伊藤小坡《紫式部》
旧式漢字が多く用いれられていますので、分からない所は○にしてあります。文章が長いので相変わらずの誤字脱字は失礼を。そして変わらずの余計な事も書いております。
~両陛下はその日、(新嘗祭前日より)ご入浴のおあとから御清におなりになる。やはり御湯殿に「七つ葉」(南天で七枚の葉っぱのついているもの)の入ったお湯を御用意してあるのである。御召物やお下召御寝具一式、それはお敷物お掛け布団シーツ御枕御寝召(お寝巻)又御使用の食器やお手拭い等の御身の廻り品一切をおとりかえするのである。衣服はすべて絹織物や木綿物なよいけど、毛織物は「四つ足」といって避けられる。それなのにどうしてか、メリンスは許されいる。昔から唐縮緬といって、我が国に入った歴史も古いからも知れない。けれでも「メリンス」ぐらいでは、霜月の末つ方ともなれば深夜は仲々冷え込むのであ「七つ葉」お風呂に入ってすっかり御清め一同そろって「御清」の服装と変わる。
御所の内はたちまち平素の異様な和洋折衷を払拭して、古式も床しい御内儀の面目を取り戻すのである。それでさて日頃活発な連中もこんな日は、至極神妙になって甲斐々いのでうって変わった雰囲気である。
御清の服装といふのは、まづ皇后様を御見上げれば、白羽二重の御袷に赤羽二重縮緬の袴下帯(巾ニ寸五分くらいのもの)をおしめになる。お切袷(袴の間違いか?)をお召しになった所はさながら三月三日のお雛様の様な美しさである。
そして真っ白の袿をお召しになるのであるが、お清の時の袿は白紋綸子で地質の厚い如何にも神々しいものである。
その真っ白な中にも袴(袴に?)とか袖口とか裾とかに、若人だったら藤紫、海老茶とか黄色とかを、又年輩の人だったら草色などの渋い色合いの細い布が、丁度重ねを着た様に一筋ズッと入っているのである。
同じ「御神事」といっても御清として御神楽の儀は御清としては新嘗祭よりもゆるやかなので、小豆色の紋綸子の袿を着る女官もある。これは大抵年とった女官であり「年よりだから、御免蒙って」などいひもっぱらこれを着るとなるとごく略式なのかも知れない。この小豆色の袿を持っている人はごく少なくて、大抵の人は白の御清用だけである。袿の袖丈にも長い短いがあって、大体若い人はニ尺だし、年輩の人々は一尺あまりといったところである。
女官たちも、こうして同じ様な服装であるが、ただ御拝の場合皇后様は御裾長袴にお召しかへ遊ばすのである。
賢所ご拝の時のお姿
御清の服装にも段々あって、それぞれ袿から下着に至るまで、一揃いひづつ幾通りも作るわけである。以前だったら拝命と同時に幾組も作ったものだったが、最近はそれらを全部もっている人なんてめったにいない。大抵「御神事用」ぐらい丈を用意して、あとは拝借することにいている。
たとへば全部作るとすれば
一 御代拝用(大清)
(女官達はその姿を“大礼服”と呼んでおりました)
(昭和二十一年十二月、大正天皇二十年式年祭の時に香淳皇后より「賢所御代拝」を命じられその勤めを果たす梨本宮伊都子妃。袿袴姿で務めたのかなと思って居ましたが、長袴を着用されたのかなと今にして思います。写真はお途中着か?)
