経済と政治

現代日本の経済と政治 千葉理一

第一部 商品・貨幣・資本

2021年09月27日 | 経済

第一部 商品・貨幣・資本

 資本主義社会の財産(労働者が生産した物)は商品の集合体でできています。
この商品なるものは、みなが手にし、身近な物にも関わらず、その内実は知られていません。
 これらの商品を生産したのは、労働者ですが、この社会では労働者は主役ではありません。
 この社会では、貨幣が最も尊ばれます。貨幣があればどんな商品とも交換ができ、必要な物が何でも手に入るからです。
 この貨幣を増やすのが資本の役割です。
 
 商品の説明から始めるのは、商品が資本主義社会の基盤となっているからです。

第一章、商品
 
 商品は労働の生産物です。
 資本主義的生産方式においては、賃金で雇われた労働者が工場で原材料を機械等で加工し、商品を生産しています。完成した商品は、生産した労働者の手を離れ、資本家の生産物として市場に供給されます。生産した商品が労働者の物とならないのは、労働者が貨幣と引き換えにその労働力を資本家に売り渡したからです。
 資本主義社会に生きる人にとって、商品は必要不可欠なものです。商品を手に入れることによって生活が成り立っているからです。生活必需品のほとんどが商品であり、これを買わなければ生きてゆけません。

一.使用価値と価値
 
 商品が取引されるのは、その商品が持つ有用性(使用目的)を必要とする人がいるからです。この有用性を使用価値といいます。
 商品は、それぞれに特有の使用価値を持っています。人は、その使用価値を消費したいがために、その商品を手に入れようとします。空腹を満たすために食料品を、快適に寝るために住まいと布団を、情報を得るためにスマホを手に入れます。
 他人が持っている使用価値を手に入れるためには、奪い取るのでなければ、自分が所有する他の使用価値を持つ商品(貨幣を含む)と交換する以外にありません。
 
 また、見た目が違う商品が取引されるということは、取引される商品が「何か」同質の物を持つと考えられます。
 この商品に内在する「何か」を商品価値(価値)といいます。これは商品をいくら嘗め回しても目にすることはできません。この商品価値のことをここでは価値といいます。価値が商品交換の場に現れる時には、価格という形で現れます。
 重さを量るのには「g」グラム、長さを図るには「m」メートルを使うのと同じく、商品の取引には「円」という物差しを使います。

 労働生産物が市場で交換されなくなれば、市場がなくなり、価値という概念もなくなります。価値がなくなるということは商品もなくなるということです。人間が生産するものは使用価値を持つ労働生産物という概念しか残りません。
 
 
二.価格と価値量

 商品が他の商品と交換される時には価格(価値量)が現れます。米10Kgが貨幣5000円という具合に。私たちが価値を目にするのは、この価格として現れた時です。
 使用価値の塊である商品は、交換の場において、その商品に内在する商品価値とその量が姿を現すのです。
 価格が個々の商品についているのなら、個々の商品には、その商品に内在する価値量を持っていると言えます。

 商品の価値量は、その商品に含まれている労働の総量によって決まります。商品の価格とは、その商品に含まれている(社会的平均)労働の総量を貨幣で表示したものなのです。

三.価値量と総労働量
 
 価値量は、その商品に蓄積されている(社会的平均)労働の総量によって変化します。一個の商品の生産に必要な労働量が多ければ、価値量も多くなり、少なければ、少なくなります。
 例えば、軽自動車の生産に必要な労働より、高級車の生産には、より多くの労働が必要であるため、高級車の方がより価値量が多いのです。
 また商品の価値量は、その時々の生産力によって変化します。生産力が高まれば、時間当たりの生産量が増え、1個当たりの労働量が減るので、商品の価値量も減るのです。
 商品の価値量は労働時間に比例し、生産力に反比例するのです。
 
四、社会的に必要な労働時間

 しかし、同様の軽自動車に対し、ある生産者が他の生産者の2倍の労働時間を費やしたからといって、その価値量が2倍になるものではありません。軽自動車の価値量はそれを生産するために必要な労働量の平均によって決められるからです。
 必要労働時間以上の労働を加えても、価値は上がりません。反対に、超えた分の賃金が無駄になります。
 ある商品の必要労働時間は、その時々の生産力によっても変化します。そして、国際的な商品生産力の平均値によって、その基準値が決まってきます。
 ただし、この基準値は、価値が目で見ることができないように、その商品をいくら見回しても価値量を目で見ることはできません。
 個別の商品の価値量は、生産時点では、誰も知ることはできません。ある商品に必要な労働時間が日々、時間ごとに変化しているからです。
 つまり、商品交換が実現して初めて目にする価格を通じてのみ知ることができる、結果値だからです。

