津軽照子刀自(シロガネ注・小笠原伯爵家のご出身ですが、華子妃殿下とは直接血縁関はありません)
~義宮妃になられる華子さんの生い立ちと、津軽家の美しい家風ーー嫁ぎゆく愛孫へ贈るはなむけの言葉~
津軽照子
♠私の目は濡れて
華様。
このところしばらく、テレビでもあなたのお姿を見るおりがなくて、何かさびしい気がします。
このまえ、ご婚約ご決定の日に、はじめて参内のときでしたが、画面いっぱいにまずおもうさま(お父様)ご自慢の紅梅の花がうつし出されました。カラーでないので、あでやかな紅の色は見られませんでしたが、ひとつひとつの花びらの、ふくよかなまるみを見ていて、私はまだ画面に現れてこないあなたの笑顔が、そのなかにある気がしました。
あの時、私の目の前に、ひとつの大和絵風の絵巻がひろげられました。まぼろしともなく、うつつともなく、私はそれを見たのです。
何かの物語かーーある大臣(おとど)の姫君が、今宵、御息所(天皇のご寵愛を受ける女のひと)にと、御所におのぼりになるらしい。牛車の簾からは、美しい袖がこぼれ出て、兄弟の上達部たちが、装束の裾長く曳いて、幾人か立っている・・・・。
平安朝の頃の大臣たちは、姫君を持つことをよろこびとし、きそって内裏(天皇の住まわれる御殿)にさし出しました。そのほかのには女の幸などがないように・・・・。そして、それもまた、親兄弟や一族の立身出世の手立てでもあったのです。
まぼろしのなかの姫君とは違い、あなたは直宮さまのお妃としてお選びいただいて、いまその大きな幸せの道に踏み出されところです。あなたのお心の底から宮さまを信じ、一生をよろこんでお託し申し上げ、深い愛情を持って、みごとな家庭をつくろうとしていらっしゃる。それはすべてあなたのご自身の意思でお決めになりました。
私の目から、古い絵巻はふと消えて、画面には、おもうさま、おたあさま(お母様)の、にこやかな愛の眼差しにすっぽりつつまれたあなたが、写し出されました。黒白の画面から、私は、あなたの召していられるもののほのかな色をすぐ感じました。アナウンサーの説明によれば、それはまさしく、薄いローズでした。
「ああ華さま、どうぞ、どうぞ、お幸せで・・・・」
私の目は濡れて、何も見えなくなってしまいました。ふいても、ふいてもあなたの晴れのお姿は、私にはもう見えませんでした。
♠古きよき家風を支えに
この度のことにつき、幾人の方から津軽家のご家風は?とのお尋ねを受けました。
まず一番先にもうしたいのは、おもうさまの人間性にポイントをおいた、のびのびとした教育方針と、全く同調して、細かく心を配られたおたあさまの指導ーーそれ故こそ、あなたという方が現れたのだと私は思います。あなたばかりではない、お姉さまたちお三人ともが、かしこい目で、正しく、立派な夫をおえらびになって、しあわせを得られているのでも知られています。
津軽家では、ここ三代の当主はみな養子、それも、家付き娘があって、それと結婚したのではないのです。どちらも他家から入り、一代ごとに住まいも別でしたから、日常の細かいしきたりはもちろん、家風というのもなかなか汲み取りにくうございました。
あなたの曾祖父さま津軽承昭公は肥後熊本の細川家から、その奥様は近衛家からいらっしゃったお方。時代は明治以前で、弘前に住まわれていましたから、そこでは、三百年つづいてきた津軽家の伝統の香りはまだまだお強かったでしょう。
でも私たちの代のときは、明治も末でしたし、近衛家から入籍した英麿という方、私の夫は、長く外国生活をなさって来たので、ガラリと家の家風は変わり、またそこにおのずから、私の育った小笠原家の風もにじんでいたのではないでしょうか。
さて現在の津軽家ーーとなれば、おたあさまのお実家、毛利家の風が入ってこなければなりません。ことに毛利のお祖母さまは古い時代の日本の一面を代表する厳しい精神を、いまも感じさせる水戸の徳川家から嫁がれたご立派なお方。私はお目にかかるたびに、さりげないお話の中から、一筋通った厳しいご自分への反省、といいますが、そういうものを、いつもうかがわせて頂くのでした。
