序、はじめに
1、哲学とは、研究者の礎である。
未知の領域を切り開くのが研究者です。
研究が成功すれば科学となります。
科学を創るのには未踏の地平を歩む羅針盤が必要になります。それが哲学です。
2、科学と哲学
社会を変革しようとする人には多くの苦難が待ち構えています。しかもそれが、今の社会を替えようとする時には資本家階級からの卑劣な攻撃にさらされます。
苦難に立ち向かう武器となるのが、科学と哲学です。
かつて「地球の周りをまわっていた太陽」が「太陽の周りを地球が回り」はじめました。 これが一般の人に受けいられて、宗教が科学となったのです。今では人工衛星が飛び回る時代になり、だれも疑う人はいません。しかし、この説をキリスト教の抵抗を覚悟して一般の人に広めようとした人は、教会によって殺されかけたのです。
ある事象が研究しつくされて科学となった瞬間から、哲学(宗教)から解放され、誰もが認めざるを得なくなります。
経済学は科学です。もちろん偽の論文も多くあります。しかし、研究つくされた部分は科学なので否定しても無駄なのです。
科学となるまでの間の研究過程は、その人が所持する哲学によって支えられます。
一、弁証法
フォイエルバッハが唱え、マルクスが完成させました。今や、科学を極めようとする人には必需品です。
1、止揚
二つの切り離せない事象が互いに争っている状況を矛盾といい、それは止揚されることによってのみ解消されるという思考方法です。
資本主義社会では資本家と労働者との関係です。
資本家は、労働者がいなければ搾取して利潤を得ることができません。また利益を多くするためにさらにこき使おうとします。労働者は、生活賃金を得るために搾取されても資本家に労働力を売るしかありません。
そして生活の向上と搾取からの解放のため資本家階級と対立します。これが矛盾であり、これを止揚するのが社会主義社会なのです。
2、量から質への変化
水を温めると温度がどんどん上がりますが、物理的な変化はありません。しかし100度を超えると水蒸気が発生します。この時の変化を質の変化といいます。
社会を変えようとする人が増えても、しばらくは社会に変化は起きません。しかし変化を望も人が増え、ある割合に達すれば社会に変化が起こります。それがさらに増えれば社会は変わります。
3、螺旋的な発展
世の中の全ての物事の進歩や発展は、右肩上がりに一直線に進歩・発展していくのではない。あたかも螺旋階段を登るようにして進歩・発展していきます。一度不要となったものが、螺旋階段を上がると違った形で必要とされるのです。
市場取引での「競り」は非効率ということで一部を除いて無くなってっ行きましたが、ネット時代にネットオークションという形で復活しました。時代の変化の中で再び日の目を見ることになったのです。
二、主体性
戦後の日本で、戦争責任をめぐって展開されました。
社会全体が戦争に向かっていたので、戦争に加担したのはやむを得なかった。自分には責任はない。これが戦後の大多数の人の考えでした。では、同じ状況になったら再び戦争に加担するのか。戦争は止められないのか。
そんな自己葛藤の中から、客観情勢に対する自らの主体的対応を問う哲学者の間で論争になりました。
主体性とは、客観情勢に対し自らが主体となり、できることから始め、客観情勢を変革するという情熱を持ち続けることを意味します。
人災に関しては、たとえほんの少しでも、自らに責任の一端があるのです。外部から見ているのではなく、自分から行動を起こさなくてはなりません。
米軍によるベトナムへの絨毯爆撃に対し、また日米の不平等条約である日米安保に対し反対運動が盛り上がったのも、それぞれの人が主体性を発揮したからです。
労働運動でも、自分が置かれた現状がどんなに悪くても、状況を変革する強い意思を持ち、少しずつ変革をすることによって現状を変えてゆくことです。行動を維持する強い意志を持つには、現状を科学的に理解することです。
三、場所的立場
階級闘争には、自らがどちらの立ち位置にいるのかが問われます。
たとえ現存する場が資本家階級でも、労働者階級の立場に立ち、社会主義社会の実現のために奮闘するということもあり得るのです。
逆に、労働者であるにもかかわらず、労働組合を攻撃するものも多くいます。自らの立ち位置によって、その行動も考え方も違ってきます。
第二章 科学
「哲学が終わるところ科学が始まる」という名言があります。
科学とは誰もが認めざるを得ない知識のことです。宗教家や利害関係のある人など、認めたくない一部の人がいても、大多数のひとが認めたものは科学です。
学校で教える知識のほとんどが科学的に分析されたものです。今や水泳、テニス、陸上協議などのスポーツも科学知識なしには勝てなくなっています。
1、哲学とは、研究者の礎である。