五、市場価格

 価格と価値量の関係は常に変動します。価値量が同じでも、需要と供給によって価格は変動します。需要が勝れば価格は価値量より高くなり、供給が上回れば、価値量より低い価格が現れます。価格が価値量より高くなりすぎれば、次は低くなりすぎます。低くなりすぎればまた高くなり、振り子のように揺れ動いています。この揺れ幅は、個々の商品によっても、商品市場の違いによっても異なります。
 振り子の中心となるのが、価値量です。その商品に含まれている(社会的に必要な)労働の総量なのです。
 需要と供給が一致しその作用がなくなった瞬間、商品の市場価格は商品の真の価値量と一致します。

 価格でしか価値量を見ることができませんが、価値量が、市場価格を決めているのです。

 1個の商品に含まれる(社会的平均)労働の総量は、生産力の変化によって日々変動します。ですから、価値量も日々変化します。それを基に価格は振り子運動をするように変化します。資本家はこの市場価格を見ながら生産調整をしなければならないのです。しかも複数の資本家が同様の商品を生産しています。だれが生産を減らしたか増やしたのかもわかりません。こんな商品市場をコントロールすることなど鼻から無理なのです。
 
第二章、貨幣

 貨幣とは、商品交換が生み出した交換のための商品であり、その使用価値が他の商品の価値を計る商品のことです。それは金と銀です。金との交換ができなくなった紙幣は、厳密には貨幣ではありません。貨幣を代用する代替貨幣です。
 現在の日本の社会においては、代替貨幣である紙幣が貨幣の代わりとなって商品流通を担っています。ですから、これから述べる貨幣については紙幣を頭の中で考えて読んでください。
 ただし、金との交換ができなくなった紙幣は厳密には貨幣ではありません。ですから、信用がなくなれば貨幣としての役割はなくなる事を忘れないで下さい。

一、貨幣と価値量

 資本主義社会において貨幣は、必要不可欠のものです。
 貨幣があるために物の交換がスムーズに行われます。資本家が新しい商品を生産するために必要な物を買い入れるのには貨幣を使って行います。
 また、私たちが日常生活に必要な物を手に入れるために利用しています。
 
 資本主義経済では、商品は、貨幣と交換されます。商品を買うということは、その商品価値と見合う貨幣の量を支払うことです。すなわち、理論上は、商品が持っている価値量と見合う貨幣の量と交換されます。
 貨幣にも価値量があります。たとえば金の価値量ですが、金鉱石を山から掘り出し、それを純金に高めるのに必要な総労働量です。
 ですから、金銀の価値はそれをつくための総労働の量によって変化しますが、景気や国、日銀の信用度とは無関係です。日銀券が紙くずになっても金は前の価値を持っていますから、商品取引には影響しません。
 
二、特別な商品

 貨幣は、商品の一種でしたが、貨幣となってからは、どんな商品とも交換が可能という特別な機能を持ちました。他の商品ではできないことです。
 どんな商品とも交換できるということは、貨幣を多く所有する人間にも多くの力を与えます。資本主義社会では、貨幣を多く持つ人ほど強大な権力を手にでき「えらい人」といわれるのです。ですから「金の切れ目が縁の切れ目」で貨幣がなくなれば「ただの人」となるのです。

 貨幣にも、他の商品と同様の使用価値があります。ですが、その使用価値は特別で他の商品の価値を測る事にあります。
 貨幣があるために、商品の交換がスムーズに行われます。
 市場に出た商品は、貨幣との交換によってはじめて自分の価値を実現できます。ある商品の価値量は、交換される貨幣の量によって知ることができるのです。
 貨幣は、個々の商品の価値量を知るためのはかりの役割をしています。この交換される貨幣の量の多さで、個々の商品の価値量を知り、対比することができるのです。

 貨幣が秤の役割を果たさなくなったら、商品交換は物々交換の時代に引き戻されます。
 個々の商品を市場に持ち寄り、買う側と売る側の双方が納得する量を交換することになります。こんなことを続けると商品流通は滞り、生産も停滞します。
 資本主義社会で貨幣がなくなれば、売るものがあふれ、買う側も手に入れたい物ばかりになります。物々交換はスムーズに進むでしょうが、経済の停滞は止まりません。

