大相撲の八百長問題 ですが …、
「何を、いまさら」 という意味合いでは、東京都知事の
石原慎太郎氏と同じ心境です。
せっかく、イソップが 『ウサギとカメ』 の話のなかで
「世の中は見事な嘘で成り立っている」
だから、
「真実を見抜く目と耳を持ちなさい」 と
ばかりに、八百長社会のカラクリを ウサギ と カメ の
関係性をモチーフにして語ってくれたというのに …、
世間では ウサギ の油断を諫(いさ)める話であるとか、
弛(たゆ)まぬ カメ の努力の結果が身を結ぶ話、つまり、
<継続は力なり>であるとか、いかにも優等生的
な解釈ばかりがまかり通ってしまいました。
このことについては 『ウサギとカメの物語 <1>~<7>』 を
参考にしてください。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/195.html(参照)
そんなイソップにいたっては、ウサギ と カメ の
熱演も空しいかぎりで、引喩失義 の憂き目を嘆いて
いるだろうことは三国志の諸葛孔明とて同様でしょう。
… というような言い回しの方法も、女性の化粧と同じで、
見方を変えれば広義での八百長 の一種なのです。
詭弁も、女性も、関取も、化粧とまわしは欠かせません。
煙に巻くような言い回しも、メイクアップも、化粧まわしも
大袈裟なほど効果的なのですから …。
まぁ、それはともかくも、
八百長とは本来、勝負事に限っての隠喩ですが、インチキ
、ごまかしという点では 羊頭狗肉 などと同義でしょう。
その意味からは、政治 も見事に八百長 なのです。
『アリとセミの物語』 のスタートとなる <1> のなか
で、 ~ までの8通りの推理をした海上保安庁の巡視船
と中国漁船との衝突の瞬間を撮影したビデオ映像の投稿名
(ハンドルネーム)<sengoku 38> の謎について …
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/218.html(参照)
前回の <9> で、5号 が、 ~ とあらたに2つの
可能性を示唆していたので、ついでに、その 番目として
<sengoku>を並べ替えてみると<gokusen>
となります。
<gokusen 38> 『ごくせん』 の第38話を
見ると、冒頭でヤンクミが …
「全部、人任せ 自分の力で何も
してないじゃないか」 と叫んでいます。
これが犯人である元海上保安官の日本の防衛に対する
メッセージではないのかと ツイッター にあったので
ここでは、 番目の解釈として紹介しておきます。
http://twitter.com/usamarus2001/status/822835056480258(参照)
ところで、
この言葉は 『アリとセミ(キリギリス)』 のラストシーン
で、いみじくも最後に アリがセミ(キリギリス)に向かって
叫びたかった言葉でもあるのです。
つまり、イソップは、
<何でも人任せにして、自分では何もしない> 時代が
来ることを予知していたのです。
<他人任せで、自分では何もしない>
時代 とは、老子の云う 《機心》 (機械に依存して
機械の虜となり人間本来に備わっていたさまざまな力を失う
ことになる機械依存症)に犯される時代、つまり、百害あって
一利しかないような現代社会をさしているのです。
荘子の天地篇(第十二)に反機械論的な話があります。
子貢が旅の途中に畑仕事をするひとりの老人と出会った。
手仕事で、いかにも能率が悪そうなのを見かねた子貢は
「ハネツルベを使わないのですか ハネツルベを使えば、
流れるように水が汲めて、一日に百畝(うね)は水を撒くこと
ができますよ」 と言った。
「わしは師匠から、『 機械を使う者は、必ず機事がある。
機事がある者は、必ず機心がある。 機心が胸中に存在
すると純白な心がなくなり、精神の本性が定まらなくなる 』
と習った。 だから、わしはハネツルベを知らないわけでは
ないが、使わないのだ」 と答えたとあります。
便利な機械を持っている者は、機械を利用する手段として
多種多様な仕事を生み出すことにより、さらに機械に頼る心
が増幅されてしまいます。
機械に頼り依存するようになると自然なままの心のうちが
乱れ純白さが失われてくる 自ら為すべき、あたりまえの
行動やチャレンジする精神あるいは自然とのふれあいから
生まれる心の安息といったものを失ってしまうのです。
あえて、便利さを捨て去ることも、時には必要なのかも
しれませんね。
この件(くだり)については、『便利すぎる不便さ(1)』 の
続篇としての (2) で、いずれ詳しく書こうかと思いますので
きょうは先に進みます。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/192.html(参照)
<夏に歌っていたなら、冬には踊ればいい> という
アリ たちの言葉も同様です。
セミ(キリギリス)は、夏のあいだ、怠けていたのではなく
エンターテイナー としてのショービジネス を
行なっていたと解釈すべき言葉なのです。
「僕らは怠けていたんじゃない。仕事で歌っていたんだ」
という セミ(キリギリス)の声が聞こえませんか
なにせ 「働かざる者、食うべからず」 の世界
なのですから …
でも、ちょっと待ってください。
<他人任せで、自分では何もしない>
ことと、「働かざる者、食うべからず」 とは、
矛盾しませんか
夏のあいだに、アリのように働いて冬の準備をしなかった
からこそ セミ(キリギリス)は飢えて死んだのでしょう
と、ツッコミ を入れたいアナタ !! 貴方ですよ
よぉ~く、考えてみてください。
アリの勤勉さは常に肯定されるべきものなのか
夏に歌い冬に踊る生き方は否定されるものなのか
セミ(キリギリス)が冬を生きることは不可能なのか
<1>~<9>までに、2号 が提示した3つの疑問は、
絶対的な意味からも、常に肯定されるものではない
否定されるべき生き方であるとは断言できない
セミは論外だが、キリギリスにおいては可能である
… という結論に達しています。
、 に関して言えば、
現代の日本人のように働きすぎて過労死しては、勤勉の
意味がありませんし、セミ やキリギリスに喩えられる
ショービジネスの世界は活況を呈していて、お隣の韓国から
の Kポップ は全盛の極みですよね。
に関しては、秋を待たずに死に絶えてしまったはずの
セミ が、なぜ冬まで生き延びていて、わざわざ アリ の
ところに物乞いにやって来たのか という物語のなかの
最大の<謎>が残っているのですが …
そのことについては、
医学の進歩によって昔なら助からなかった命が救われる
ことで、寿命が格段に延びるようになった現代社会の姿 と
その反面にある厳しい競争社会から脱落した落伍者しての
ホームレス の存在などを、同時並行的に表現する
ための ストーリー として、夏の盛りに寿命をむかえる
セミ が秋を過ぎて、さらには、冬の真っ只中になってから
アリ の巣に物乞いに訪ねるというプロット(筋書き)が
採用 されたのだと思われるのです。
物語をそのまま素直に見れば、冬の季節も心豊かに安心
して生きられるための社会保障制度の必要性を
説いている話であると言えなくもありませんが …。
そうであれば、アリ の慈善に頼らずに済んだでしょうし、
セミ(キリギリス)らしく平穏に暮らせたのでしょうにね。
つまり、イソップが アリ と セミ(キリギリス)に託した
予言が見事に現代に成就 したと言えなくもないのです。
次回は、『アリとセミ(キリギリス)の物語』 の
一応の 完結篇 を予定しています。
ところで、
大相撲の 八百長事件 も、十両以上の関取である
セミ(キリギリス)たちの寿命を必死に延ばそうと画策した
茶番劇のようなものです。
イソップならば、この 失態劇 を果たして …
どう 書く かい(角界) なんちゃって
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