伊都子妃の日記には
「昨日の復命の為、参内。・・・・失礼ながら今の世に、百五十円の反物が何があるだろ。銘仙でさえ四百円もするものを。」と突然の御依頼だったので、かんかんに怒っております。
・・・・敬宮様を天皇にと頑張っていらっしゃる小和部某先生が伊都子妃の日記を刊行してありますが、完全版を是非とも見たいですね。それと現在でも皇族方の『賢所御代拝』を続けていれば現在の皇室も変わっていたかも。約一名お祭りに殆んど参加されない御方がいらっしゃいますし。
一 供奉用(御拝の御供)
(主に袿袴姿)
(賢所を退出される小袿姿の神々しい東宮妃と袿袴姿で供奉する女官達)
一 御神事用
白い袿袴姿で明治神宮に参拝する大正天皇ご生母柳原二位の局
一 次清用
~であって、この御代拝、供奉用のものはいろいろな地紋を浮き出させた染色も美しい織物の袿でもある、例えば紫地に鶴丸とか花丸とかの模様を織り出した、バンベンした固い地の織物である。下着はいつも羽二重の袷と紅の袴である。
第30代総理大臣斎藤実と春子夫人。なんと・・・・華やかな袿袴姿
(ニ、ニ六事件の時に夫に銃を乱発する青年将校達に向かって《主人を撃つなら私も撃ちなさい!》と夫に覆い被さって手に重傷を負った事は有名な事)
昭和の御大礼に参列した、世界一長━━い、と呼ばれる倉富日記(皇族、華族にすれば迷惑千万な日記)を書いた枢密院倉富勇三郎氏とその日記を読んでいたらしい、彼の最愛の妻、内子夫人。
(昭和の御大礼の時、内子夫人の袿袴の着付けの要領が悪かったようで、病弱な夫人を相当苦しめられたとの事。そしてついに儀式の最中に脳貧血を起こしてしまったと日記に書かれています)
~御神事用といふのは地厚の白紋綸子である~
(白綸子の気高い袿袴姿で明治神宮を参拝される柳原二位局。孫の昭和天皇夫妻や曾孫の宮様方からは《にいば》と呼ばれておりました。御所に参内するときもこの姿でした)
昭和七年に明治神宮にご参拝された二位の局
(大正天皇御病の時にも明治神宮に参拝されて御病気回復祈願されたと言います。《御変われるものなら、御変わり申し上げたい》と仰って大正天皇のいらっしゃる葉山御用邸に看病の為日参されておられましたが・・・・
(大正天皇のお見舞いの為葉山に向かう柳原二位の局。お隣は園祥子元権典侍か?)
・・・・ついには夜具持参で御用邸に泊まり込みの看病をなさるおつもりでいらしたのです。しかし貞明皇后が老年の局の身体ことを案じて引き取らせたという逸話があります。その時、局はお付きの人に一言も声をかけずに憮然とした表情で鎌倉の別宅へ帰宅されたと言います)
(しかし母親としてその思いを十分過ぎるほど分かっていらした貞明皇后は女官には《局が参ったら何をおいても御病室にお通し申せ》と命じていそうです。大正天皇を看取った後も、局は長生きして、御所に参内すると昭和天皇御夫妻や曾孫の宮様からは《にいば》と呼ばれていました。そして初曾孫の照宮様が昭和十八年十月十三日に東久邇宮盛厚王とのご婚儀を見届けたかの様に十六日に亡くなりました。享年八十四歳)
(柳原愛子は死後に一位を賜りましたが、あくまでも柳原家の人間として扱われたようです。現在は目黒の祐天寺に葬られましたが、何となく釈然としませんね。清国では側室であっても、王族としてその墓地に葬られているのに。ましてや昭憲皇太后は明治天皇と仲良く京都の桃山の地に二人の御陵があります。誰に遠慮する必要もなかったはずです。それと大正天皇をお産み参らす前には、梅宮、建宮という宮様方を生んでおりまして、幼くして亡くなりましたが、豊島ヶ岡の墓地に墓所があります。あの当時でも二位局が豊島ヶ岡に葬られても誰も文句は言わないでしょう。せめて大正天皇の御陵の見える所に葬られても良かったのでは、ないでしょうか?せめて現在でも形見の品とかを豊島ヶ岡の墓地に入れて小さい祠でもお作りして祭っても文句はいわれますまい)
