商家が集まっている。


目的の鉄砲鍛冶の家
中を拝見することはできず、鉄砲鍛冶の様子も見ることはできなかったが、
現在も住んでいる様子。歴史が引き継がれている様子が垣間見れた


なんと銀行
重厚な作りにびっくり

 
街は駅から岩村城にかけてうなぎの寝床みたいに細長く、横幅はあまりない。
交差点を渡って江戸の旧家が多く残る道へ

江戸末期から台頭した木材や米を扱う商家である勝川家紺屋土佐屋問屋木村邸・・・
歴史ある長屋が続く。
特に目を引いたのが、建物の入口、1階の扉が跳ね上げ式の大戸であったこと。
扉は横に開くのではなく、ドアのように押し開くのでもなく、ウィンチ?で扉を内側の天井につるし上げる。
これはなかなかほかでは見れないのではと思った。

またもう一つ目についたのが、家々の入口にかかっている青い暖簾。
どれも女性の名前が入っているので、ひな祭りだから、女性のいるお家には暖簾がかかっているのかななんて相方と話していた。
その後、調べたところによると
「これは、岩村町の歴史に大変深く関係しているのです。
岩村城の長い歴史の中には織田信長の叔母が女城主として君臨していた時代がありました。
そうした歴史的背景からも、岩村町は広く“女城主の里”として知らており、また女性を前面に押し出した
まちづくりを進めている為、そのことにちなんでその家の女性主人!?の名前がのれんに書かれているのです。」(岩村観光協会HPより)
ということらしいです

さて、この旧家群を抜けたところにあったのが岩村酒造

なんと長屋の中を、蔵までトロッコの線路がしいてある


中庭には清らかな水が流れる池が

  
酒蔵の中はなまこ壁や木の梁と金属のパイプが混在していて、密かに工場萌え


トロッコのレールの先には

しめ縄がはってある酒蔵に

酒蔵の見学を終わると、女将さんがお酒の試飲をさせてくれました
「女城主純米吟醸酒」はまろやかで甘みがあって、すうっと飲めて、口の中に香りがふんわり広がる、
なんとも美味しいお酒でした。これまで飲んだお酒の中でも一番美味しいのではと思うほど
そのほかにも、「女城主純米吟醸酒」から作った梅酒やゆず酒も試飲し、こちらもまろやかで飲みやすい
そして甘酒も飲ましていただき、ゆず酒と甘酒を購入しました

その後、日本三大山城と呼ばれる岩村城
 
 
立派な石垣が現れてくる
こんなに大量の岩を切り出すにはどれだけの労力がかかったのだろうと思うと感嘆の声が出た
ところどころに井戸もあり、今だに青々と水をたたえている


本丸跡


岩村城の復元図
かなり立派な城だったことがわかるが、建物が少ないのが気になった。
石垣がこれほど立派に残っているのに建物の情報が少なすぎて謎が多かった。
城を降りたところの資料館を見れば謎が解けたかもしれないが、閉館時間になってしまい残念

ところで、その資料館の脇の家に面白いものが
 
昔の使用人の出入口を残したまま、その上に現代の家を建てたのだろうか・・・

ぶらぶらと駅に向かって歩きながら名物のカステラを松浦軒本店で買い求める。
ここ、岩村にはカステラのお店が多い。
松浦軒のパンフレットによると
現代のスペイン・ポルトガルにあたるカスティーリア王国にルーツを持っているカステラの原型は
ポォン・デ・ロという丸いパンの一種でポルトガルでは現在も各地で盛んんい作られているという。
日本には、ご存知のとおり長崎のカステラが有名であるが、既に現代式の日本のカステラしか作られていないという。
しかし、ここ岩村にはなんと本当の原型のカステラが残っている。
なぜならば、今から210余年前、寛政年に岩村藩の御殿医が長崎でオランダ人よりその製法を習い、帰ってきて松浦家に伝えたからだという。
製法は当時のままだということだ。

