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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 疑似餌

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 疑似餌(改)』です。

 (以下、本文)

 

 エマオにおけるイエスと二人の弟子たちとの
食事の風景を描いたヤコポ・バッサーノによる
『エマオの晩餐』には二種類あります。


  『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画


  『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画

 ほとんど同じようなポーズで、似た色合いの
身なりをしたⒶとⒷの二枚ですが、

    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫

 何か気づきませんか

   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 そうです。

 犬と猫、そして、テーブルの上の品々などが

  
    『エマオの晩餐』Ⓑ テーブル

 彼の『最後の晩餐』でのテーブル上の
小道具(アイテム)類と

  

 配置や皿の中身などを別にすれば、これも
またそっくりと言えるほどに似ているのです。


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 食事の場面だから、そりゃあ似るのも当然と
思われるかもしれませんが、13人分の晩餐と
3人分の食卓とが ・・・、ですよ

 それに、

 『エマオの晩餐』Ⓐを反転させると

    
     『エマオの晩餐』Ⓐ 反転

 『最後の晩餐』での画面の右側を
思わせるような位置に寝そべっている犬と
のぞき込む猫のコラボが見られますが、

    

 その犬と猫が『エマオの晩餐』
では、二人の弟子とは逆に(Ⓐでは給仕の
側に猫、Ⓑでは給仕の側に犬が)配置され、


       『エマオの晩餐』Ⓐ

       『エマオの晩餐』Ⓑ

 犬は猫にも見えるような子犬に変身して、
寝そべっている姿からお座りのポーズへと

   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 変わっているわけです。

 そもそも



 この絵画シチュエーションは、



 と、言うと ・・・

  
    クレオパに語り掛けるイエス

 イエス・キリストの弟子がエマオ(地名)の
近くを二人して歩いていると復活したイエス
が弟子のひとりであるクレオパに近づいて、
何事か語り掛けます。

 
   エマオに向かうイエスと弟子たち

 弟子たちはそれがイエスとは気づかずに、
その晩の食事に招待します。

  
       『エマオの晩餐』Ⓐ

 食卓でパンを分け、祝福をする姿を見て
目が開けて、それがイエス・キリストである
ことに気づくという『ルカの福音書』
24章13-32節にある場面を描いたもので、

  
       『エマオの晩餐』Ⓑ

 同じテーマのほぼ同じ構図の二枚の絵を
彼は微妙に描き違えて用意したわけです。

 では、どこをどのように違えて描いたのか、
もう少し詳しく見ていきましょう。

 まずはイエス・キリストからですが、

    
     『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部

 左手をパンに添えて 右手で祝福している
のは同じですが、顔の向きと杖が左右で逆
なのと衣装の配色が違っています。

     
     『エマオの晩餐』Ⓑ イエス

 そして、もうひとつはⒷのイエスには後光
と光輪があるのに対してⒶのイエスは後光
だけで光輪が描かれていません。


       『エマオの晩餐』Ⓐ

 比べて見ても、そのどちらのイエスも高貴
で神々しい容姿に描かれているのは後光や
光輪の所為ばかりではないようですが ・・・

 一方で『最後の晩餐』でのイエスは
どうでしょうか

   
      『最後の晩餐』中央部

 後光らしきものが描かれていて、光輪が
ないという点ではⒶと同じですが、どこか
軽薄でチャラい感じの人物に見えてしまう
のはどうしたことでしょう

 これはイメージの違いや感覚的な偏見の
為せる業(誤認知)なのでしょうか。

 それとも、ヤコポ・バッサーノの絵筆
誤りなのでしょうか

    
     『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部

 この場合の衣装は、Ⓑのイメージに近く、
Ⓑのイエスの姿はレオナルド・ダ・ヴィンチ
『最後の晩餐』でのイエスに似て
いる気がします。

 

 しかして、Ⓐのイエスの雰囲気や容貌は
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
でのイエスに近いようですが ・・・

  


 次に弟子たちを見てみましょう

 クレオパがどちらかは特定できませんが、


       『エマオの晩餐』Ⓐ

       『エマオの晩餐』Ⓑ

 左右二人の弟子のポーズはⒶⒷともに
ほとんど同じで、違いと言えば画面左側の
弟子の衣の色と右側の弟子の小首の傾げ
方と左手を置く手首の位置くらいのもので、

    

 あとは酷似していると言えるでしょう。

 そして、

 このイエスと二人の弟子による正三角形
の構図を底辺の長い二等辺三角形の構図
に変えてギュギューと引き伸ばしたのが、


   『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 復活前の磔刑前夜でのイエスと弟子たち
の様子を、息遣いからニオイまでが身近に
感じられるほどに生き生きと表象した絵画、

 そうです。 それが、

 ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
ではなかったか、と考えているわけです。

 いやいや、時間的には逆ですよね。

 底辺の長い二等辺三角形を正三角形に
凝縮して、裏切り者であるユダ正体
を知らせようとしてしたのかもしれません。

 なぜなら、   

 大変に気になることのひとつとしてⒷに
おける左の弟子の光輪の有無です。


      『エマオの晩餐』Ⓑ

 はっきりとは確認できませんが、どうやら
無いようにも思えるのですが ・・・ 

 もし、それが事実であるとすると、

 『ダ・ヴインチの罠 醍醐味』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/522.html

 での「ユダは何処にいるか」
の答えにも、

 『ダ・ヴインチの罠 無礼講』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/523.html

 での結論的な説明内容にも変更の必要
が生まれるのかもしれませんが、

 それは他の要素を十分に検討して
からのことにいたしましょう。

 さて

 犬と猫も奇妙ですよね。

 前述したように、ⒶとⒷでは二人の弟子
に対する犬と猫の位置が逆転します。

 しかも、

 Ⓑの犬は、猫かな と見紛(みまが)おう
ばかりに曖昧で寝そべった格好から座った
姿に変わっています。

   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 鼻筋に沿ってタテに流れる白い毛色は猫、
耳も鼻も猫の仕様ですが、長いヒゲはなく、
体つきや目の感じ、毛並みの色などは犬の
仕様で全体的には子犬を思わせています。

 ところで、

 最大の違いは皿に乗った品物ですよね。

 Ⓐは魚料理、多分ウナギだと思われます。

 これは後々触れることになると思いますが
、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
料理と同じです。

 Ⓑは鳥類(七面鳥など)の卵でしょう。

  
    『エマオの晩餐』Ⓑ 皿の中身

 そして、おそらくは、

 その親鳥ではないかと思われるのが大皿
に乗って運ばれてきた丸焼きの正体です。 


   『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理

 以上、急ぎ見てきたように、

 これらの類似点や相違点にはそれ相応の
意味があって、そのように描かれているのだ
と思われますが、

 こうした疑惑のオンパレード状態の意図は、
明らかにヤコポ・バッサーノの「疑似餌」
ならぬ「疑似絵」とも言えるものであって、
あらぬ方向への真意を隠すための誘導
煙幕目的にしているのだと感じます。

 詰まるところ「正解」はないのではなく、
ヤコポ・バッサーノにとってのユダが確実
に存在するのと同様に、

    
     出典:www.lets-bible.com

 ダ・ヴィンチの「罠」と同種の意思
そこに働いていたということです。

          

 前回の記事では、ビートルズの名曲
『Hey Jude(ヘイ ジュード)の歌詞を



 Hey Jude, don't make it bad
   (なあ、ユダよ、 悪く考えるな)
 Take a sad song
       and make it better

   (悲惨な未来を、マシにしようぜ)

 と歌(song)を未来に、彼女(her)をイエスに
見立てた意訳を紹介しましたが、

    

 ヤコポ・バッサーノもダ・ヴィンチと類似する
シンパシーをユダに対して抱いていたとか、

 あるいは好意的でなくとも悪意のある感情
は持ち合わせていなかったと思われます。

 ダ・ヴィンチはイエスメシアとしての
存在を世に知らしめるためにユダという名
のひとりの優秀な弟子を見込んで悪役
仕立て上げ、裏切者汚名せて、
生贄(犠牲)として捧げたと考えましたが、

     


 詳しくは、

 『裏切り者ユダの福音書』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/378.html
 『ダ・ヴインチの罠 裏切者』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/411.html

 などを参照してみてください。

 ヤコポ・バッサーノも同様に何らかの共感
ユダに覚えていたことは裏切りを強調
非難をするようなをしていないこと
からもわかりますが、


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 結論から先に言えば ヤコポ・バッサーノの
『最後の晩餐』における主役
は、大皿の上の小羊とその
添えられている片方手首なのです。

     

 もう何が言いたいのか、わかりますよね。

 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
トマス(大ヤコブ)のを示す
とも密接関連するもの ・・・

    
   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

  【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 


 レオナルド・ダ・ヴィンチもヤコポ・バッサーノ
も、それをヘロデ・アンティパスによって斬首
された洗礼者聖ヨハネの首と見なしたわけで、


  『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』
   ベルナルディーノ・ルイーニ画

 そのメタファとなるのが、大皿に盛られた
子羊と片方の手首、そしてから
上だけの登場となったトマス(大ヤコブ)
象徴されるなのです。

       

 次回では



 その辺りの証左と謎解きを兼ねて二種類の
『エマオの晩餐』を見比べながらその
深層真相に迫ってみたいと思います。

 「わしらも首だけじゃが」

  

 「疑似絵なのかの

 いろんな意味で「疑似餌」でしょうが・・・

     
      (しょうもな ・・・)

 アンタも首だけだよ !!