~次清用は、御神事用と同じものであるが、ただ気持ちの上で厳重に区別されて居り、一旦次清用に下したものはこの次「御清」に用ひることはいけないのである。
この袿には「夏物」と「冬用」があって、それぞれ季節によって着る時期がやかましいのである。立夏より立冬まで(大抵六月━十二月迄)は夏物なのである。夏物といっても裏はついているにはついているが表と地が縫目の荒い感じで見が何となく涼しげである。そして色合いもうすいのである。立冬から立夏(十二月━翌年六月迄)は冬物であり、色合いの濃い地の厚い織物である。
梶原緋佐子《紅梅・歴史写真表紙》
照宮様が、東久邇宮盛厚王殿下に御降嫁遊ばしたのは丁度十月のの十三日ですあった。一般民間だったらば当然冬物の時期なので、袷の紋付を着るところなのだが、御所の御風習ではまだ夏物なので、当日の御衣装はすべて夏ものでいらしたのである。
東久邇宮盛厚王と照宮成子内親王
照宮様の夏の五衣の内容
唐衣 ・・・・萌黄亀甲地桃色かに梅(裏紫小菱)
表着・・・・蘇芳菊唐草地白菱菊(裏紫平絹)
打衣・・・・濃色固地綾(裏濃色平絹)
五衣・・・・白葉菊立湧(裏萌黄平絹)
単衣・・・・濃色幸菱
確かこの図録だったと思います。実物は実家にありますので記憶違いもあるかと思いますが。この図録は間違いなく美智子様の厳格な監修を受けての図録のはず。その中で、
皇后陛下(当時)の十二単(五衣)は陛下の姉、照宮様からお譲り受けたものを着用されました。とか何とか書いてあって当時それを読んでえ!と非常に驚いたものです。この図録がお手元にある方は申し訳ありませんが、調べて下さればとても助かります。記憶違いということもありますので。
~御写真を拝すると、何となく御寂しいやうな御色合であったが、比較的うすい草色系統の御美しい袿でいらしたのである。袿は裾が長いので歩く時どうしても引きづってしまふので、普段は(袿袴姿の時は)紐でたくし上げておく。そしておはしょりの端を上に持ってきて、袴の帯に挟んでおく。それで前はブカブカふくらんでいるわけである。
御清用の洋服といふと
一 明治神宮用
━ 靖国神社用
━ 御墓所用(豊島ヶ岡墓地)
一 御陵用
などがある。明治神宮、靖国神社用のものは、よく新聞の御写真でも拝せる様に真っ白である。御墓所用はアラ服の間は白であるが、一定の期間がすむと、うすねずみになる。
~この御祭(新嘗祭)は、供奉員はもちろんのこと掌典職の祭官たちですら、御祭事の最中一歩も御神殿に入ることを許されない。ただ特に選ばれた女官が二人ほどこの御神饌を奉持する大役を奉仕する位であって、一切の行事御進行は御上御一人で遊ばされるわけである。この晴れのお役の女官たちは前日から御籠り部屋に引こもって厳重な潔斎を行ひます。そして二十二日夕方御清に入ると、七ッ葉の湯に入り髪を洗ふ。この時「七回半」髪を濯ぐことになっている。夜は真っ白な羽二重の寝具に休むのである。女嬬も賢所の御供するものが、選ばれ、一緒に御籠り部屋でお清めする。
翌日はまづ髪を「おちゅう」に上げ、午後三時頃ともなれば湯に入って御清めをしてから御清の服装(白羽二重の着物、緋の袴、白綸子の袿)で北車寄から賢所へ向かうのである。大清に着替えるまでこの服装を「中清」といっている。女嬬もこの時一緒に賢所へ行くが、この御籠り部屋ですからすっかり大清の装束をつけてもらふのである。女官は、賢所で又もう一度御清めをした後いよいよ大清の仕度にかかる。
ところでこの装束をつける時、自分で仕度をするのは手を使ふので「穢れる」といふので、湯から上がっても身体を拭くことから下着をつけること着物を着ること全てを一切女嬬が手を添えるのである。それこそ本人はただ突っ立ていれば良いので、まるで五つ位の子供がお母ちゃんに、「おベベ」わ着せて貰うのと何の変わりないのである。
