
秋になりましたね。食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋、読書の秋といろいろな呼ばれ方をする「秋」です。
秋になったからとくに読書量が増えるというわけではないのですが、少し長めの本を読んだので、備忘録として書き留めておきたいと思います。
読んだ本は、桐野夏生の「ナニカアル」というちょっと変わったタイトルの本です。
「放浪記」や「浮雲」で有名な作家、林芙美子が戦争中に軍の嘱託としてインドネシアに出向き、その旅でのさまざまな出来事、戦時下の不穏な情勢や愛人だった新聞記者との逢瀬などを書き残した回想記が40年後に発見されるというところからスタートする小説です。フィクションなのですが、林芙美子という実在の小説家、またその親族がそのまま描かれていますし、当時の文壇のお歴々もいろいろ登場するので、読む方は完全なフィクションとは思えなくなり、実際にあったことなのかしらとちょっと微妙な感じを受けてしまいました。
桐野夏生の熱心な読者ではない私ですが、「OUT」「グロテスク」などいくつかの評判になった彼女の本は読んでいます。「グロテスク」は東電OL殺人事件を題材にした作品ですし、虚実被膜を穿つ力のある作家なのでしょうね。
林芙美子という強くしたたかでもある女性の行動力に圧倒されもするのですが、2015年の秋という今この時期にこの本を読むと、戦時下での言論統制や諜報活動の疑いをかけられることへの恐怖心、軍や憲兵という圧倒的な国家権力に対した一個人の脆弱さが肌に突き刺さってきます。たぶんこの本の読み方としてはずれているのでしょうが、マスコミを統制していく国家の力、紙の供給や検閲などの圧力に抗する難しさ、いつどこでも誰かに監視されているような不気味さなどに、メインで描かれている男女の愛憎模様よりも強い印象を受けてしまいました。
「ナニカアル」というタイトルはどういう意味なのか、小説のなかでは芙美子の詩の一節に「なにかある」という言葉が出てきますが、読んでいてはっきりとは分かりませんでした。終盤で赤子を抱いた芙美子が道行く人々から注がれているように感じた視線「未来ナド、ナイヨ」への反語として使われたのかもしれません。戦局が厳しくなり東京を離れて疎開先を探さねばならない時に、いろいろな事情のある赤子を抱き、その子の父親ではない夫の待つ家へ帰る道筋での描写です。
どんなに厳しい状況下でも「未来ナド、ナイヨ」ではなく、「ナニカアル」「なにかある」とがむしゃらに突き進んで生きてきた芙美子の生き方そのものを表現しているのかもしれません。また、「ナニカアル」と駆り立てられるように生きて、書いて、愛して、47歳で急死した林芙美子の表現者としての「さが」を指しているのかもしれません。導入部ではなかなか本の中に入り込めず手こずっていましたが、読み進むうちに早くページをめくりたくなるようなミステリアスな魅力を持つ小説でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます