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島成園《題名不詳》
~一代の碩学(せきがく・学問が深いこと。大学者) 杉浦重剛翁がその至誠の一生を通じて、帝王学の御研鑽に全身全霊を捧げ奉った御学問所時代。
「不肖杉浦の申し上げました事柄のなかで、一番御に残りましたものは何でありましょうか・・・・」
在る時重い責任を果たして御質問申し上げた杉浦翁に、英明なる皇太子は何のためらいもなく即座に仰せられた。
「『日月私照なし』である」
(しんげつにししょうなし・・・・太陽と月は公平にすべてを照し、依怙贔屓することがない、ということで、私心なく公平に恩を施すという意味です。『礼記』孔子間居編)
(天皇は全てを公平に照さなければならない。依怙贔負があってはならない)
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(はぁ・・・・)
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(ふぅ・・・・)
誠に今の御上の御性格は、この一句に余すところなく表現されている。翁が七ヶ年心血を注いだ忠誠は今正に、皇太子の玉の如き御人格として立派に結晶したのであった。
かねがね当時まだ幼い皇孫殿下でいらっしゃた今の御上は「義経が好き」と仰有った。雪のふりしきる中を、母の懐ろに抱かれて平家の追ってを逃れ廻った乳呑子牛若丸の頃から、義経の武勇は何処かしら悲劇的な影がさしていた。
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講談社 絵本・近藤紫雲《牛若丸》
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こうした寂しい義経に深い同情をおもちになる、優しい御心の皇孫殿下でいらっしゃた。
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毎週土曜の晩は側近者の御相伴(陪食・ばいしょく、身分の高いもの共に食事をすることに)があって、そのあとでいつも映画を御らんになる習慣であった。
皇后様は大へん映画がお好きでいらっしゃるので、洋画といわず日本物といはず差し支へないものはどんどん御らんになった。
「この豚メが・・・・」などと裏長屋の生活をまる出しにした「綴方教室」も大へん面白く続編を待ちかねるようにして御らんになった。又「白蘭の歌」でも「母子草」
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白蘭(びゃくらん)の歌
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・・・・なども大そう御気に召したのである。輸入された「オーケストラの少女」とか、いいものは一般に公開される前に封切りされた。
それでまあ私共の知っている限りのものは大方御らんになっているわけで、又私共の様に口に出して噂さこそなさらないけど、俳優や女優の名前など良く御存知なのであった。
ずっと前の事である。当時評判の早川雪洲主演の「大楠公」
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(正確には『楠公父子』)
・・・・を、御らん遊ばした事があった。当時アメリカから帰ったばかりでますます円熟した雪洲の名演技もさることながら、勤王の権化とも見える大楠公にも人間的な苦哀があって、それが惻々(しゅくしゅく・身に染みて深く悲しむ様)そとして観る人の心をうつのであった。殊に有名な櫻井の駅で、愛子正行に諄々(じゅんじんゅん・相手が良く分かるように丁寧に繰り返て言い聞かせるさま)大義の名分をときながらも、しかもそれをあたかも己の心に刻み込まふとするかの様な大楠公に「敢へて別離の間に○ざるとも大丈夫の涙」あることがまざまざ察せられた。
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講談社 絵本・羽石弘志《楠木正成》
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この時、御上は遂にこらへきれないかのように、嗚咽の声をあげられたのだった。そのお声はずっと拝見していた者まで、はっきり伺うことが出来た。
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そしてとうとうこの映画のおしまひまで、真っ白なハンカチをどうしてもお離しなれなかった御上。
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大楠公の苦節も六百年の今日、報いてあまりあるのである。
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(『逃げ若』の楠正成公。七度生まれ変わった後に自分主演映画を御覧になられた昭和天皇に涙を流させるとは!忠臣の誉れであります)
定年を過ぎても、身体も不自由な名も無い一雇員の罷免さへ、なかなかお許しのない、御上!!
「もう暫く・・・・。何か楽な仕事はないか。家族の事もあらう」~
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中村岳陵《爽秋》
~夏の夕方などは皇后様はよく和服をお召しになった。
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柿内青葉《夏の夕ベ》
模様などはごく普通の友禅もので、昔から云われている様に縞ものとは限らない。帯も普通の太鼓におしめになった。
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けれど御上は御自分では全然和服といふものをお召しにならない。御寝巻でさへパジャマを用ひられ、その上にナイトガウンを羽織っていらっしゃる。
こうした簡素な洋式な生活をなさる様になったのも、かつては皇太子殿下でいらっしゃた頃、欧州へ御見学に成らっしゃてからの事だった。その時あちらの日常生活が全て寛易なことが大そう御心に叶って、御帰朝になってからは早速御自分の生活の切り替えをなさった。まづ複雑な二重生活をおやめになって、その頃から和服は一切お召しにならないのだった。たとへ夏の夕べ御入浴のあとでも、必ずキチンと御洋服に着替へられる几帳面さでいらっしゃた。
大正天皇様の頃までは、天皇が御不例がちでいらっしゃた為もあったので御和服のことが多かった。よく黒羽二重の御紋付に、仙台平の御袴を召した大正天皇が御一人で、こっそり奥の供進所へ来られて、主膳たちにお酒を所望されるのだった。そしてコップにつがれたお冷やをそのままいかにも美味しそうにぐっと召上がる。
「奥の者には内緒だよ」
と冗談を仰りながら立飲みの醍醐味をお味わいになるのであった~
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柿内青葉 色紙絵
~昔の女官は(今の大宮御所の女官達も、この奮(ふる)い部分に入るのだけど)主に奮(ふるい)堂上公家華族の出身者が多くて、その全部が未婚なのである。
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浅見松江《目黒雅叙園蔵》
それはこの人々は、ごく幼い時から宮中に奉仕するよう志して居た。
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それは自分の決心でもあらうし、家庭の事情や環境などでさう運命づけられた人もあらう。
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石田千春《手鞠》
小学校の教育を終えるか終えないかの年頃で、父母兄弟の温かい家庭を離れて御所へ奉公に上がるのだった。
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寺崎廣業《秋草美人》
まづ、かねて知合いひとか遠縁にあたる女官達の伝をもとめて、その人達の元へ「部屋子」(ヘヤゴ)として上がるのであった。「部屋子」というのは丁度見習ひとでもいった格で、女官たちからは「子供」の様に可愛がられるのであった。そして朝夕な折にふれては親身の仕込みをうけるのであった。
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原田千里《虫籠》
それぞれの女官が自分の「部屋子」には万全の責任をもって天晴れ一人前の女官と仕立あげるのであるから、その間柄は傍の見る目も麗しい位温かいつながりがあるのであった。そしてその反面真剣になるあまり、特に厳しいこともあって「部屋子」は時には泣くこともあった。
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水野年方《侍女》
こうして下積みの経験をつんでだんだん御用に慣れて来れば、やがては一人前の女官としてたつのであった。そしてこの女官達は殆んど一生を宮仕へに捧げるのであった。
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浅見松江《目黒雅叙園蔵》
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そして年をとって、どうしても御用が出来ぬ様になってから目出度く「隠居」するのであった。最近八十二歳まで矍鑠として奉仕していた老女官が、七十年近い宮仕へから隠居したのであったが生活の環境の故か、艶々しい顔色、元気相な物腰、そしていつも冗談を居って皆を笑わせる若々しい気分はとても八十を越した老人とは思えないのであった。
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幸野楳嶺《今様官女図》
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洋服などを着込んでもちっとも可笑しくなく、耳すらも遠くないのを見ると、あまりに年を超越した若々しさは「女は化物なり」を思はせてむしろ不思議であったが「御隠居」されて幾月もされない中にそれは見違へる様にめっきり老け、視力も衰えへた様だった。そして何病気ともなく間もなく亡くなったのだったが、長い年月の緊張した生活が異常な若さを保っていたと同時に、全身のエネルギーを消耗しつくしたものと思はれた。鼻水をすすりすすりニコニコして廊下などを歩いていた姿が目に浮かぶのである。
又、若かりし頃、御上の寵愛を受けた女官は、御上御登遐(天子が御隠れになる)のその後は御陵のほど近く隠宅をかまへて、朝な夕なに先帝様を追慕申し上げながら御冥福を祈りつつ余生を送る人も多かった。
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中村岳陵《月次十二幅・十月》
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ごく希に結婚で退る人もあるにはあって、その時は内にも外にも大きなセンセーシヨンをまきおこすのだった。
今の宮城の女官にも二、三人ごく小さい時から御所に上がっていた人々があったが、どうした風のふきまわしか四十を超した年頃となって皆結婚したのだった。
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林惟一
そして何處(いずこ)でも同じ様にはたの口はうるさいのだった。
その昔の女官達は一年か又は三年目位などに何日か宿下りをすることがあったが、それも長い期間でなし殆んど一生を御所の空気の中で過ごしてしまふのも同様なので、どうしたって世間の事情に疎くなるのだった。世が世ならこのまま浮き世の塵も知らず、清らかな生涯を送ることも出来るのであったが、今の様な御時世では仲々さうは行かなくなったのである。
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中村岳陵《みづかげ》
殊に戦災の後、焼けて残った大宮御所の跡に高輪あたりの古い御建物を移して、新しく大宮御所を御建て直しの中であるが、その間大宮様は(皇太后陛下のことを御所では、こう申し上げる)御住ひになる所もなく、ずっと沼津へ行っていらっしゃたのだった。沼津も御用邸の中でも最も御広く、そして御立派な御本邸はやはり戦災で鳥有とかして、ずっと以前川村伯爵家か何かを御買いひ上げなったといふ、お手狭の御粗末な西附属邸だけが無事だった。西附属邸はごく狭くて建物もあまり上等ではなく、昭憲皇太后様の由緒も深い御本邸はかへすがへすも残念なことであった。
大宮御所の御荷物で御料品や臣下廻りのタンバ○御所特有の長つづら。竹の骨組みに、紙を張って、黒く外側を塗ったもの、御旅行の時、いろいろの荷物を入れて縄をかけ、トラックに又は貸車積にするのだったが幾つなく疎開させてあり、長い廊下にズラリと並んでいたが、無数に落ちる焼夷弾には、何一つ搬出する暇もなかった。それに東京の大宮御所も真っ先に全焼して、ごく當座の御生活はどうやら御不自由はない程度の御品が残った丈で、臣下は洗濯する盥すらない有様だった。この盥にしても、御清(オキヨ)御次(オツギ)御下次(オシタツギ)とそれぞれ頭、身体、足など、その部分を分けて盥を別にして洗濯するなど、それこそ昔通りの繁雑なしきたりを守っていた。女官たちにはたった一個の盥をしかも共通に使ふなど、思ひもよらないことだったらう。戦災者の身となればそんなことをいっておられず、黙々と生活の切りかへしをしえいるのだった~
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中村岳陵《秋庭雅遊》
~女官達は、御所の内ではそれぞれ「源氏名」といふものを賜って、それと呼ばれている。本名は滅多に呼ばれない。華族出身の女官は「二文字」であり、士族出のものは「一字名」と決まっている。例へば大正天皇の御生母でいらっしゃた、柳原愛子の方は「二位の局」(ニイノツボネ)とも云はれ、両陛下や東宮様、内親王様からは「二位婆」(ニイバア)と仰せられ、一年に何回か御参内の時は行き届いた準皇族の待遇をうけられるのだったが、御所に奉仕の頃は早蕨典侍(サワラビノスケ)と呼ばれておられた。
この春まで大宮御所の女官の最上席であった竹屋津根子典侍は山桃典侍(ヤマモモノスケ)と賜っておられた。
一字名でも、楓(カエデ)菫(スミレ)など主として、優しい植物からとられるのだった。
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島成園《題名不詳》
「源氏名」といふのは、源氏物語などで出てくる女主人公はそれぞれ本名が呼ばれないで、その感じとかその時の一番印象的な情景などから、その一人一人が形容されることから起きたものであらうと思われる。
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伊藤小坡 《秋草と宮仕えせし女達》
これについてはこんなこともあった。糸柳(イトヤナギ)なるいとも優美風雅なしかもたおやかさを思わせる「源氏名」を賜った女官というのが、ぽっちゃりとふくよかなことにかけては宮中第一の折紙のある婦人であったなど。
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栗原玉葉《王朝女房図屏風》
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こうしたことから見ても大宮人の風流な床しさの内にも仲々ユーモラスな、センスの豊かでいらっしゃることがうかがへて面白いのである~
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小林古径《椿》
~・・・・そして現に十何人かいる女官の内で、保科女官長や二、三の人を除けば殆んど未亡人なのである。まるで未亡人であることが女官たるものの大切な条件である様に、よく揃ったものである。又その大部分が上は中将閣下から下は大尉殿に至るまで、階級の差こそあれ軍人の未亡人なのである。あうした人々が殆んど中年になってから、何かのきっかけで御所に奉仕することになったのだから、これらの人々の醸し出す御内儀の空気というものが、昔ながらの大宮御所の雰囲気とはまるで違っているのも当然である。いくら御所風を装っても一切を会得した様でも生粋の空気とは全然かけ離れていて、一年に何回か、皇后様が大宮御所へ行啓なさる時とか、又大宮様が宮城へ御上りになったりする時とかの、女官達の心遣ひはそれこそ見ものである。
大宮様は、御性分としても殊に古式に厳しい方でいらっしゃる方であるし、又御年輩としても保守的でいらっしゃるので、その點(てん)、大宮御所は今でもすべて古典豊かで、女官達も誠に行き届いたものである。なればこそ宮城の人々の慌て方ははたの見る目もおかしい程で、それは丁度下々でもお姑様に気を使ふお嫁さんといった風の所である。