食べてみると、たしかに巷に溢れているしっとりねっとりしたカステラと違い、歯ごたえがあり香ばしい。
異国情緒あふれる長崎の専売品だと思っていたカステラの原型に、岐阜の山間で会えるなんてなんだか不思議な感じだ

街には現代からいい意味で取り残されたような街並みや路地やものがあちらこちたにある・・・
 


街はもう夕暮れ
街も人通りが少なく情緒あふれる街が静かに夜を迎えようとしている心地よさが漂っていた・・・

静かに暮れてゆく街を後にし、今夜の宿を求めて名古屋に向かうのであった

つづく













時代をかける旅-大正村明智の巻

2011年05月08日 15時15分45秒 | 週末旅行
今回は古い町並みを訪ねて岐阜県へ

目的地は大正の町並みが残る、岐阜県恵那市明智村。

出発は4月1日。ムーンライト信州に乗って時代をかける旅が始まった。
実は夜行列車は始めての私
新宿を出発すると、主要駅に次々止まりあんまり眠れない雰囲気
ついでに旅の相方と話が盛り上がり、結局一睡もせずに夜が明け始めた、長野県信濃大町駅に着いた。
 

本来なら、塩尻で降りて恵那へ行くのが経路としては、順当なのだが、
そうすると寒い駅で始発電車を待たねばならず信濃大町まで来たのだ。
信濃大町から大糸線に乗り、塩尻へ、そして中央本線に乗り換えて恵那駅に。

ちなみに今回の旅は18切符なので、鈍行に揺られ揺られて信濃大町から恵那まで約4時間かかった


恵那駅前
改札のところにある売店など見つつ、


隣にある明智鉄道恵那駅へ


入線してきた明智鉄道のワンマン車。ローカル線の雰囲気たっぷり

9時20分恵那駅を出発

車内では朝ごはん代わりに、駅の売店で買った、桜ういろうを。ほんのりとした桜の香りが口に広がる

電車はのんびりと田んぼと民家がぽつぽつと現れる山間を走っていく・・・


10時17分終点、明智駅に到着
駅前は再開発中なのか道路の拡張工事が行われていたり、普通にスーパーがあったりしてどこにでもありそうな田舎町。
しかし、町の奥のほうに洋風の建物がちらほらと。


明智大正村の地図
この地図を頼りに駅前の、大正風に後世に建てられたっぽい商工会議所と、浪漫亭(土産物屋兼レストラン)を通り過ぎ町の中へ


大正路地。両側を大正時代の米蔵と江戸時代から続いた呉服問屋の蔵が並んでいる。
通りの奥のほうには、擬洋造りの洋館も見える。
通りにあった看板によると、外壁の黒い羽目板を取り外すと、下は土壁となっていて防火壁の役目を果たしているという。


南北街道に出ると向かいに大正村役場がある。
明治39年に建てられた、瓦葺の寄棟造りの木造洋館だ。
中は村長の司葉子(舞台女優らしい)の派手な写真だらけでちょっと興ざめ


でも2階の窓からはこんな愉快なものも。
あと、一番面白かったのが、スリッパ(館内は土足厳禁)

これって、現在の役場から持ってきたのかな なかなか履く機会ないよね

元小学校だという絵画館をチラッと覗き、大正ロマン館へ。
でもここは新しそうな感じだったので、通り過ぎて萱葺き屋根の旧三宅家へ。
中には囲炉裏が見えて、3人ほどの地元のおじいちゃん、おばあちゃんが談笑していた。
まるで今も人が住んでいるかのような風情のあるお家だったので、見学したかったのだか、なんか入りづらく・・・


そのまま裏に回り、花がほころび始めた梅畑を登っていき、明智城跡
旅の相方は山城に詳しくて、明智城は作りが東日本とは違うのか、山城としては異例な点が多いとしきりに歩き回り
地形を見たり、土塁跡や武者走りの跡を丹念に検証していた。