 資本主義社会にとって貨幣の存在は必要不可欠なのです。これからお話しする紙幣が貨幣の代用をしていますが、紙幣の信用がなくなると同じようなことが起こります。自国の紙幣が信用を失ったら世界紙幣がその役割を代用します。世界紙幣の信用まで失ったら金銀と仮想通貨でしか代用できなくなり、それを所持しない人は物々交換でしか商品をてにできず、経済は停滞します。
 
三、貨幣の誕生

 商品交換は余った生産物の交換から始まりました。ですから、その交換は簡単にはできませんでした。交換する相手が近くにいて、交換する相手も余ったものを持っている必要があるからです。さらに、余った物をお互いが必要としていなければなりません。偶然から始まったのです。
 
 余り物で交換が可能であれば、相手が作ることができないものを必要以上につくり、相手の持っているものと交換するようになります。交換するためにつくる商品の生産が始まりました。例えば、乾燥させた蛤を山間部に持って行って木の実と交換するというように。矢じりやナイフに加工できる黒曜石の交換も始まりました。

 交換が頻繁になると、持っていれば誰もが交換してくれる商品が必要とされます。
 長い年月を経て、金がその座を手に入れました。
 
 金には、他の商品にはない多くの特徴があります。
一つはあまり消費されないということです。日常で消費されては無くなってしまいます。常に交換のために待ってなければならないのです。
 次に、少量で、大きな価値量を持っていることです。大きな石の塊では持ち運びには不便です。
 次には、腐ったりしてはなりません。何年たっても姿を変えないことが必要です。使用しない間に別のものになってはいけません。

 それらの性質を合わせ持つ金が、貨幣の座を射止めたのです。さらに、金の補助として、銀・銅などの金属が選ばれました。
 
 現在では、商品の取引には紙幣と信用取引が主に利用されています。
 
四、紙幣

 商品流通が活発になると取引に必要となる金の量が不足してきます。それを補うのが、紙幣です。
 国の政府がその価値を保証することで誕生しました。最初は金と交換可能で、その貨幣量が紙幣の額面になっていましたので、兌換紙幣と言われていました。しかし、現在は金との交換はできないことを前提に発行されています。

 政府が恣意的に発行できる政府紙幣は供給が過剰になりがちであり、過去に幾度も貨幣価値下落=インフレを引き起こしてきました。
 そこで、現代の資本主義社会においては、紙幣の発行権は中央銀行に集約され、政府から高い独立性を保っていました。
 
 日本銀行において発行されている日本銀行券の裏付けは、対価である日本銀行保有の金融資産に対する信頼で保障されています。
 日本では最近まで、日本銀行法で日銀券は金地金、国債、手形などによる同額の発行保証を保有することとなっていました。
 その後、銀行法の改正によってそれらの規制が撤廃され、日銀券の発行総量は日本銀行の裁量に委ねられることとなりました。
 量的緩和に伴い、日銀の国債保有残高は日銀券発行残高を超えてはならないとする「日銀券ルール」も明文化されましたが、「量的・質的金融緩和」の導入に伴い、そのルールも一時停止が決定しています。

 規制がなくなった日銀は、紙幣を大量に刷って発行し、その紙幣で日本国債と日本株を大量に購入しています。
 どちらかが大幅に下落すれば、日銀の持つ金融資産が大幅に減少し、日銀の信頼すなわち、日本銀行券の信用もを失墜させます。そのために、どちらも下落させるわけにはいかないので、さらに買い続けています。
 日本国債と日本株が暴落すれば、金融資産の後ろ盾を失った日銀券は暴落し、ハイパーインフレに見舞われます。

 「金との交換ができなくなった紙幣は厳密には貨幣ではありませんから、信用がなくなれば貨幣としての役割はなくなります。」と書いたとおりに、信用がなくなれば、物差しとしての役割もなくなります。 
 戦後発行された日銀券は、米ドルを含めた他国の通貨に比べ、今までは信用がありました。日本の経済発展が著しかったので、金価格(日銀券に対する価格)は上昇せず、日銀券の信用も高かったのです。 それは金に対する各国の紙幣の額、金1gの購入に必要な各国銀行券の表示額の推移をみれば明らかです。
 保有している金融資産以上に紙幣を発行したり、不良債権を購入すれば、その仮の価値が低下するので、金1gの購入に必要な銀行券の表示額も増えてしまうのです。
 