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鰭崎英朋《朧夜》
皇后様おはじめ、洋服の色合いから洋服の長さから髪型に至るまで、念入りな心遣ひは大変なものである。
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今まで女官というものは小さい時から御所の雰囲気を一歩も出たことがなく、いはば井の中の蛙とでも云った様な世間知らずの独善的な所があり、それこそ落語ででも風刺されるような滑稽な話も多々あるにはあるけど、その独善的も決して利己主義な意味でなく、丁度子供のような無邪気さもあってむしろ愛すべきものである。
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上村松園《うららか》
それになんといってもお家柄の良さが物を云って、身に備わった自然の気品とおかしがたい威厳とは流石争えないものである。しかも一人前の女官となるまでは下からいろいろ経験をして段々に御用になれるものだから、下積みの苦労といふものに充分のお察しがあって、女官となってからでも下への思いやりや同情も深く仲々理解があるのである。
勿論御用の上では厳しくてけじめをつける所ははっきりけじめをつけるのだけど、普段は下の者ともごく親しげに何のかたくるしい所もなく和気藹々の和やかな空気である~
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小林古径《紅蜀葵と猫》
~女官はそれぞれ家庭をもっている。中には幾人かの孫のある人もあり、普段あまりの若々しさに思わず比の人にと驚かされる。大きな息子さんのある人もあるし境遇はまちまちである。それで何時も自宅から通勤することになれているのだった。この貴婦人は毎日朝な夕方な汗と油の、カクテルのこもり切った満員電車には柳眉を逆立てて、大げさな嘆息を漏らすのであった。女官ともあらうものがたった一人で出歩いたり、今まで電車などは庶民の乗るべきものとばかり思っていたのに、鼻の頭に蚊がとまっても追ふことも出来ないばかりか、遠慮なく押し込められたり、突かれたり、はては女官と知るやしらずや愚園ついていれば怒鳴られる始末。始末のラッシュアワーのは確かに大苦痛に違ひなかった。つひ最近まで月々頂く御手当の全部を自動車代に蒿(こう)ませても、体面をおとさないことに務めた人々であった~
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小林古径《朝顔》
~誰かが一人で銀座へ買い物に出た話をきいて「マァ・・・・供もつれないで、よくね・・・・」と冷笑まじりお互い同士を合見せるのだった。責めたのかくさしたのか知らないけど・・・・。
最近はどうしても一人で歩かねばならないし、雨が降っても雪降りでも電車を利用しなければ用もたせないのだった。
「今度ね、何十年振りで日和下駄を買いましたよ、安いものね」
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(日和下駄)
我々なら目玉が飛び出す様な値段も、さもことなげに言い棄て、今までならどんなヂャンヂャン降りだって自動車許りを使用して傘もいらず、いつだって草履ですんでいたということを仄めかすのだった~
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小林古径《○采》
~皇太子様も最近までやはり奥があって、御養育掛り以下すべて御用を奉仕していたのだったが、だんだん御成人遊ばしたので昨年の八月頃から東宮職としていよいよ独立せられ、侍従長には人格誉れも高い法学博士男爵穂積重遠氏が親任せられ、その外すべて御上の御制度になぞらへられて侍従、傅育官、内舎人がそれぞれ任命されたのである。
そして御人格の御完成におつとめになる一方、何事も御自分でなさる御習慣をおつけになるのである。どうしても女が側近に奉仕しているといふ事は、とかくいろいろ御世話を申し上げすぎて御自身の御為におなりになれないのだった。御召替の時でも、入浴の時などにも「なるべく御一人でなさる様、御手伝ひをしないこと」といふ厳重なお達しがあっても、やりにくそうにボタンを一つはめていらっしゃり、お背中まで御手が届かなかったりするのを拝見するとどうしてもつひ手を出して御手伝いを差し上げてしまうのだった。
そしていろいろ御話の相手もするので、御支度につひ時間がかかって「お早く、お早く」と時間を気にする傅育官の催促を何度もうけるのだった。
そこはお子様でいらっしゃるので、今日一日のことを話してきかせたいと思召すだろうし、殊に皆に広く知らせてやりたいといふ御優しい御心でいらっしゃるので、その日御経験になったことをあれこれお話になるのだったけど、傅育官らはそれをとても嫌って一分一秒の時間にこだわって殿下のお気持ちを御汲みしないのだった。そしていかにも「愚図愚図遊ばしてたので」と云はぬ許りに殿下御自身に不機嫌に当るのだった~
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浅見松江《目黒雅叙園蔵》
(アメリカから来たヴィニング夫人が見た上皇様・・・・勿論当時の東宮様が、余り他人に関心がなく、何かと傅育官の顔色を伺う様子でいたのが印象的であったと『皇太子の窓』に書かれていますが、無理らしからぬ事です。良く昭和天皇ご夫妻と別れて暮らしていたからというのが定説ですが、今回の『大内山』を読んでそればかりではない事が分かりました。
話し相手になってくれる女官が遠ざけられて、「愚図愚図遊ばして」と言う傅育官が東宮様に当たり散らす、当時中学生位ではやりきれない環境だったでしょう。それが暖かい家庭・・・・上皇后・美智子様に繋がるわけです)
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