透明人間たちのひとりごと

時空のレゾンデートル

 流通革命の旗手として華々しいかぎりの隆盛と栄華を
誇っていたダイエーが小売り大手のイオン・グループの
傘下となった時にも少なからざる衝撃を覚えたものでした
が、約半世紀にわたって親しまれてきたダイエーの看板
そのものまでもがイオンの完全子会社化によって姿を消す
ことになるとはショックでもあり、『いろは歌』や『平家物語』
でいう「諸行無常」をあらためて痛感する思いです。

 いろはにほへど ちりぬるを right 諸行無常
 わがよたれぞ つねならむ right 是生滅法

 あるいは、

 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり
 娑羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす


 まあ、これも致し方のない有為転変のさまなれど、

 “諸行”とは、一切のつくられたもの“万物”であり、
 “無常”とは、常ならない状態 “流転”ですので …

 せめて、未来に向かうための

 「万物流転」であって、夢のある「生成発展」
あると前向きに解釈したいと考えます。

 過去の栄光を知る者にとっては寂しいかぎりなのですが、

 お釈迦さまの言葉を借りるまでもなく、この世界は無常
で、常ならぬ世界、変化する世界であり、「幻の世界」
であるとも言えるわけです。

 形ある物は、みな消え去って無くなってしまうからです。

 「色」「物質」は、時とともに「褪せ」てしまいます。

 色褪せ、朽ち果てるのが、エントロピーの法則
ですから、

 「花の色は移りにけりないたずらに …」
とばかりに、小野小町のたぐい稀なるうつくしさ
いつしか「色は匂えど散りぬるを」なのですase


 … であるならば、

 「色」=「物質」は、“実在”するものではないの
かもしれません。

 “実在”とは、永遠に無くならないものの存在、言わば
「不変の実体」=”本質”であって、時が来れば
消えてなくなってしまうものや変化するものは、“実在”
とはいえませんnose7

 一時期、存在していただけで、実際に在るものではない
からです。

 いっとき、ある形を取っていただけのかげろうや蜃気楼の
ような仮の存在物でしかないのです。


 それらの森羅万象のすべてを包含した仏教語に有名な

 「色即是空 空即是色」があります。

 一見すると、意味不明の難解な言葉のようですが …

 たとえば、

 どんな物にも色が着いているので見ることができます。

 でも、空気や風は色がないので見えません

 そこでお釈迦さまは、見える物体を「色(しき)と呼び、
見えないものを「空(くう)と呼んだのです。

 しかし、

 それらは同じもの right 色は即(すなわ)ち是れ空であり、
空は即(すなわ)ち是れ色だったのです。

 なんとなれば、見える物体は見えないものでできていた
からです

 形ある見える物体の裏には、それを形作る“本質”
必ずあります。

 その見えない“本質”を科学者や現代人は“原子”
と呼び、お釈迦さまは「空(くう)と呼んだのです。

 “原子”は見えませんが、その見えない“本質”
ある“原子”=「空」が見える“物質”=「色」
を生み出しているのです。

 2つ以上の“原子”が化学結合して“分子”となり、
さまざまな物質に変化(化身)するのです。

 「空」がいろいろな「色」化身(変化)した形態
のひとつが人間です。

 だから、

 人間万物万象「空」であり「色」なのです。

 このことは、突き詰めれば、「あなたは私」であり、
「私はあなた」であるばかりか、「万物万象」
「私であり、あなた」であるということです

 つまり、

 “本質”は、この宇宙にひとつあるだけなのです。


 5号の記事、『裏切り者の代名詞』での
 「一即多(いっしょくた) 多即一」

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/375.html(参照)

 「色即是空 空即是色」
とは、そういう意味だと私は理解しています 


 ところで、

 「宇宙」という言葉が初めて登場するのは、中国は漢
の時代に書かれた『准南子』という書物で、そこには
「宇」とは空間であり、「宙」とは時間であると説明
されています。

 「宇宙」とは、時間と空間=「時空」のすべて
をいうわけですねpeace

 アインシュタイン博士以来、今日の物理学では連続する
時間と空間をひとつのもの right 「時空」として扱うように
なりました。

 一般的に私たちが「宇宙」と呼ぶものは、「時空」
および時空間にある地球や太陽や他の星々や銀河、星団
など、存在するすべてのものを含んだ、唯ひとつの大きな
宇宙空間を指します。

 しかし、

 最近の宇宙論では、宇宙はひとつではなく、いくつもある
とするインフレーション宇宙や平行宇宙などの多元宇宙の
議論も活発ですが、私たちの住む地球がある宇宙
について、ここでちょっとした思考実験をしてみましょう。

 さて

 私たち人間や生物がなんらかの原因で絶滅してしまった
後に、この宇宙空間に銀河や太陽や地球などはそのまま
あるとしても、微生物はおろか人間並みの知的生命
まったく存在しない物質だけの世界になったとしましょうか。

 かつて人間がいた宇宙と知的生命が存在しない宇宙の
どちらも「宇宙」であることに相違はありません。

 でも、そのレゾンデートル(存在意義)
格段に違ってきます。

 人間がいる(いた)宇宙では、「宇宙」そのものの存在
の認識がまず最初にあって、それから知的欲求に駆られた
あらゆる探求が開始されます。

 宇宙の姿かたちや星々の誕生から消滅までのプロセスを
探査・探究し、宇宙の起源から未来までを想像を逞しく働か
せて研究します。

 一方、知的生命のいない宇宙では、その宇宙自体を認識
する存在がないので、誰にも認知認識されないままに虚無
なる時間を延々と刻み続けるだけで、その宇宙は存続して
いても実際には「無いに等しい」ものです。

 いかに広大無辺で美しく構成された宇宙であっても、誰に
もその存在や構造が認識されなければ、そのような宇宙は
存在しない宇宙 right あってもないが如きの宇宙なのです。

 「認知」される、あるいは、「認識」するという基準に
照らせば、知的生命のいない宇宙は、たとえ存在していた
としても、「存在しない宇宙」であって、知的生命体
である人間のいる宇宙は、宇宙に対して様々なかかわりを
持つ「存在する宇宙」であるということになります。

 「宇宙」を認識する“存在”の有無の如何によって
 『時空のレゾンデートル』も大きく
 変化・変身するわけです。

 実はいま、こうした人間原理に基づく人間ありきの宇宙論
が科学者間での盛んな議論に花を咲かせているのですが、

 なにぶんにも、議論に咲いた花々の …

 「花の色は移りにけりないたずらに」

 そして、「色は匂えど散りぬるを」

 と、ならなければいいのですがねぇ

コメント一覧

ルート1/2
SONYにしろ、ダイエーにしろ、盛者必衰の理だなぁ。
おいら
http://sin-sei.at.webry.info/
「いろはにほへど・・・」これが、すべての仮名を重複させずに使って作られたものと知った時には、それを作った才能に憧れましたわ。

以後、かな文字のペン習字練習にはこれを使ってまする。
がぶり寄り
確か、社台の生産馬でレゾンデートルって名前の牝馬がいたっけ・・・
ココナン
空虚に存続するだけの虚無な空間も無意味に存在しているとは思えません。
いかに空虚であれ、存在自体を否定する根拠を知的生命体の有無だけに限定するのは危険ではないでしょうか?
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