明智城の本丸

その後、龍護寺にある光秀公の供養塔を見て
遠山の金さんと明智光秀が血縁関係にあると知る

お昼も過ぎ、再び大正ロマン館の前を通り、中馬街道に行く


そして中馬街道と南北街道の交差点にある、ギャラリーみたかやという建物が面白い
 
建物が交差点に沿って、3面の壁を持っているのだ。写真でわかるかな

このあたりの道の雰囲気はいかにも昔の宿場町の風情が残っていて、いい感じ

また城下町であるせいか、道は真っ直ぐではなくくねくねと曲がり、先が見通せないつくりになっている。
これは、攻め込まれたときの防御の1つなのだけれど、もしかしたら水路に沿ってただ家を建てただけかもしれないと

この道を見て思ったりした。どっちなのかな

ここで「うかれ横丁」に入ってみる。ここは昔中馬街道の一部で、繭や塩を積んだ人々が激しく往来したところで、
馬子や旅人相手に酒や飲食を提供する店や、カフェーが立ち並んでいたところだったという。
入ってすぐのところに「元カフェー」が残っていたが、外から見ることしかできず残念
覗いてみると、蓄音機やステンドグラスのあるドアがあっていい感じ。
こういうところこそ、中を見せてほしいなぁ

さて、そこをちょっと行くと中馬街道をまたぐ渡り廊下のある家がある。


そして、そこを通り抜けた相方が、「おお~」と歓声を上げるので行ってみると

こんな雰囲気のあるカフェーがやっていました。
さっそくお邪魔して、コーヒーを注文
コーヒーとともにピーナッツが出てくるのは、さすが名古屋圏

   
カフェーの中。大きなジュークボックスがあったり、照明の光がやわらかく、最盛期はどんなだったんだろうと想像が膨らむ

 
帰りはうかれ横丁とは反対側の、南北街道側に出てみる。
すると同じ建物の隣は割烹屋になっていて、あの渡り廊下が、
当時は右側にある芸妓置屋から芸妓衆が、左側にある料亭の席へ通った道であることがわかった


ちょうど旧暦のひな祭りの季節ということもあり、あちらこちらにこのようにひな壇が飾ってあった。

 
元郵便局である、通信資料館。
電話交換機、電話機の移り変わりを現物でかなりの数が陳列されていてなかなか見ごたえがあった。
電話交換手がいたころの電話交換機から自動化され現代に至る様子が実物で見れ、必見だと思った。
ちなみに、いろいろなことに詳しい相方から、なぜNTTが地方都市の一等地に大きなビルを持っているのかという理由を聞いた。
それによると、電話交換機が大きく、交換手が欠かせなかった時代は大きな建物が必要で、通信という要の事業から、
町の一等地にあったのだという。
現在になって場所も人もそれほど要らなくなった後は、ビル自体はテナントとして貸し出しているところも多くあるらしい。
これで、どの町に行っても中心部に高くそびえるNTTの意味がわかった

さて、こうして町を大体巡り終わって、小腹も空いたことだし次の電車の時間を見に行きつつ昼食をとなった。
が、電車の時間まであと20分くらいしかなく逃すと1時間後になってしまうためちゃんとした昼食はあきらめて
駅前の御茶屋で五平餅を買って電車で食べることにした。

ここの御茶屋のおばちゃんがとても味のある方で、五平餅を作っている間お茶とおしんこを出してくれて、ぽつぽつとおしゃべりをした。
おばちゃん曰く、他の所は作り置きだけどここではお客さんが来てから、おばちゃんの手で握って焼いてるんだそうだ。
無事に電車に乗って、おばちゃんの五平餅をほおばると、ふわふわでとってもおいしかった。
このおばちゃんの五平餅を食べに来るだけでもまた明智に来たいと、ぽくぽく走るワンマン電車の中で思ったのでした。

こうして、明智を出発。
このまま帰れば東京までその日のうちに帰り着けるはずだった。

しかし、私と相方は見てしまった
数駅先の岩村に「鉄砲鍛冶」なるものがあることを・・・

そこで大正村を後にした私たちは、江戸の町で途中下車することにしたのだ

つづく