歴代の内閣が憲法上できないとしてきた集団的自衛権の
行使容認を国民の半数以上の人々が反対の意思にあると
思われるにもかかわらず強引なアクセル操作と言えるほど
のスピード(実質1ヶ月半の議論)で閣議決定 したからです
が、その理由を 「安全保障環境が変わった」
からだと安倍首相は言います。
取りも直さず、それは昨今の近隣諸国の不穏な動きに
対応させるためのアクセル操作で、たとえ拙速
だと言われようとスピードをアップする必要性が
あったとする容認派にボクの思考回路は同調
させられてしまいそうなのですが、

あまりの単純バカさに呆れたような面持ちの2号さんを
尻目に …
「まあ、結論ありきの異論封じであったことは確かだな」
「決められる政治」には熟議の欠如という代償が
つきまとうものだが、なにも「決められない政治」
よりはまだましだと1号さんは言います。
「日本の平和を守るためなら戦争も辞さない」ということが
現実となる可能性がより高まったわけだが、考えてみれば、
至ってあたりまえな話で、いままでが普通ではなかったとも
言える、というのです。
2号さんも妙なたとえ話を持ち出します。
我が家の離れに間借りしている米国人に敵対する人間
が放火して、離れ部屋が燃え上がり火の粉が舞っている。
母屋に対して直接的に火を放たれたわけではないので、
風にのって飛んできた火の粉を振り払う権利はあるけれど
払い落としてはいけないというのがこれまでの解釈だと
その縛りは、「さすがに違うでしょう

する間もなく、さらにつづけて …
付け火を目撃しても、ただ「やめろ」と叫ぶだけで、
それを阻止するための実効性のある具体的な行為や行動
は実力行使

認められないというのです
なんだか、そう言われるとそのような …
いやいや、そんな詭弁に引っかかってはいけない。
なんてったって、1号さんも、2号さんも、時にではなく
往々にして「煙に巻く人」に変身するのですから …
それについては『煙に巻く人たち』を参照のこと。


さて、
閣議の決定文では、世界のパワーバランスの変化と大量
破壊兵器の拡散などを挙げ、日本を取り巻く安全保障環境
が根本的に変わったとして、「どの国も一国のみで平和を
守ることはできない」と強調しました。
自衛隊発足以来60年間維持していた封印を解いて、日本
が攻撃を受けていなくても一定の要件を満たせば自衛隊が
他国に武力行使ができるようになるのです。
安倍首相は、
「万全の備えをすることが日本に戦争を仕掛けようとする
企みを挫(くじ)く大きな力を持っている」 と語りましたが、
これをもって、いつでも自衛隊が戦力を行使できる状態に
なったわけではありません。
これから国会でその裏付けとなる自衛隊法などの法律が
改正されなければ自衛隊は一歩たりとも動けません

今後、国会での関係法の改正審議のなかで徹底的なる
議論が尽くされることを切に期待しますが、
果たして、この憲法解釈の変更によって、望まぬ戦争に
巻き込まれることになるのか 抑止力となることで攻撃が
回避されるのか それは、神のみぞ知ることなのです。
… ですが、今回の「集団的自衛権」の解釈変更
の目的は、米国の軍事力を補強して中国に対する抑止力
を高め、防衛能力をより強化することにある という点では、
1号さんも、2号さんも、同じ見解にあるようで、ボク
の脳みそがその意見に洗脳されて、思考回路が
同調しそうなことは冒頭のとおりなのですが …

ところで、
「善悪」でいえば、平和が「善」で、戦争は「悪」で
あると考えるのが一般的でしょうが、「幸・不幸」となる
と必ずしもそうだとは言い切れません。
平和だから幸せか、というと決してそういう人ばかりでは
ありませんし、戦争中だからといって不幸のどん底にある
とも言えないわけです。
一般的にはアフリカその他の貧困国に生まれたならば、
それだけで不幸 を一身に背負っているように思われる
かもしれませんが、その分、彼らは絶望には頓(とん)と
疎(うと)く、希望には誰より貪欲であると思われます。
翻って、日本を見渡せば、
彼らとはまったく別のかたちの得体の知れぬ「不幸」
なるもののけが蔓延(はびこ)っていて、希望からは
頓(とみ)に遠のき、絶望を招来するかのように自分で
自分を不幸にしてしまう人たちが年を追うごとに増えてきて
いるように思えてならないのです
「幸せになりたい」と強く乞い願いながら、もがけば
もがくほどに幸せから遠ざかってしまう。
不要な情報の氾濫で、ステレオタイプの幸福が伝播
され、マニュアル的な幸福の理想型がイメージされる
ことで、あたかもそれが幸せの完成型だと勘違いして
しまうのではないでしょうか
トルストイは、『アンナ・カレーニナ』 のなかで
「幸せな家庭はどれもみな同じように見えるが、
不幸な家庭にはそれぞれの不幸のかたちがある」
… と書きましたが、実際には幸せのかたちも人によって
それぞれに違った姿かたちをしていると思うのです。
むしろ、「幸福」な家庭こそが、さまざまでバラエティに
富んだかたちをしているのに対して「不幸」な家庭には
驚くほどに一様にパターン化されたもののけなる怪物
が潜んでいるのが現代の日本社会なのだと思われます。
経済成長を最優先し、物質的な豊かさに踊った果てに、
安心や安全を置き去りにして人間的な結びつきさえも国民
から奪ってしまうような強力なる「不幸発生装置」を
装備する国、それがG7やらG8などと称する日本などを
含めた先進国が抱える忌わしい病理なのです
一律に貧しければ、誰も他者と比較などしませんし、他者
の評価などに耳を貸すこともありません。
自らを自らの基準で評価し努力するだけだからです。
現時点での幸福に固執せずに未来にむかってしなやかに
生きることをすすんで選択するのです。
現代を「希望なき時代」 だとして切り捨てることは
簡単ですが、それでは「不幸」の所以(ゆえん)を知る
手助けにはなりません。
かつての昭和30年代は未来を希望的に信じて描き
だすことができた時代で、今とは「幸福」のありようが
根本的に違うと識者たちは口を揃えて論じますが、本当に
そうなのでしょうか
要するに、
すべては心の問題で「幸せ」も「不幸」もひとつ
のパターンに画一化されるような概念ではなく実感
としてどのように感じているかに尽きるでしょう。
少なくとも、健康なる肉体を有して、有り余るほどの
財産に囲まれ、押し寄せる波のような絶え間のない愛
の攻勢を一身に受けていたとしても、そこに心身からの
平安が満たされ、且つ、保持されていなければ、それは
不幸な境遇にあるとも言えるわけで、たとえ貧乏で
あっても、大きな愛を失っていても、健康が保障
されていなくとも、決して不幸だとは言い切れないことも
また一方の事実としてあるのです。
ありていに言ってしまえば、不幸にまつわる要素として、
「お金」「愛」「健康」のいずれかひとつでも欠ける
だけで大概の人間は自分を不幸だと思い込むものです。
そのなかでも、特に「お金」は必要十分条件であった
昔と比較して、現代では多くの人々にとって 絶対的な
条件となっているという現実が大問題なのです。
そうした生き方や考えが幸福を阻み、自らを不幸に
導いているということに早く気づくべきなのですが、時代は
ますますその傾向へと拍車がかかっているのです
少し前のページに『スエロ氏とディオゲネス』
という2号さんのエントリーがありましたが …

「お金」に関してだけで言えば、彼の生き方は一考に
値する価値があると言えます
しかし、
それは誰にでもできるという生き方とは程遠い次元の …
言わば修験者のそれ(苦行)とも思えるような生活ですが
、そこに「幸福」を見い出すことはさほどの苦労も困難も
伴なわないものなのかもしれません。
そこには、ある種のコミュニティーとしての一体感と何より
も「心の自由」が保障されていることが、彼(スエロ)に
とって一番大きなファクターだと思われるからです。
要は、
「幸福」も、「不幸」も、そのかたちは一様ではなく、
その大部分は心のありようで決定されるということです。
つまり、強力にして巨大な「不幸」を発生させ、さらに
増幅させる装置が装備されていようとも心のありよう次第で
は、いかにようにでも「幸福増幅発生装置」に
変換させることが可能だということなのです。
言い換えれば、ありきたりの民意や普通の発想に沿って
いたら歴史を変えるような重大な決定など出来はしないと
いうことでもあるのです。
げげっ、それって、集団的自衛権の行使容認の話。
いやはや、なんとも、思い切った 起・承・転・結 の
転 なのか、結 なのか
なにせ、
「幸・不幸増幅発生装置」
の主たるエネルギー源のひとつは「情熱」という熱量で
算出されるもので、有名な【E=MC^2】の方程式で
あらわされます。
M=(質量)にあたるものは、残念ながら今のところ
「お金」以外には考えられませんが、
C^2=(光速の二乗)は、「希望の光」の
速度=(信念

「幸」と出るか、「不幸」と出るかは、
神のみぞ知る未来(数式)の出来事(演算)です
「神はサイコロを振らない

アインシュタイン博士 は言っておりますが、
吉と出るか、凶と出るか、ではなく、幸福でもあるし、また
不幸でもあるという渾然一体に重なり合った状態から、蓋
(ふた)が開けられた

が可決された瞬間に幸・不幸のどちらかが決定される …
そんな「シュレーディンガーの猫」と同じ
状態なのが、「幸・不幸増幅発生装置」
と化した日本国 なのかもしれません。
果たして、
どうなるものやら …