 預貯金、株式、債券など「紙の資産」は、それ自体に価値があるものではなく、国、中央銀行や発行企業の信用、あるいは業績によって価値が決まります。そのため世の中が安定し経済が好調な時には「紙の資産」の価値は上がりやすい傾向がみられます。
 
 代替貨幣である日銀券は、他国との取引では、他国の銀行券との信用度の差によって変化します。
 他国の銀行券との為替レートが毎日変化するのは、各国の銀行券との信用度の変化を反映しているからです。
 500円玉や100円玉も金属でできていますが、その金属の量は額面に匹敵する価値はありません。記念金貨をも含め、これらも代替貨幣です。ちなみに1万円札の印刷代は20円くらいだそうです。
 
五、クレジットカード類

 現在は、貨幣、紙幣に依存しない信用取引が主流になってきました。クレジットカードやデビットカード、スイカなどのカードによって商品の購入代金を支払うことができます。
 また、スマートフォンを利用した電子カードも発行されています。読み取り機にスマホを近づければ決済が終わります。
 現金を持ち歩かなくてもよくなったので、盗難の被害も減り、簡単に決済が済み、持ち歩きにも便利になりました。

 カードでの取引は、金融機関が預貯金や財産を担保に、持ち主を保証する形で行われており、後払い方式と直接払い方式、先払い方式(支払い済み)のカードが発行されています。信用取引の普及により、紙幣を使用することもなく買い物ができるようになりました。
 カードでの取引を行うためには、銀行などに預貯金が必要です。預貯金を担保にしているのでインフレになればその影響をもろに受けます。
 カードなどの支払いができなくなるとそのカードの使用ができなくなり、その後も新しいカードの発行ができなくなります。
 信用取引には、手形や証券などもあります。これらは政府を信用するのではなく、銀行などの金融機関や会社などを信用して取引するものです。発行する会社が倒産すれば、紙くずになります。

六、仮想通貨

 仮想通貨は、仮想という名の通り、紙幣のように実在しません。インターネット上で通用する通貨「サーバー上に」記録された通貨です。

 仮想通貨は、マイニング(採掘)と呼ばれるコンピューターの演算によって生み出されます。
 その価値量は、演算に必要な電気、コンピューターの機材など過去の労働の量と発掘にかかわった人間の労働との総量です。
 仮想通貨には、供給量の上限があります。そのため、それを発掘するのは初期は簡単なのですが、発掘が進むとどんどん難しくなります。そのために、値上がりするので、発掘で儲かると考える人が、発掘に参加します。そしてさらに困難になり、発掘に必要な電気、機材、人間の数が増えます。総労働量が増えれば、その価値量も増えます。そして、仮想通貨の価値量が増えるのです。

 しかし、供給量が決まっているので、マイニングが困難になり、価値量が増えて行きます。そのために、投機の対象になりやすく、うわさなどに敏感に反応し、取引価格の変動が激しいのです。
 変動は激しいのですが、古くから発行されているビットコインは発掘が難しいので、他の仮想通貨にくべて常に高い価格になっています。

 通貨として使えないという説もありますが、実際に、商品が購入でき、主要な通貨との取引がされています。少額の取引でも、0.0001ビットなどと小数点以下の使用ができます。
 主要通貨との価格が安定すれば、紙幣よりは信頼性もあり、通貨として通用するものと考えられます。今、コロナウイルス対策で金融緩和策がとられており、銀行券の下落を恐れる資産家がビットコインを信用して購入しているとのことで、対ドル価格が上がっています。

 仮想の通貨ですので、間違って送金したら取り戻すことは困難ですし、自分のコードを紛失してしまえば、使用できなくなります。

七、国際通貨(紙幣)

 資本主義社会は国家を基盤にしています。
どんなにグローバル化しても、企業を守るのは個々の国です。国家なしには、資本主義社会は存在しえません。国家がなくなれば、資本主義社会もなくなります。というより、資本主義生産様式がなくなるときに国家が必要でなくなり、インターナショナルが実現されます。

 資本主義社会で国際的な取引をスムーズに行うためには、どの国の取引にも使える通貨が必要です。それが 国際通貨です。はじめは金でしたが、現在はUSドル紙幣が世界紙幣です。その前は英ポンド紙幣でした。

