きっと、サクラの黒い幹と枝をつたって
たくさんの妖精たちがいるんだと思えて仕方のない
とっても美しい連想へと引きずり込むサクラは果てしなくダイナミックだ
きっと、サクラの黒い幹と枝をつたって
たくさんの妖精たちがいるんだと思えて仕方のない
とっても美しい連想へと引きずり込むサクラは果てしなくダイナミックだ
リュウが亡くなってから今日でちょうど半年。あちこちに転移していた癌の治療をやめ、家で静かに息を引き取らせようと考えたのは私だった。苦しい癌治療をしてもなお4ヶ月で逝ってしまった父の闘病からの教訓だった。
結局、リュウは癌治療をほとんどせず、あまりにも早く生き急いでしまった。私はその速度についていけなかった。これでよかったのだろうか、という苦悩が頭をもたげてきた。そのとき、私は、リュウと同じ種類の仔猫を迎え入れた。そしてその子を溺愛することによってその苦悩から逃れようとした。
しかし、半年が経ってもなお、新しい仔猫を前にしても、リュウの顔が一日一回は頭をよぎるし、あれでよかったのだろうかとふと考えていることに気付く。リュウの「命」は私とオットに委ねられていたのだから。 委ねられたその「命」を私たちは天に向かって投げたつもりだ。上手くいっただろうか。
忙しい毎日の中で「命」ということと本気で向き合うことは少ない。私なんかは向き合うのが怖くて新しい仔猫を迎え入れたのだから。でも、肉親を亡くした人なら分かるはずだ。その淋しさ、その迷い、その悲しさ、どんな言葉を並べても逃げても、そこに開いた心の闇を抱きながら生きなければならないということを。
嗚呼 春のヒカリが気持ちよかった今日
春の香りを秘めた風が頬を撫でる中
今年初めてサクラを愛でた。
愛しい人と愛でた。
その後美味しいラーメンを食べて帰った。
ただそれだけ ただそれだけ
ただそれだけが10年
私は「物」にも命が宿るように思う時がある。
先日、7月に買ったばかりの愛車を派手にぶつけてしまった(人 物損なし)。そして10日ほど入院させてしまった。この時に受けた衝撃は大きかった。手足をもぎとられたような、10日間悶々とした日々を送った。
思えば、7月に買って以来、愛車に乗らなかった日はなかったし、どこへでも一緒だった。それは私の秘密の部屋であり、相棒であり、肉体の一部だった。
そうしてまた、こうも考えた。人や物に危害を加える前の私の愛車からのメッセージでもあったのではないかと。
また、命が宿ると思ったのは車だけではない。私はこの写真を撮ったノクチルックスというレンズを愛している。詳しいことを言ったらきりがないが、言ってみればじゃじゃ馬なこのレンズで撮る時、私はこのレンズと共同作業をしているのだと感じる。
持っているレンズやカメラはみんなそれぞれに個性があり、やはり生きている感じがするのである。
神様でもない一人の人間にすぎない私が、物に息吹を与えているなどとはおこがましいが、物を活かすと言う意味で生命を宿らせることができるのかもしれないと思っている。
私の写真が一人でも多くの方にそれぞれに生なる意味を持って頂けたなら、そんなに嬉しいことはない。
焦ってはいけない
どんなに焦ろうと状況は変わらない
時は平等に過ぎていく
焦ってはいけない
心の疲弊はいかほどのものか
真に疲れさせ自分を見失い
それがどれほど大きいことか
焦らなければいけない場面にあっても
心の均衡を保ちながら
また自分と向き合いながら
ただ 歩を進めるだけなり
私は昨年、大きな人生上のミスを犯した。それによって大切なオットを真に傷つけ孤独へと追いやってしまった。
今、寒さの中、オットの帰りを待っている。そうして、こんな日は、私が入院した5日間、オットがどれだけ孤独だっただろうと想像せずにはいられない。暗い玄関のドアを開け、出来合いのものを食べ、猫に食事をさせたりしたのだろう。それでもオットは何一つ責めたりはしなかった。自分が辛かったことも言ったことはない。とにかく「助かってよかった」とだけだ。
以前、オットとお相撲をとろうということになったことがあった(笑)
私が倒れ込んだところにテレビがありそのテレビに頭を少しぶつけてしまった。私はからかおうと思って眼をつぶったままじっとしていた。オットが最初は「はいはい、起きよう」と悠長に構えていたが、だんだん声色が変わってきた。私の脈をとったり「愛乃 愛乃」と泣きそうな声で連呼し始め「悪い冗談はやめてくれよ~」とほとんど泣いているのでつい笑ってしまって眼を開けた。こっぴどく怒られるものと思っていたのに、「あ~よかった よかった」と一言も怒りもせずただただ私を抱きしめて泣いているのである。オットが涙を見せたのはリュウの時とこの時だけである。
そういう人だ。自分では いい人なんて言われたくない なんて嘯いているけれど、毒舌と言ってくれ などとそぐわないことをいっているけれど、これがオットはこういう人なのである。
傍に 静かに見守っていてくれる人のいること
傍に 静かに励ましてくれる人のいること
傍に 私の辛い気持ちをその笑顔で温めてくれる人のいること
傍に 平凡そうに見えて真を突いている人のいること
嗚呼 これ以上に何を望もうか
違う 違う
私は何かして欲しいわけではない
違う 違う
まして謝ってほしくて言っているのではない
違う 違う
大切な貴方をできれば困らせたくはない
私は必死だ
私の気持ちを分かって欲しくて
私の悔しい想い
悲しい気持ち
こういう過程を辿って こうこうこうなって
そうして今 とても悲しい気持ち
貴方にだけはわかってほしい素直な気持ちを吐露しているだけだということを
今日はオットはクライアントからの接待で遅くなるという
そうして降りてきた静かな淋しい夜
でも私はこの孤独の夜も、このありのままに淋しい夜も愛する
そうして、こんな夜も、ありのままの自分でいたいと願う
沸き上がる静かな静かな情熱で
紡ぐ糸
少しずつ少しずつ
昨日、久しぶりの友達に会った。彼女は非常に聡明な人で、私が真に尊敬する友である。最近、いろいろあったので、仕事以外に人と会うことを避けていた私だが、なぜか、彼女にだけは会いたいと思って私から誘った。意識にはそんなに上らなかったが彼女に救いを求めていたのかもしれない。
いつものことだ、彼女との待ち合わせ場所で彼女をみつけると、名前を大声で呼び「久しぶり~!!」から始まった。
しかし、その後が、予想外だった。いつものようにガハハ!と賑々しくランチが始まるところだったが、彼女が席に着くなり言った言葉は「愛乃ちゃん、大丈夫?リュウちゃん・・・」不意打ちだった。目の前にいる友の真に心配し、慈愛に満ちた顔をとっさにみて、笑顔から一変、溢れる涙が止まらなくなった。リュウの顔がフラッシュバックする。そして私は今、本当に心許せる友に甘えているのだと感じた。
思えばリュウが亡くなってから、私は一回も泣かなかった。私にはリュウを失ったことが理解できなかったし、そのようなことを認めたくもなかった。だから、新しい仔猫を迎え入れ、その子を必要以上に溺愛していた。
でも、私にはこうやって泣くこと嘆くこと、真のリュウの面影に頭巡らすこと、そうしてリュウはもういないことを理解することが必要だった。私はこのとき初めて、リュウの死を受け入れたのである。
泣きながら、友に二言三言想い出を語り、また友に会えたことの喜びへと戻って、楽しいランチタイムを過ごした。
私は10年以上前、まだ20代だった頃、とても辛い恋をしていた。
彼は同じ司法試験受験仲間だった。帰国子女で大学も体育会系の倶楽部に所属していたが、人当たりは至って温和。時を同じくして二人惹かれ合った。
昔の事だ、彼を批判する事などはしたくない。まして、私は今、この上とない伴侶を得ているのだから。
ただ、私が私である事の重要性を書くには、彼の存在が不可欠なのだ。そこには具体性も必要かもしれない。
彼は、私には要求と正当性の主張が多すぎた。しかし、当時の私は彼の要求を受け入れたい、彼に少しでも近づきたいと半ば妄信的になっていたように思う。
例えばこういうことだ。一緒に手を繋いで歩いている時に、彼が障害物に当たろうとしていたので繋いでいた手を少し引っ張った時の彼の怒りよう。言葉で言えよ、ということだった。私はそれがマナーなのかどうかも分からなかったが、彼がいう事は正しいのだから、私が悪かったんだ、と心底納得していた。
もちろん、私も随分反抗した。でもその中で彼の考えは怯む事を知らなかった。結局最期は、自分の考えは変わらない、僕と別れてもっと気に入ったヤツとつき合え、ということだった。
私は精一杯努力したつもりだ。彼が帰国子女であったことから、欧米の考え方を学ぼうと本も読んだ。
しかし、何もかもがダメだったのだ。そもそも一人の人を妄信することから間違っていたのだ。
私は彼に別れの手紙を書いた。最後に書いたフレーズを今でも覚えている。
「私は、本来の私から、随分と遠くに来てしまった気がします」
父が亡くなった事もありこの失恋は大きかった。でも私がそこに気付いた事も大きかった。些細な事でも自分の尺度を持ち一人で判断する事を覚えた。もちろん、それは私にとって至難の業で、長い時間を要した。
それでも今は、自分が自分であることに喜びを感じている。それは本当に本当に微かな微かな私の誇りでもある。
ポジティブ思考が随分と賞賛されている世の中であるように思う。
ポジティブは即ち善であり、ネガティブは即ち悪であるかのようである。
私は父が亡くなるまでポジティブの塊の様な考え方だった。
でもそれは、間違っていた。
私は父が亡くなった後の母や母の幼き頃の苦労や、同じくポジティブと言われていた祖母の関東大震災、太平洋戦争を乗り越えてきた苦労を思う時、ポジティブとはネガティブに裏打ちされたものでなければならないと考えるに至った。
それなくして、真の自分とはいえないのではないかと思う。
私は周りから、豪傑でポジティブだと言われる。それはそれでいい。
ただ、例え自分が暗いとネガティブだと思われようと言われようと私は私のままでいるだろう。
それが私が私である事の、微かな誇りなのだから。
嗚呼 愉しいかな
一週間の営みを終えて
貴方と夜更かしをし 朝寝坊をし
ぐだぐだと果てしなくダラダラとたわいもない話をし
ふたりで猫達と戯れ
嗚呼 愉しいかな
一週間に一回の食材の買い物と称して
実に実に 遠回りをして 果てしなくだらだらとドライブする
あれが食べたい これが食べたいと
貴方にせっつき
貴方は嫌な顔一つせずに買ってくれる
嗚呼 愉しいかな
その帰りも 果てしなくたわいもなく遠回りして
ケーキなど買ってしまう
そうしてお腹が必要以上に満たされて また必要以上に惰眠をとる
嗚呼 愉しいかな
貴方が存在していてくれる事が
私は天に感謝せざるを得ない 貴方の存在してくれる事を