    「ほんまや !!


 『音楽家の肖像』『ウィトルウィウス的人体図』『自画像』

 「あなたがたのうちの一人
   わたしを裏切るでしょう」


   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 … to be continue !!

コメント一覧

酔いどれ天使
いや、それは観念的であって、むしろ、世の中すべてが陰謀だらけだと言えると思うな。

特に外交なんて陰謀以外のなにものでもないよ!
むらさき納言
陰謀は自覚と発覚があって、はじめて陰謀たり得る事象です。
ですから、当事者を含めて、誰も知らなければ、そこに陰謀は存在しません。

私が考える『ダ・ヴィンチの罠』とは、きっと未遂でも未完でもない未知なるもので、人によって変幻するようなものだと思われるのです。

うまく言えませんが陰謀論とは違います。
ゴスペル999
そりゃあ、陰謀論でんな! むらさきはん。

ネットや巷のフェイクに踊らされちゃ、あきまへんで!
むらさき納言
せっかく内緒にしていたのに、ケイシさん、バラしちゃいましたね! 聖アンナの謎の指の秘密を・・・

それに、ココナンくんの言う『謎の指』のページでのコメントで「お手並み拝見」などと生意気なことを言っちゃって、赤面ものですね!

私が考えるダ・ヴィンチの計画は、未だ完遂されずに燻ぶっている状態ですが、徐々にその方向に向かっているのかも・・・

昨今の世界情勢を見るとそんな風にも思えます。

ココナン
ケイシさん、ビンゴかもしれませんよ!

そうだ! と思って過去記事を漁ってみたら、
3年位前の『ダ・ヴィンチの罠』の初期の記事のページの最後に、聖母マリアが「良い子ね、ヒツジさんをイジメちゃダメよ!」ってイエスに言ってるフレーズがありました。

しかも、その記事のタイトルが「謎の指」だったので驚いていると、なんとなんと、そこのコメント欄で僕が小羊について意味深発言していたことがわかって、二度ビックリです。

記事の内容も今だから「そうか!」って思える文面ばかりで、

ダ・ヴィンチの計画って、何だったんだろう?

参考までにURLを貼っておきます。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/402.html
江戸川ケイシ
『告発者』にある「虚構に彩られたイエスと聖母マリアの大罪を糾弾するものではなかろうかと?」

これもまた、むらさき納言さんの言う伏線や布石の一種と考えると理解できると思いますよ。

あの天をさす指の意味が・・・

「私のルール」の部分を「天のルールとか定め」とした方がわかりやすかったかもね!

おばあちゃんが娘に諭し、娘が息子に子羊をイジメちゃだめって言ってる。

そんな場面を連想すれば、謎の指が全部つながることになるよね!

おそらく、2号さんが興味を示したってことは、当たらずとも遠からずなのだと思いますが、
どうですかね。 ココナンさん!?
ココナン
3人が似てるというポヨヨンさんのつぶやきとむらさき納言さんの青、壮、老から、この3人がすべてダヴィンチだとしても、ダヴィンチが聖ヨハネを裏切るというのが、よくわからないし、聖アンナの指に止まることがどうして「ルールに従って、言うことを肝に銘じる」ことになるのか?
2号さんも興味があるようなことを言ってますし、、
ケイシさん、どういうことですか?
江戸川ケイシ
ポヨヨンさんの「この指、とまれ」が、ゴスペルさんの言うように『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』の聖アンナだとすると、おばあちゃんの謎の指にとまれってことだから、
「私のルールに従って、私の言うことを肝に銘じなさい」と
娘マリアと孫のイエスに諭したと想定できます。

そうなると、『聖アンナと聖母子』に子羊が登場して、聖ヨハネがいなくなっていることやその謎の左手が杖を持っていることや聖母マリアが優しい眼差しでイエスを見守る(それとなく注意している)ようにも見える状況をうまく説明できる気がしますね。
むらさき納言
『告発者』でのみのるさんの指定通りに検索したティツィアーノの『三世代の寓意』を拝見しました。

右から左に、青、壮、老、の人物を描いていて、それが、犬、ライオン、オオカミとそれぞれ対比させて表現しているわけですが、

一見して洗礼者ヨハネとは無関係だと感じました。

ティツィアーノはヴェネツィアの絵画界での重鎮であり、ヴェネツィアの守護聖人である聖マルコとその象徴でもある翼を持ったライオンならばイメージされるもののフィレンツェの守護聖人である聖ヨハネとの関連性は希薄ですので、結び付かないと思ったわけです。

そこにさらに裏切りの要素が付加されるとなれば、なおさらでしょう。
ゴスペル999
「告発者」のコメントで、みのる氏が言っとった『三世代の寓意』と並びは違うが確かに似とるわ、雰囲気までピッタンコやな。

これを見て、言下に違うと否定するからには、むらさきはんには確固たる根拠があるんやろなあ?