 世界紙幣には以下の条件が必要とされています。
 戦争などによって国家が消滅したり壊滅的打撃を受けないこと。発行国が多様な商品を産出し、しかも、金銀などを大量に保存し、いつでも他国が望む商品と交換できること。紙幣の信用が安定していること。高度に発達した為替市場と金融・資本市場を持つこと。対外取引が容易なことなどです。

 国際紙幣には利点があります。
 海外との取引では為替レートが動くことが問題ですが、国際紙幣になると自国の紙幣がそのまま使えて、為替変動リスクがゼロになります。
 また、貿易赤字を自国紙幣で払うことが可能になり、赤字の穴埋めができるのです。
 しかも、他の国の紙幣と違って、増刷してもインフレになりにくいのです。
 自国通貨がハイパーインフレで通貨として使用できなくなれば、自国通貨に代わり国際通貨が流通します。

デフレ

 かつて私が中学生の頃、デフレという言葉を聞いた時に、デフレなんてありえないと考えていました。
 デフレになれば、物価が下がり、手元にあるお金の価値が上がっていくから、そんなことにはならないだろうと考えたのです。ところが、1998年ころからデフレが始まったのです。
 デフレですから、モノの値段は年々下がり、すぐに必要な物以外は買わないで、安くなるの待った方がよくなりました。ですから、ますます売れなくなります。商品は値段ではなく、消費者がすぐに手に入れたいモノでなければ売れなくなったのです。

 そんな時代に一番売れたのが、スマホです。半年ごとに機能が増し、若い人ほど高機能のものを欲しがったのです。その風潮に押され、年配者の購入も増えました。

 デフレは、企業とって良いモノではありません。ですから政府は、企業のためにデフレからの脱却を求め、インフレに持ってゆこうと考えます。そのために日本政府が取ったのが、日銀によるインフレ政策でした。金利をマイナスにし、国債を買い続けています。
 デフレ時に預金に利息が付けば、銀行に預けておくだけで資産が増え続け、物が売れません。

 金利をマイナスにする理由は、銀行に「日銀に預けても元本が減ってゆきますよ」と警告し、市場への貸し出しを増やすためです。
国債の金利もマイナスにすれば、銀行は金を預けるところがなくなります。民間企業や個人への貸し出しが増えると考えるからです。

 優良な企業は投資を増やさないし、内部留保が増えているので、借金の返済を続けています。
 こんな時代に金を借りたい企業は倒産の危険があり、銀行も貸し出しに応じません。
 今まで市場になかった商品をつくる企業も資金を必要としていますが、倒産の危険性が高いので銀行などは貸したがりません。これらに投資するのは当たれば大儲け、外れれば全損と心得て投資します。

 労働者は年々賃金が下がり続けているのに、税金、年金、健康保険などの天引きが増えています。少しくらいの賃金上昇があっても実質賃金はマイナスです。 将来のことを考えると預金しなければなりません。必要最低限の物以外の支出を増やすことはできません。

 このために、日銀のインフレ政策は効果を上げていません。
 金利はマイナス、国債の残高は増え続け、株価を維持するために株への投資を増やしています。
 ここで、世界的な不況局面が現れたら日銀に対応策があるでしょうか?

第三章、資本

 資本の目的は、貨幣を増やすことです。
 資本とは、商品の生産に必要な土地、工場(建物)、機械と工具、原料、そして雇用契約で獲得した労働力です。今では、資本と生産を管理する経営者をも雇い入れます。資本家が買い入れるものはみな商品で、貨幣との交換で手に入れます。
 この資本が貨幣を増やす生産過程は、すべての産業で行われています。例えば飲食業では、工場の代わりが店舗であったり、機械が調理道具に、原料が食材になるだけです。

 だだし、個人事業主は労働力を売ったわけではないので、自分の再生産費以上を稼げば、自分の蓄えになります。とはいっても、資本主義生産と切り離されているわけではありません。国の優遇策がなければ、大資本の会社に太刀打ちはできません。大資本が入れない、入らない片隅で市場に参加します。

一、貨幣から資本へ

 貨幣を増やすために使用される貨幣のことを資本金といいます。 
 資本金で買い入れた商品を消費して、新しい商品を生産し、これを売って投入した以上の貨幣を得ます。
 資本がどのようにして貨幣を増やすのか、それが生産過程(剰余価値の生産)で明らかになります。

