悲しみの果て / エレファントカシマシ(+ 再生リスト)
悲しみに「果て」などあるのだろうか。
いつもいつも、父や我が子のリュウその他失ったものの中で、私は堂々巡り。
悲しい悲しい哀しい・・それでも、我が子達は私に甘えてニャァと鳴き、オットは傍らでゆるやかに私ににこやかに話しかける。私は、猫を愛でながらオットに微笑み返す。
テレビから聴こえてきたこの率直な歌声とメロディーがそこに「悲しみの果て」を告げる夕べ。
悲しみの果て / エレファントカシマシ(+ 再生リスト)
悲しみに「果て」などあるのだろうか。
いつもいつも、父や我が子のリュウその他失ったものの中で、私は堂々巡り。
悲しい悲しい哀しい・・それでも、我が子達は私に甘えてニャァと鳴き、オットは傍らでゆるやかに私ににこやかに話しかける。私は、猫を愛でながらオットに微笑み返す。
テレビから聴こえてきたこの率直な歌声とメロディーがそこに「悲しみの果て」を告げる夕べ。
私の小学生の頃の愛読書はこの「智恵子抄」と「シュバイツアー名言集」だった。
智恵子抄など小学生の私が理解できる代物でもないのに、その言葉の煌めきと何とも言えない優しさをそこに見いだして私を夢中にさせていたように思う。
その煌めきと優しさは、高村の、また智恵子の純粋なる愛の織りなしたものであるから生まれたものなのだと、再びこの本を手に取って痛切に感じた。
すらすらと読み進めていく本ではない。何回も同じところを行きつ戻りつひたすら二人の間を行ったり来たりした。つまりあるときは、高村は私のオットであり、またあるときは私がオットに募らせている想いがそこにあった。その純愛を読み進めるうち、有名な「レモン哀歌」が出てきた時には、独り号泣してしまった。高村から渡された檸檬をかじってその香と逝った智恵子は、誰がなんと言おうと幸せだったのではないかと思っている。そう考えることがせめてもの私の慰めだ。
有名な智恵子が言った「東京には空がない」という言葉。私は生まれも育ちも東京なので理解不足かもしれないが、もちろん、その言葉には東京の空が故郷と違って濁っているということを意味しているとは思う。だけどそれだけではなかったのではないか。東京には純粋さと天空を突き抜ける自然のダイナミズムがない、ということも言いたかったのではいかと私は考えている。そしてそれ故、薄い薄いガラス細工のような智恵子の精神を蝕んだのかもしれないと推測している。
この本を読み終わるのにとても長い時間がかかった。薄い本だがその重みは世の本を遥かに凌駕しているように感じた。