ポヨヨンはんの「この指、止まれ」のおばあちゃんは、ココナン君が首を傾げた聖アンナのことを言っとるわけやな!?
ポヨヨン
「この指とーまれ」は娘と孫とおばあちゃん!
むらさき納言
余計な詮索は良くないって言ってたのは、確かココナンくんじゃなかったっけ!

ミステリアスが売りのポヨヨンさんが、自ら名乗り出ることがないのはわかるけど、名指しされたみのるさんからも応答がないのは解せないですね。

ポヨヨンさんにとっては、このままでも困ることはないでしょうが、みのるさんはそうもいかない。

図星なら仕方ないけど、違うのなら早く否定した方がいいと思います。

それと、あのアレゴリーは、ポヨヨンさんの真似をしてみただけで、深い意味はないのかも・・・

仮に意味があったとしても、この問題(聖ヨハネを裏切る者)とは無関係な気がします。

あえて言えば、ライオンが裏切り者(ここでは理由は明かせませんが)だと思われますがどうでしょう。
ゴスペル999
色々と考えてみたが、よう分からん!

犬、オオカミは群れの動物、ライオンもメスを中心にした群れだが、オスのハーレムと言えなくもない。
ゴリラは完全にハーレムやし・・・

何の寓意か、皆目見当もつかへんわ!

誰か、教えてちょ!!!(何故だか、ここは名古屋弁でっせ)
江戸川ケイシ
「あれ、ゴリーなの?」がアレゴリーだとしても、文脈的には「犬、オオカミ、ライオン、ゴリラ・・・」のあとでの「あれ、ゴリーなの?」だから、あれが、ゴリラに掛かっているとみるのが、自然です。

むらさき納言さんの言うように以前の「モナリザ」での隠し絵に関係があるのでしょうか?

それとも、この三人がそれぞれに音楽家(犬、オオカミ)、数学者(オオカミorライオン)、芸術家(ライオンorゴリラ)いう寓意だとでもいうのでしょうか?

確かに、真ん中のウィトルウィウス的人体図の人物の顔はライオンをイメージした男の素描とも似ていますが、

やはり、アレゴリーというよりは、むらさき納言さんの言う「モナリザ」での隠し絵の動物を言ったものと思われるのですが、どうですか?
ココナン
いつもなら、割とすぐに応対(返事)してくれるのに、この沈黙は・・・

否定しないってことは、やっぱ、そうなんですか!?
ココナン
なんか、みのるさん、ポヨヨンさんみたい。

実は、みのるさんがポヨヨンさんで、サブのストーリー・テラーみたいなことをやっていたとか?
むらさき納言
そんなんじゃなくて、かなり前の記事での『ヨハネの黙示録』に登場するライオンに似たものや人間に似たもののことじゃないのかな?

『モナリザ』に隠されている四つの生き物の話・・・
みのる
そうだよ。

犬、オオカミ、ライオンのアレゴリーだよ♪
江戸川ケイシ
なるほど、それで、「ウィトルウィウス的人体図」の人物が「サスケ」の分身の術だということでつながるわけか!

グッジョブですね、ポヨヨンさん。

ココナンさん、もう一息のところまで来ているかもしれませんね。

みのるさんの「犬、オオカミ、ライオン、ゴリラ・・・」って、このあとの『犬と猫』や『告発者』での展開を考えるとゴリラだけが異質の存在で、のけ者ですよね。

そこに「あれ、ゴリーなの?」ってことは、
つまり、アレゴリー(寓意・寓喩)ということなのでしょうが・・・

意味不明で理解困難です。
ポヨヨン
そうだよ。

ウィトルウィウスはサスケだよ!
ココナン
そうか、みのるさん、そうですよ!

ポヨヨンさんの3人が似てるという言葉を考慮して、むらさき納言さんの言う「東方三博士の礼拝」での青、壮、老の3人のダヴィンチの存在をミックスすると、この音楽家(青年)、数学者(壮年)、芸術家(老年)はすべてダヴィンチだという仮説が成立します。

そこで、「東方三博士の礼拝」のなかで、天に向けて人差し指を立てているのは壮年のダヴィンチともう一人の大ヤコブと想定される人物の2人です。

そして、最後の作品の「洗礼者聖ヨハネ」の指も天を指していますし、「最後の晩餐」のトマスも、

さらに、それがトマスじゃなくて大ヤコブだという点はまだ不明だけど・・・

でも、そうなると、「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」でのアンナの指はなんだろう?