 また商品は、それを生産した資本家の手にあっても使い物にはなりません。商品はそれを必要とする人の手に渡って、その使用目的を実現できるのです。資本家が生産した商品をそれを欲しがっている人に届けるのが市場の役割です。市場で交換されることで生産した資本家の手に貨幣が入ります。
 市場での交換がどのように行われているのか。これを知るのが流通過程です。

 貨幣が資本となり、商品の生産と交換の過程を経て、生産前より増えた貨幣となって戻ってくる。これが資本主義的な生産です。
 この過程は円滑に行われていません。不況や好況の波があり、時には恐慌という悪魔が襲い掛かります。また、生産の主役である労働者が報われる社会でもありません。それらのことも解明しなければなりません。
 
二、固定資本と労働力資本

 資本は、それ自体では価値を増やさない不変(固定)資本と価値を増やすことができる労働力の可変資本という、二種類の資本に分けられます。
 固定資本とは、土地や工場などの商品の生産に必要な土地・建物・原料・機械などを買うために投資されたものです。これらは、資本ですが、商品に転化されるだけで、資本を増やすことはありませんから、固定資本といいます。
 もちろん、必要としない土地の購入や建物の建築、原料の浪費によっては、資本の損失をまねきます。

 ロボットもコンピューターも生産に必要な道具で、固定資本です。労働が介入しなければ、生産は始まりません。固定資本でも、使わないのに購入したり、原料等を無駄に使えば、その価値は棄損されます。固定資本と書きましたが、棄損すれば減り、利潤も減ります。
 固定資本は、商品生産に必要な、労働者が働くための環境を用意するのです。
 
 労働力資本は、労働者を雇う為に、つまり労働力商品を買うために、投資されます。 
 労働力資本としての貨幣は、労働者を一定時間働かせるために、生産が始まる前に固定資本と同じように投資されるものです。ですから、本来は他の商品同様に、契約時に賃金を払わなければならないのです。
 しかし、他の商品が、掛け売りされるように、労働力商品も、後払いになってしまいました。後払いであっても働いた後に賃金が決まるのではなく、働く前に、契約によって決まっています。
 
三、労働力商品の価値、価格
 
 生きるために必要な貨幣を手に入れるために、自分の労働力を売る以外にない人間を、労働者と言います。少しくらいの株を手にしていても、働かなくては生きてゆけない人は労働者です。
 
 私を含め、これを読んでいる読者の方も生活に必要な物を手に入れるために会社に雇われて働かざるを得ません。
 生活に必要な商品を手に入れることができる貨幣を得るために、自分の労働力を貨幣と交換し、会社で働かなければなりません。
 生活を維持するため賃金労働者としを働かなければならない人を労働者といいます。

1、市場と賃金

 会社に就職するということは、会社に一か月いくらの給料で何時間働きますと契約しているということです。本来ならば給料は前渡しで、その代わりに決められた期間、決められた時間の中で、買った人(資本家)が自由に使用できるという契約なのです。給料を前渡しにすると不都合なことが多いので、月末に支給されています。
 この雇用契約を結んで働く人を、他の商品と同じように買ってくるので、労働力商品といいます。

 労働者は賃金と引き換えに、自分の労働する能力、すなわち労働力を売ります。資本家の一部には労働者を買ったように考える人もいますが、労働者=人間を購入したなら、それは奴隷といいます。
しかし、労働者が賃金と引き換えに売ったのは労働する能力=労働力であり、自分の体を売ったのではありません。

 労働者は、自らの働く力、すなわち労動力を貨幣と交換します。この事により、労働力が商品という概念を与えられてしまうのです。
 つまり、他の商品と同様、賃金という名の貨幣と交換が可能であるがために、労働力が商品となります。

 労働者が労働力商品となるのは、労動力が賃金と交換されるからです。共産主義社会になれば、社会の必要に応じて働くため、貨幣と交換される賃金という概念も、労働力商品という概念も消えてなくなります。

 労働力商品が商品であるということは、他の商品と同じように、使用価値と価値があります。
 労働力商品の使用価値は、機械等を使用して原料を加工し、新しい商品を生産することです。
 労動力商品が賃金として、貨幣と交換されるということは、価値があるということです。そして、その価値量も存在し、価格があるということです。
 
