自分が被写体に。
動物が好きでネコが大好きでラーメンが大好きでオンガクが大好きでニュース番組が好きでオットの作ってくれる蕎麦が大好きで嫌いなものもたくさんあるけど、好きなもので満たされていて、オットの側にいるだけで安心できる、そんなヤツ。
最近の私は、写真を外に出さなくなっている。これには理由がある。思い至ったことがある。
それは、私のライフワークを見つけたからだ。
私は、今まで、綺麗なもの美しいものをより美しく撮ることに精進して気がする。それは無意識だったが。
しかし、私は今此処に、愛おしいもの、愛すべきものを発見した。それは重要且つ眼の見開かれる様な、ちょうどカメラに光が差し込んでくる様な、そんな発見であった。
その愛すべきものとは、オットとネコ達である。オットのネコの可愛がりようはすごい。とても真似の出来ないほどに優しさと慈悲深さに満ちあふれている。それを撮らずして何を撮ろうというのだろうか。
そして、今「オットとネコ」 を生涯のライフワークに据え、写真を撮り溜めていたる。もちろん他にも心打つものをしっかりと見定めて撮っていこうと思っている。そして夢はその写真達の写真集を作ることだ。
2年ほど前からだっただろうか、私は私の撮る写真に、非常に嫌悪感を感じ始めた。機材はこれ以上とないものを集めた。その良質のレンズから、美しい写真をあみ出そうと必死になっていた矢先だった。突然、何を撮ればいいのか分からなくなったのだ。
それまでの私の画像のコンセプトは「日常を非日常に」であった。しかし、私にはもう、日常しか見えない、非日常が見えない状態だった。結局、私の撮っていた写真は、日常を飛び越えて、非日常ではないのか。この上ない機材は非日常的な綺麗な写真を量産することには成功したが、満足感は得られなかった。
悩み抜いた末、デジイチを持って歩くのをやめ、コンパクトカメラであるGRを片時も離さず撮るようになった。非日常を撮るにはGRで十分すぎるという結論をたたき出し(もちろん今の時点の話だが)、Photoshopを勉強し直した。そして、撮った画像はまるで荒らすかのように、まさに画像荒らしを行っている。もちろん構図や露出には気をつけ、仕上げの荒らしにも耐えうるように努力は怠ってはいない。
今は携帯でも驚くほどキレイな写真が撮れる。私は今、キレイな写真を荒らそうとしているのだから、変人と呼ばれても仕方はない。先日、写真家の大先輩にも、その不思議な写真をもっとプッシュすべき、という助言を頂いた。
楽しい。「日常を非日常に」写真生活の楽しさがまた戻ってきた。そしてまた、友人らの撮った綺麗な写真に心打たれる自分もいる。
気付いたら、キセツが去ってゆこうとしていた
さよなら夏の日
貴方と出会ったキセツ
貴方と一緒にいたキセツ
貴方が私の存在価値を見出してくれたキセツ
さよなら さよなら
また巡り来るまで
膝を壊した。
しゃがめなくなった。
地より這い出た野の花の目線で写真が撮れなくなった。
しかし、その代わり、同じくその地の上に立つ自分の目線からいろいろなものが見えてきた。
もしかして、それが本当の私の写真なのかもしれない。
忘れるということは一般的に悪いイメージがあると思う。ただ最近そうでもないのかもしれないと思い始めた。昔OLをやっていた友人が、シャワーで流して指先から足先から全部今日あった悪いことが出て行くみたいなんだよ、と言っていた。ある友人は寝て起きたら全部忘れちゃう、と言っていた。なかなか物事が忘れられない私にとっては羨ましい限りだった。
かくいう私も40を過ぎて大分忘れやすくなってきた。困ったものだと思いながら母に言ってみると、ガハハハと笑っているのである。アタシなんか昨日のことすら覚えていないわよ、と 。確かに最近母は、仕事のことと楽しいことは絶対忘れないが、それ以外のことは、な~んにも気にしていないのである。もちろん嫌なことも。私は忘却にもこうした美学があると思う。
嗚呼 春のヒカリが気持ちよかった今日
春の香りを秘めた風が頬を撫でる中
今年初めてサクラを愛でた。
愛しい人と愛でた。
その後美味しいラーメンを食べて帰った。
ただそれだけ ただそれだけ
ただそれだけが10年