下の文は、ここに載せている写真とは 殆ど関係ないが...
この画もまた、 リアル世界で使うことは考え難い“棚ずれ写真”だし x x x
「ありきたりな鳥の ありきたりな日常にも 自身の主観で捉えたいシーンを探す」か、 「珍しくもない ありきたりな、 他の皆からありがたがられない鳥を写しても 価値はない」かは、 目的意識や価値観次第。
多々いる、 “皆にありがたがられる鳥に群がる集い”が開催されている場所を聞きまわっては そこに駆けつけて、 どう写せば“良い写真”なのかを聞きまわっては そのまま真似て、 だけを繰り返し続けている面々は、 そこで崇められる、 あちこちで普通に見られる鳥だと誰も知らないことで あべこべに“他では誰も見つけられない珍しい鳥さえも見つけた”に化け、 初心者でも最初から撮れて当然なものが“他では誰にも撮れない難しい撮影にさえも『成功』した”に化け、 といった、リアル世界での実際とは かけ離れたものが無数にある “その集いでご機嫌良くいられるにはご都合が良いご解説”が復唱し合われて増殖した、 本来「自身の主観」とは無関係な又聞きのお噺を 何でもかんでも皆と同じに復唱し合い、 それに沿った画一的な行動を 皆と同じに一斉に演じ合っているだけの、 「思考」をせず「自身の主観」を持たない ロボットのように見える。
これは、 「自身の主観(価値観)で望む写真を撮ろうとする」ことや、 それにおいて “どうすれば 他者から良い評価を得られる写真になるか”を考えることとは、 本質的に全く違う。
この両者には 「鳥を写真に写す」という風な “状況の一断片だけを極度に要約した文字列”で表せば 同じ文言が当てはまる部分はあっても、 その「鳥を写真に写す」ことがある共通点だけで “同類”とか“同好”といった感覚での同じ部類として一括りに混同しまうのは、 実際を知らない門外漢からの見え方。
そういう全く違う世界にいる両者は、 すぐ近くに隣接して「鳥を写真に写す」状況があっても 交わることはないもの。
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