それと、みのるさん。

犬、オオカミ、ライオン、ゴリラ・・・って、
謎かけか何かですか?
みのる
2号さんのコメントから察するに
ポヨヨンちゃんの「首だけトリオの3人も、なんか似てる?」が鋭い線ついてるのかも。
犬、オオカミ、ライオン、ゴリラ・・・あれ、ゴリーなの?
・・・すんません、まだ洗礼者ヨハネとの意味は判ってません。
ココナン
ゴスペルさんはフェイクだとして否定的だし、みんなも、なんとなく無関心ぽいけど、
この記事のラストは、むらさき納言さんのいう伏線とか、布石の一種じゃないのかな?

前のコメントで僕は真ん中の数学者(ウィトルウィウス的人体図の人物)をファイナルアンサーにしましたが、

仮に、数学的に考えて、洗礼者聖ヨハネの絵の人物にイエスを代入するとすると、イエスを裏切るのはユダですので、この3人の中にユダがいることになります。

「告発者」の記事で、仮定としてですが、ユダのモデルがダヴィンチでは?というヤコポ・バッサーノの考え方が示されましたが、その前提で考えると、この中にダヴィンチがいることになり、自画像が答えという結論が導かれます。

結局、音楽家に始まり、数学者、自画像と、それぞれにそれなりの理屈や説明がついてしまい、裏切者である一人を特定することが出来ません、

これって、ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』でのユダ探しに似ていませんか?
ココナン
音楽家が本命だと考えていましたが、「告発者」の記事によると、聖ヨハネを裏切るのがユダに仮託されたダ・ヴィンチであって、さらにダ・ヴィンチ(ユダ)に暗示される裏切者がイエスであるというような仮説ですので、仮にイエスだとした場合には、この三人の中にイエスなる人物がいることになるわけで、あきらかに音楽家と芸術家は違うので消去法で真ん中の数学者ということになりますが、
そうは言っても、真ん中はウィトルウィウスの理論を具現化した人体モデルであって、神に似せて人間を造った聖書の記述から考えれば、神の子として受肉した人間イエスを人体の調和として象徴したものと考えれば、これをイエスとしても100%間違いとは言えないので、真ん中のウィトルウィウス的人体図の人物を裏切者とすることにします。

一応、これがファイナルアンサーです。
江戸川ケイシ
聖ヨハネ賛歌の歌詞の頭文字から変じて、ドレミファソラができました。

ドレミファソラシドは、ハニホヘトイロハ・・・

イロハ歌の7文字目を順に拾うと、ト、カ、ナ、ク、テ、シ、ス(咎なくて死す)となりますが、この咎(罪)なくて死ぬ者を聖ヨハネのことだと解釈すれば、不明不詳さんの詠む和歌風の散文の意味がつながります。

裏切者は音楽家だという趣旨でしょうか?
ゴスペル999
前のコメントで洗礼者聖ヨハネを裏切る者の存在はフェイクだとしたが、最新の『告発者』の記事から推測するに、それがユダに暗示されるダヴィンチだとすると芸術家(自画像)ということになるのか?

いずれにしても、直接的な意味ではなく想像上のそれも仮定の話ではあるが・・・
不明不詳
いろは歌 色は匂えど 洗礼者
ヨハネ賛歌は 咎なくて死す

(詠み人知れず)
江戸川ドイル
ドレミの由来(起源)が「バプテスマのヨハネ賛歌」にあることがわかりました。
さらに、バッハの「マタイ受難曲」における裏切者ユダの扱いを考えると、音楽と聖ヨハネとユダ(裏切者)との関係に一定のつながりが見い出せます。
まだ確信は持てないけど、ココナン君が推す音楽家の線は案外当たってるのかもね!

個人的にはウィトルウィウス的人体図の顔が裏切者に見えて仕方ないんだけど・・・
江戸川ケイシ
フェイクは言い過ぎだと思いますが、暗示めいた意味合いがあるのではないでしょうか?
2号さんはコメントの内容を見て、それを記事に反映させているようにも思われます。
何か引き出したい単語やフレーズがあって、それを待っているような・・・
そんな感じですね。
ゴスペル999
皆な、洗礼者聖ヨハネの首とトマスの指との関連性に加えて、ダヴィンチの自画像など3人のうちの一人が洗礼者聖ヨハネを裏切ったとする2号氏のおまけのような謎に惑わされているようだが、そもそも、ここに謎があるのかどうかは疑わしい。
いま、流行りのフェイクとか印象操作である可能性を否定できないと思うのだが・・・
みのる
ケイシさんの『問題は洗礼者聖ヨハネに対する裏切りの意味合いが何を指しているのか?』というのは同感で、裏切りの意味合いが判らないんですよね。

やはり2号さんの今後の展開待ちです。

ココナン
僕は音楽家にアタリをつけているんですが、みのるさんはどう思われますか?

ケイシさんは家と庭園を相続したんだからサライを裏切者とする根拠はないと言いますが、手稿類や絵画やその他多くのものを譲り受けたのはメルツィです。

同じ弟子で、しかもサライは小さい頃からの同居人です。
それにしては遺産の分配に差がありすぎる気がします。
これでサライは納得したのでしょうか?

遺言によれば「モナリザ」はメルツィが持っていたはずなのですが、一説ではダ・ヴィンチの死後ミラノで結婚したサライが、決闘によって受けた矢傷がもとで客死したのちの遺品の中から「モナリザ」が発見されたとか、その前にフランソワ1世にサライが売り飛ばしたとか、確証のない謎が存在します。

それとルーブルにあるサライの横顔のデッサンは「音楽家の肖像」と目、鼻、口もともそっくりでベレー帽のような帽子まで同じです。

音楽家がサライで、ダ・ヴィンチが聖ヨハネを代弁しているとすれば、
音楽家(サライ)が聖ヨハネ(ダ・ヴィンチ)を裏切ったという仮説が成り立ちませんか?
みのる
ココナンさん、どうもです。

2号さんのおっしゃる『洗礼者聖ヨハネに対する裏切りで、音楽家、数学者、芸術家のなかに裏切り者がいる』という件、まったく解けないものだから静観しているところです~。
ココナン
フランスへはサライも一緒に行ったんだ。
でも、結局はミラノに帰っちゃったわけですね。
その意味ではギリギリ裏切りの範疇に入るのかも、
そう言えば、いつもこういう場合に、ダメだしと言うか、的確に指摘してくれるのが、みのるさんでしたが、光輪の件以来、音沙汰がないようですね。
江戸川ケイシ
ダ・ヴィンチが、1516年にフランソワ1世に招かれてアンボワーズに移り住んだ時には、メルツィとともにサライも同行していますが、1518年に彼はダ・ヴィンチのもとを去って、ミラノに戻っています。
遺言でダ・ヴインチの所有するミラノの庭園(ブドウ園)の半分や家などを相続していますので、少なくともダ・ヴィンチにとってサライは裏切者にはなり得ないでしょう。

フランス行きには、亡命的な側面がないとは言えないので、むらさき納言さんの指摘には一理あるかもしれません。

問題は洗礼者聖ヨハネに対する裏切りの意味合いが何を指しているのか?

そして、それが、天を指すトマスの謎の指などと、どのようにしてつながるのか?

ということでしょうね。
むらさき納言
洗礼者聖ヨハネをダ・ヴィンチが裏切ったのかどうかには自信がもてませんが、ここで言う「あなたがたのうちの一人」が、ダ・ヴィンチの自画像を指していることは確かです。
つまり、晩年になって祖国イタリアを裏切ったという意味です。
遠い異国の地フランスで郷愁の念に駆られ、帰りたくても帰れずに望郷の思いに暮れていたのだと推察すると、どこかダ・ヴィンチが哀れに思えてくるのですが・・・

ココナンんさんの言うジャコモ(サライ)だとすると、顔が似てるという音楽家の肖像が聖ヨハネを裏切ったということでしょうか?
ココナン
そうなのか。

僕はフランスについていかなかったサライをイメージしたんですが、青・壮・老の三人といえば、「マギの礼拝」の三人とも符合するし、王権の象徴である黄金を携えて来た若き賢者メルキオールの視線の先には、木の陰で天を指す謎の人物(壮年のダ・ヴィンチ?)がいるとする2号さんの説(直近では、目論見や変身譚にある画像)とも一致しますが、

むらさき納言さんの言う、ダ・ヴィンチが聖ヨハネを裏切るとか、ダ・ヴィンチの末路とかの意味がイマイチ不明です。
むらさき納言
「東方三博士の礼拝」で、左右の端に立つ老人と若者、そして木の下で天を指さす人物の三人がダ・ヴィンチの影だとすると、この音楽家とウィトルウィウス的人体図の男と自画像がそれらに対応するものなのかも。

この三人が、青、壮、老のダ・ヴィンチを模していると考えれば、ポヨヨンさんの言うように、似ているのは当然で、この中に裏切者がいるということは、ダ・ヴィンチが洗礼者聖ヨハネを裏切るということになりますが、

