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あげちうのブロマガ

願い続ける先に有る物

庵野秀明氏、紫綬褒章受章。

先日の話も含んで、それは良い事なのか、それとも。



「なんで?」

というのは、正直言いたい部分はある。ぶっちゃけると「エヴァンゲリオン」以外に、庵野氏に目立った功績、というのが見当たらない、という理解。そのエヴァンゲリオンにしろ、かなり長期に渡ってグダった経緯はあるし。「シン・ゴジラ」は、アメリカの方では爆死、という評価だったと言うし。その他でそんなに社会的な貢献度のある様な、そんな話はあったろうか?そこは謎ではある。

国の方での、何かの必要性に迫られて、というか、そう言う話、だろうか。

ともかくしかし、先日までの「扉絵イラスト転」も、帰結かで「公明党の候補者がトップ当選した」と言う結果と共に沈静化、そしてその話、ではある。「大衆は神である」その主観として何でか、世界?は、彼を支援する、という方向へ流れている、というべきか。或いは「創作を娯楽として楽しんでいた層」そう言うのの、何かの認証?それを、彼に求めた、そう言うのはあるのだろうか。

まあ確かに、「就職氷河期世代」それと、エヴァンゲリオンそれは、かなりシンクロ率の高い、そんな何かではあったのだけど。

何というか自分も、近年では何でか、衝動の様なモノとして、彼の創作?に手を出してる場合が、結構あって。亡くなった増尾昭一氏の、何かの執着みたいな物、だろうか。ともかく結果的に言えば「大衆は神である」それもまた、実は「新世紀エヴァンゲリオン」そこから掘り出された理解、ではあって。「なんでこの作品はヒットしたのか?」答えはシンプルだ、「人々が求めたから」そこに、それ以上の理由は無い。売れるか売れないか、それは誰が何が決めているのか?ヒットしたのは何故か?そう言う意味で、今の”それ”の想起に対してこの存在は無視出来ない、そう言うのは、実際はあるのだろうか。

全く持って、「結果オーライ」に全て依存する、そんな作品ではあったのだけど。

”今”の理解では、まず何処からか「黄昏の狩人」が、彼らの元に届いた。”それ”を主に、増尾昭一氏が「使う」感じで、エヴァンゲリオン、それが誕生する。この時の「黄昏の狩人」は、結論で言えば失敗を抱えていた、だから、だろうか?彼らのその際の、結果的かの方法論、「土台を破壊して乗っ取る」それに対しても、その作者は何の否定もしなかった、訳だ。元々オープンワールド的に考えていた作品である、世界観をちょっとパクってる位で、何が問題だったろう?

時代と言うか状況でもある、「インターネット」それもまた、同時に普及が始まっていた。「問題ない」それを、この作品は結論で言えば通してしまった、という事だろうか?それは、土台は誰かの作品だが、結論で言えば盗品だが、しかし結果オーライである、インターネットは公共物であり誰のモノでも無いだろう?なら、誰が創っても問題は無い筈だ、この場は利益を期待してある場では無い。あくまでも、人々の意識、そう言うのが集う場所として。

エヴァンゲリオンもまた、世代にとっては「そう言う場所」に成っていた、のかも。

もちろん、その経緯に感じる「え?」と言う部分は、その後に、少し面倒を創っていく事には成るのだけど。

現状では、この辺に問題はほぼ無くなっている…それだけに、この結果の意味とは?それは少し考えたりはする。


何が、認められたのだろう。

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