栗原玉葉《初夏の朝》
その装束は着物は白羽二重、帯や袴も普通の「お清」のと同じであるが、その袿は青海波の模様でうすみどり色のものである。その上から白い麻か何かで、鳳凰の様な鳥の模様を摺り出した「肩衣」のようなものを羽織る。これはつまり何か「鳥」に擬せられるのだといふことである。
采女の装束
「おちゅう」で前髪には「釵子」を着けて、そこからニ尺ほどの長さの白いうちひもを編んだような飾りが顔に垂れかかっている。外国などのヴェーブの様なものであろう。「日陰のかずら」といふのを髪に挿す。
采女姿の女官さん
この植物はお清いものとされていて、いつも掌典たちは冠これを挿して、御祭祀を奉仕するのが、習ひである。
日陰の桂
殊更コテコテと白壁の様に塗り立てて素顔も知れぬほど厚化粧の顔、それにかかる白いビラビラ、赤い袴にみどりの袿、あまりにも面白い対象で、それは丁度能舞台に見る人物の様であった。一寸釣竿でも持たせたら、浦島太郎そのままとも思へた。それはまあ双方が経験な気持ちで見るからこそ何とも思わないが、それでも始めてその仕度を見る時、何となくゾーッする様な一寸悽愴(せいそう・痛ましい感じ)な感じのする「よそほひ」などである。どうして人間としてではなく「鳥」として御神事に奉仕するのだろうか。
(烏は主を選ばない)
それはいとも神聖な御祭祀の、しかも神と天皇のおさしむかへで神一体の御境地に入られる「聖なる一刻」を汚れ多き人間が介入しては畏れ多いというわけであろう。
~本当かどうか分からないけど、新嘗祭などの特殊な「御祭儀」の「御告文」は御上から東宮様へ御直伝であるといはれている。
「私成人してから新嘗祭に出たことないの。だから御儀式の所作も『御告文』の内容も知らない、見たこともない」
(それを次世代に伝えることが出来るのは日嗣の御子のみ。そして今年成年になられる若宮殿下へと繋がるのです。政府高官もその点分かっていますし、勿論天皇陛下も。だから《悠仁親王まではゆるがせない》と言っているのです。新嘗祭は畏こくも天皇の御大御心のみ行われる御祭儀)
(成人されたら新嘗祭にお出になられるお方、次世代に天皇としての大御心をお伝えになられる役目も担っていらっしゃるお方)
臣下はだれか一人として、この御祭事の内容を詳しくうかがひしることは出来ない。
外のお祭では、御上の御都合のやむ得ない時でも侍従か御代拝を奉仕して滞りなく執行出きるのであるが、この新嘗祭にかぎっては、御都合で御親祭の遊ばされない年はお取り止めになることである。もっとも午前中のお祭りはいつもの通り行われるのである。そこが新嘗祭の特殊なところなので、御歴代の主上も特に大御心をそそがせられるのであった。
明治天皇の御製にも
『豊年の 新嘗まつり ことなくて 仕ふる 今日ぞ うれしかりける』
と御○懐(じゅうかい・心中の思いをとろする事)遊ばされている
今の御上も、御祭事には御熱心でいらっしゃるが、わけてもこの新嘗祭には少々の御風邪の場合でも、それを押して毎年欠かさず御出ましになるのである。こうゆう御熱心さも全ては「国民のただ安かれ」との大御心のままに外ならなかった。
晴の御儀をおへさせられて、御内儀に還御遊ばされる、御上の玉の御顔に、長時間の御祭の後の御疲れの中にも如何にも「御満足さん」の晴々した御気色の耀くのを、拝することが出来るのであった。「お滞りなく、おするすると御すみ遊ばされまして・・・・」とお互ひ同士御祝いの御辞儀を交しながら、私供も何かしら涙ぐましい安堵の思ひに、胸せまるのであった。両陛下の御格子(御寝のこと)の御後で、ごく小さな物音もさせまいと心を遣いながら「お清」のものを片付け始める。~
浅見松宝〔目黒雅叙園像》