おたあさまはこうした精神を受け継がれながら、それを現在にマッチさせて、あなた方をお育てになったのでしょう。これについてはまた後で、詳しく書きます。この三代にわたる養子はめいめいが、それぞれの時代に応じつつ、めいめいの生活を営みながら、目に見えぬ家の歴史を、心に深くとどめて、その名を汚さなぬようにと責任を感じられたに違いありません。
三百年の積み重ねられた歴史には、よどみも濁りもありましょうが、またそのかわりには、決してにわかに作れぬ香りと輝きもありましょう。これからの華さまのご生涯に、それがきっと何かの支えになることを、私は信じます。
お買物にお出かけの津軽華子さん
♠暖かさの満ちた家庭で
たまに私が千葉の田舎から出て行って、幾日か下落合のお家に泊まっているとき、私はつくづく、あなた方がうらやましく思うのでした。何故かといえば、私の育ったところは、兄弟がめいめいのお付きのほかに、お側、お次、お膳所と、奥だけで、何十人の人々がいましたが、いまは、日を決めてお手伝いさんが、通ってくるだけですもの。
朝の食事からして、おたあさまがお支度してくださるのを待たなければなりません。お姉さま方は、それぞれお勤めに、あなたは学校、と順々に時計を見てお出かけ。トースターのソケットをおもうさまが差し込んで下さり、どなたかがコーヒーを入れて、ついお話している間に、トーストが黒こげになってしまったり。あわただしいなかに、楽しい賑やかな朝食でした。
今朝はゆっくりでよい方が、お隣の部屋から出てきて、いつもと違って私がいるので、ちょっときまり悪そうに頭を下げて、こそこそと顔を洗いにいらっしゃる場面もありました。
コーヒーを飲み終わったあなたは、大急ぎで台所へ行って、学校へ持ってゆくお弁当ごしらえ。テーブルについたままのおたあさまが、大声で、
「華、あなたの好きな何とかがあるから、あれお弁当に入れていいですよ」
などとおっしゃる。私のときは、ご膳所の人がこしらえたのを、お付きが袱紗に包んで渡してくれるのを持っていくのですから、お昼に開けるまでは、どんなおかずが入っているのやらちっとも知りませんでした。嫌いなものが入っていて、何も食べずに過ごしたこともありますが、その袱紗包みはそのままお付きに渡され、ご膳所に戻ります。ですから母も私が昼を一食抜いたことは知りませんし、お付きも知りません。
ですから私は、あなたのお弁当ごしらえを、これでこそと、実に嬉しく見ていました。
日曜日には、よくあなたは、これから乗馬とか、スケートにとか、大きなバックにスケート靴を入れてぶら下げて、一人でお出かけ。「あまり帰りが遅くならないようにと」と一言注意と共に、おたあさまはいつも気持ちよく出してあげていらっしゃいました。その次に上京したとき、
「このごろスケートは?」と伺うと、「もう一通り滑るようになりました」というご返事。私はあなたの運動神経のよさを思ったものです。
それにしても、さすがおたあさまの、遠くから見て細かく子供の動きを知っているーーそうしたお態度こそ、本当の親の慈眼というものでしょう。
また私自身の話になりますが、私が学校へ通っていた頃は、いつも身の回りに蜘蛛の糸が張り巡らされる思いで、実に嫌でした。
でも可笑しなもので、そうして押さえつけられて若い日々を過ごした私は、自由をこそ求めていたはずなのに、あなた方の緩やかな、おさえられることのない動きを見ている心の底のどこかに、ふと心配の思いが走るときもありました。
考えてみれば、自由にのびのびと育てられ、自身の判断が持てる人と、保護に保護を重ねられて一人前の人間に扱わられなかった人との、大きな違いだと思います。
輝く人生しっかり足を踏みしめてたち出て行かれるあなた方を見て、私は、私とほぼ同じような時代と育ち方を経てこられたおたあさまがあなた方をお育てになるために、果断にのびのびと、自由な方針をおとりになったことに頭が下がるのでした。
若き日の照子刀自
華子妃殿下の華麗なるご一族