おそらくそれは、右の自画像のダ・ヴィンチがそれでしょう。

老人になったダ・ヴィンチの末路・・・

過去記事を丹念に読み込むとそういう結論にいきつきます。
ココナン
音楽家の肖像と洗礼者聖ヨハネは確かに似てる気がします。
もっと言えば、その下絵だとされる「人間の姿をした天使」にも、さらにはダ・ヴィンチが描いてサライが模写したと言われる「サライの肖像」とも似ている気が・・・
洗礼者聖ヨハネのモデルはサライとも言われているし、そうなるとサライが裏切り者ということの暗示でしょうか?
江戸川ドイル
MJK(マジか)。 恐るべしPYN❣

神出鬼没にして正体不明なり‽
ポヨヨン
リアルガチに超イミフ。
パリピりたいわけ・・・

な~んてネっ!
ゴスペル999
目の付けどころがシャープです。
とコマーシャルしていた、そのシャープが、あのようになっちゃうんだから、世の中、先は分からん。
だからこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチは、化学反応による変化に期待したのさ!
2号氏の言うところの「罠」とやらの封印が
解かれることで、真の裏切者があぶり出されることで起こるレボリューション。
2号氏も只者ではないとするポヨヨンさんは本能的に何かを感じているのかも・・・
江戸川ドイル
首だけトリオって言い得て妙だよね。
この3人が似てるかどうかは意見の分かれるところだと思うけど、音楽家の肖像と洗礼者ヨハネも似てると思わない?
どう、ポヨヨンちゃん!
透明人間2号
一度、思い込んでしまうと容易には別の可能性には踏み込まないのが人間です。

天をさす指はトマスであり、両手を広げるのは大ヤコブで、ヨハネは指を組み、銭袋を持ったユダがいて、ナイフはペテロが握っている。

本当にそうですか? 別の可能性はないのでしょうか?

ココナンさんの質問に答えるとすれば、関係があると言えます。

ケイシさんの疑問に関しては、オチのおまけでもあり、
裏切り者の暗示でもあります。
ただし、それはイエスに対するものではなく、洗礼者聖ヨハネに対する裏切りで、音楽家、数学者、芸術家のなかに裏切り者がいるということです。

皆さんが仰るように、ポヨヨンさんは只者じゃないようです。

ポヨヨン
遠目には猫のような子犬だけど、犬だとわかったとたん、
もう犬にしか見えないよぉ!

首だけトリオの3人も、なんか似てる?
江戸川ケイシ
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切るでしょう」として、記事の最期で音楽家の肖像とウィトルウィウス的人体図とダ・ヴィンチの自画像を洗礼者聖ヨハネが指さしているのは何かの暗示ですか?
それとも単なるイメージ操作やアンタらも首だけというオチの続きでしょうか?
妙に気になるのですが!
ココナン
もうすでに、光輪があるというイメージが出来上がってしまっているせいか、見えなかったはずの光輪が、ジーと見てると見えてきます。

このこととトマスの指と関係があるんですか?
透明人間2号
ダ・ヴィンチの「罠」に、戦略とか戦術的なものはないとは申しましたが、ゴスペル999さんの考えを否定した覚えもヘルメス思想に言及した記憶もありません。

ダ・ヴィンチがヘルメス的思想に影響を受けていたのは事実ですが、彼はプラトンやアリストテレスにも感化されています。

要は科学的思考と並んで哲学的な思考傾向が強かったうえにオカルト的でもあったわけです。

Ⓑにおける左の弟子の光輪の有無については、掲載した画像を見ての感想を述べたまでで、あるということが分っているとうっすらとあるように見えているのではないですか?
どうですか、ココナンさん?

知っていたのかどうかよりも、知らないと光輪がないように見えるという事実の方が重要なのです!
ゴスペル999
ははは、どっちの意味かは知らないが、仏教的に解釈したなら、当たらずとも遠からずだよ!

「天上天下唯我独尊」いいねえ!
江戸川ドイル
「ヘルメス文書」の根本教義は「上のものは下のものの如く、下のものは上のものの如く」という反対するものや対極にあるものが同じという思想だから、「すべてはひとつ」「ひとつはすべて」で、ダ・ヴィンチの言う全体と部分
との絡みとも合致するのはわかるけど、核融合の件となると物質の誕生ということぐらいしか思いつかない。

ゴスペル氏にはそのことと天を指すトマスとが繋がっているということですか?