未知の領域を切り開くのが研究者です。
研究が成功すれば科学となります。
科学を創るのには未踏の地平を歩む羅針盤が必要になります。それが哲学です。
2、科学と哲学
社会を変革しようとする人には多くの苦難が待ち構えています。しかもそれが、今の社会を替えようとする時には資本家階級からの卑劣な攻撃にさらされます。
苦難に立ち向かう武器となるのが、科学と哲学です。
かつて「地球の周りをまわっていた太陽」が「太陽の周りを地球が回り」はじめました。 これが一般の人に受けいられて、宗教が科学となったのです。今では人工衛星が飛び回る時代になり、だれも疑う人はいません。しかし、この説をキリスト教の抵抗を覚悟して一般の人に広めようとした人は、教会によって殺されかけたのです。
ある事象が研究しつくされて科学となった瞬間から、哲学(宗教)から解放され、誰もが認めざるを得なくなります。
経済学は科学です。もちろん偽の論文も多くあります。しかし、研究つくされた部分は科学なので否定しても無駄なのです。
科学となるまでの間の研究過程は、その人が所持する哲学によって支えられます。
一、弁証法
フォイエルバッハが唱え、マルクスが完成させました。今や、科学を極めようとする人には必需品です。
1、止揚
二つの切り離せない事象が互いに争っている状況を矛盾といい、それは止揚されることによってのみ解消されるという思考方法です。
資本主義社会では資本家と労働者との関係です。
資本家は、労働者がいなければ搾取して利潤を得ることができません。また利益を多くするためにさらにこき使おうとします。労働者は、生活賃金を得るために搾取されても資本家に労働力を売るしかありません。
そして生活の向上と搾取からの解放のため資本家階級と対立します。これが矛盾であり、これを止揚するのが社会主義社会なのです。
2、量から質への変化
水を温めると温度がどんどん上がりますが、物理的な変化はありません。しかし100度を超えると水蒸気が発生します。この時の変化を質の変化といいます。
社会を変えようとする人が増えても、しばらくは社会に変化は起きません。しかし変化を望も人が増え、ある割合に達すれば社会に変化が起こります。それがさらに増えれば社会は変わります。
3、螺旋的な発展
世の中の全ての物事の進歩や発展は、右肩上がりに一直線に進歩・発展していくのではない。あたかも螺旋階段を登るようにして進歩・発展していきます。一度不要となったものが、螺旋階段を上がると違った形で必要とされるのです。
市場取引での「競り」は非効率ということで一部を除いて無くなってっ行きましたが、ネット時代にネットオークションという形で復活しました。時代の変化の中で再び日の目を見ることになったのです。
二、主体性
戦後の日本で、戦争責任をめぐって展開されました。
社会全体が戦争に向かっていたので、戦争に加担したのはやむを得なかった。自分には責任はない。これが戦後の大多数の人の考えでした。では、同じ状況になったら再び戦争に加担するのか。戦争は止められないのか。
そんな自己葛藤の中から、客観情勢に対する自らの主体的対応を問う哲学者の間で論争になりました。
主体性とは、客観情勢に対し自らが主体となり、できることから始め、客観情勢を変革するという情熱を持ち続けることを意味します。
人災に関しては、たとえほんの少しでも、自らに責任の一端があるのです。外部から見ているのではなく、自分から行動を起こさなくてはなりません。
米軍によるベトナムへの絨毯爆撃に対し、また日米の不平等条約である日米安保に対し反対運動が盛り上がったのも、それぞれの人が主体性を発揮したからです。
労働運動でも、自分が置かれた現状がどんなに悪くても、状況を変革する強い意思を持ち、少しずつ変革をすることによって現状を変えてゆくことです。行動を維持する強い意志を持つには、現状を科学的に理解することです。
三、場所的立場
階級闘争には、自らがどちらの立ち位置にいるのかが問われます。
たとえ現存する場が資本家階級でも、労働者階級の立場に立ち、社会主義社会の実現のために奮闘するということもあり得るのです。
逆に、労働者であるにもかかわらず、労働組合を攻撃するものも多くいます。自らの立ち位置によって、その行動も考え方も違ってきます。
第二章 科学
「哲学が終わるところ科学が始まる」という名言があります。
科学とは誰もが認めざるを得ない知識のことです。宗教家や利害関係のある人など、認めたくない一部の人がいても、大多数のひとが認めたものは科学です。
学校で教える知識のほとんどが科学的に分析されたものです。今や水泳、テニス、陸上協議などのスポーツも科学知識なしには勝てなくなっています。
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