 労働力商品は個々に違った価値量があります。労働力商品の生産に必要としたお金が違うからです。新しい商品の研究に当たる労働者は、その生産には多くのお金が掛かります。大学に進み、大学院を経るからです。
 その社会の中で、その人と同じ教育、同じ技術を持つ人間を創る。つまり労働力を再生するために必要な労働量によって、その価値量が決まるのです。
 あまり知識を必要としない労働には高卒程度でよいので、研究者などに比べ、その価値量は低くなります。

 つまり、労働力商品の価値量は、その労働者を再生産するために必要とする生活必需品や教育費などの再生産費の総量によって決まってくるのです。
 つまり、その労働者を再生産するに必要な労働の総量でその人の価値量が決まるのです。浪人や落第して多くの費用が掛かっても価値量は上がりません。
 
 労働力商品の価値量も他の商品と同様に、社会的平均の労働量によってきまるので、労働市場で買われるまでは、その価値量はわかりません。ある到達点に達していれば、その労働者を育て上げるのに必要とされた労働の総量にかかわらず、同様の価格で取引されます。
 実際は、労働者の内部を見ることはできないので、テストや取得した資格、面接などで判断されています。

 ですから、生産性が高まり、労働者の再生産に必要な生活必需品、つまり衣食住の価格が下がれば、労働力の価値量も下がり、価格も下がります。

2、賃金のゆがみ

 今、盛んに「働き方の改革」などと騒がれています。「メンバーシップ型」から「ジョブ型」の働き方にするとか。かつて言われた「成果給」なるものが失敗に終わったそうで、それに代わるものとして「ジョブ型」なる働き方を導入しようとしているらしい。
 「ジョブ型」とは個々人の能力に応じた仕事をさせ、賃金も個々人の成果によって払うというのです。
 コロナウイルスの蔓延によって在宅勤務が幅広く導入されましたが、在宅では厳密な勤務時間管理ができません。そこで、勤務時間には関係なく企業に貢献した貢献度によって賃金を払うというのです。

 貢献度によって賃金が決まっているといわれる代表が経営者です。例えば日産自動車の社長だったカルロス・ゴーンは、その貢献度が高いとして十億円以上の賃金をもらっていました。
 彼は普通の社員の100倍以上の仕事をしていたのでしょうか?
 会社が倒産の危機にあったのを救ったということですが、それは彼だけの手柄なのでしょうか?
 否です。彼の力だけではできません。では、再建のために同じように頑張った社員は、今までの100倍の賃金を得たのでしょうか?否です。
 資本家が考える働き改革の目玉である貢献度なるものは、この例を見れば明らかです。ゴーンとともに再建のために寝ずに頑張っても、一般社員の貢献度は認められず賃金には反映されていないのです。
 しかも経営者として雇われた人は、自分の任期さえ黒字にすれば辞めた後はどうでもいいのです。黒字にするために様々なトリックを使います。典型が東芝の経営陣が行った不正会計です。
 貢献度はきわめて主観的であり、それによって決める賃金も全くもって主観的なのです。

 労働力商品の市場価格はどうなるのでしょうか?一般社員の賃金はどう変わるのでしょうか?
 新しい賃金制度になっても、今まで払っていた賃金の総額は変わらないでしょう。貢献度が認められた労働者の賃金が増えた分は、貢献度が低いとされた労働者の賃金と相殺されるのです。そうしなければ、剰余価値率を今まで通り確保できなくなるからです。

 様々な弊害が現れます。貢献度を高く評価してもらおうと寝ずに働くものが出てきます。自宅勤務なので働きすぎでもわかりません。家族が注意して止めてくれなければ、病気になってしまいます。
 貢献度が低いとされた労働者は賃金が引き下げられます。賃金を下げるのは見せしめのためです。「下げられたくなければもっと働け」という脅しなのです。 それでも下げられてしまえば、自分の再生産に支障をきたしてきます。病気になったり、子供に高等教育を受けさせることができなくなります。
 
 非正規雇用で働く人が非常に多いですが、彼らの賃金では病気になることもできません。また、ほとんどの人は結婚もしないので子供もいません。正社員では縛りが多いので正社員にはなりたくないという人もいます。
 安い賃金でも何とか生きてゆけるのは、子供がいないからです。その賃金では、自分の跡を継ぐ子供の再生産ができないのです。
 少子高齢化が問題と言っているのに、大企業で有名な企業ほど非正規社員を多く雇い、利潤の増やし、日本沈没を促進しているのです。
 



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