まさか、「天上天下唯我独尊」とでも・・・
ゴスペル999
本当は手よりも指と表現したかったことに間違いはないよ。
むらさき納言殿。

ただ、それがトマスでなく大ヤコブだというのが解せないわけだが、

ところで、まだ少し早いかもしれないが、あの時(隠し絵のコメントで)は、説明が長くなるのでしばらく様子を見てからとドイル君の質問の返答を控えていたが、大筋では間違っていないと思われるので、2号氏からは否定された内容ながら、グノーシスとネオプラトニズムの触媒としてのヘルメス思想の化学変化について一席ぶつと、

デミウルゴスがヤハウェの上位にあるように洗礼者ヨハネがイエスの上位にあって、その化学変化が核融合、つまり、聖ヨハネ(水素)とイエス(ヘリウム)の融合ってことだと思うよ!
ものすごく簡単に言えばね!
これでいいかな? ドイル君。
むらさき納言
憎まれっ子、憚り参上ですか?
怪傑ハマリオ、改め、天邪鬼さん。

熊の手や猫の手を借りるとか、犬の芸での「お手」とか、
慣用的に使用する言葉に動物の「前あし」を「手」と言うのは普通(慣用表現)なのです。
「前あし」よりは「手」のほうが分りやすいでしょ。
本当は指にしたかったと思いますが・・・
江戸川ドイル
以前にヴェロッキオの「キリストの洗礼」で、右上に飛んでる変な形の黒い鳥を、みのる氏は「ヨハネが持つ十字架の杖に向かっていると見ることもできる」とコメントしてましたが、2号さんはそれにインスパイアされるとして、謎のトマスの指に絡めた解釈の援護射撃になるかもと返答していたのは、このことですね?
まあ、この鳥が丸焼きの正体ってことは200%ないだろうけど・・・。
怪傑ハマリオ(天邪鬼)
怪傑ハマリオ、改め、天邪鬼参上。

ニーハオ、久々に来てみれば、ベクシンスキーの次はヤコポ・バッサーノになってるわけか!

謎のトマスの手が大ヤコブの手とか何とか言ってたが、それが羊の前あしというコペルニクスも真っ青の大転回とは・・・

そうそう、羊は手じゃなくて前あしだから、念のために。
ルート1/2
芸術家って、ミステリー好きで遊び感覚でこっそりネタを仕込んでることって結構あるよね。
この場合もヤコポ・バッサーノがダビンチの『最後の晩餐』を見て、インスピレーションを受けて、トマスの手と顔を皿の上に乗った聖ヨハネの首に見立てて自分の『最後の晩餐』での食卓の皿に羊の頭として乗せたって言いたいわけだよね。
問題はこのシチュエーションでなぜ聖ヨハネが出てくるかの整合性だね。
必然性はまったくないわけだから。

スッキリとは割り切れない“ルート1/2”でした。
デッキブラシ
何にしろ、怪しいのは確か。
最後の晩餐での紛らわしさもそうだし、エマオの晩餐での犬と猫も言われりゃそう思うし、光輪の件もそう、いちいち誰かや何かを疑わせるような描き方をしていると思う。
しかし、羊の頭が洗礼者ヨハネとはビックリだね。
いくら疑似絵とか言っても、ヨタ話にされちゃうよな!
ココナン
ありがとうございました。 早速調べて確認しました。
ものの見事にしっかりと光輪が描かれていました。
ここで、2つの疑問が生まれました。
ヤコポは何故、遠目から見たら壁の色と同化してしまう金色っぽい色で光輪を描いたのか?
イエスや右の弟子のように銀色とか白っぽい光でよかったはずなのに。
次に、このことを知っていて、2号さんは記事を書いたのか?
ということです。

ケイシさんの意見では疑似餌(疑似絵)だから、
ということになるのですが・・・
みのる
https://www.the-athenaeum.org/art/list.php?m=a&s=tu&aid=5746

上のサイトに入って、青いバーの「S」のとこに、Bの絵があります。画像をクリックすれば大きく見えます。
ココナン
疑似絵かどうかはともかく、このⒷの画像では光輪は見えません。
ざっとですが、ネットで調べてもⒷの大画像は見つかりませんでした。

みのるさんが確認したという大きな画像の見つけ方を教えて下さい。
江戸川ケイシ
早速、作戦開始ですね。
言葉は悪いけど、揚げ足取りの困らせ作戦・・・

これは「無礼講」でのコメントでも記したようにヤコポ・バッサーノの狙いであって、どっちつかずの曖昧な描写をすることの延長にある仕掛けでしょうね。

あるのか、ないのか、見えるか、見えないかのギリギリで光輪を描く。
ここで片方の弟子に光輪がなかったら大ごとですからね。
だから、猫のような子犬と同じ手法で、2号さん風に言えば、タイトルにもある「疑似餌」、もしくは「疑似絵」なのだと思われます。
みのる
Bの方の左の弟子ですが、大きな画像で確認しましたが、右の弟子と同じく細い光臨が描かれていました。
ゴスペル999
うおっ、そう来たか!
ただ、トマスだけならまだしも、これ(大ヤコブ)をどう始末して、つじつま合わせをするのかが見ものではあるな。

ワインを飲む黒服の男がユダではない公算が高まったことは残念であるが、それも疑似餌ということか・・・
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