気づいたら
そこには夏があった
うだるような夏
生を受けたばかりの蝉が
うねるようにいつまでも鳴いている
あそこにいた時には聞こえなかった
懐かしくも儚い鳴き声
そっと耳をそばだてながら
とてもとても静かに、静かに
冒険をしてみようと思えるキセツ
気づいたら
そこには夏があった
うだるような夏
生を受けたばかりの蝉が
うねるようにいつまでも鳴いている
あそこにいた時には聞こえなかった
懐かしくも儚い鳴き声
そっと耳をそばだてながら
とてもとても静かに、静かに
冒険をしてみようと思えるキセツ
月日はあれから一年流れた。7月は私が自らその命を絶とうとした月だった。他人にとってはどうでもいい暑い夏の一月だろう。だけれど、私たち夫婦にとっては嫌でも思い出す、そして二人で、また、それぞれが一人で考えさせられる一月だった。そしてまた、去年のように辛い一月だった。二人とも「何故?」と考えざるを得なかった。
死に取り憑かれたとき、私はメール一つで働いているオットに死を告げた。どんなにかわいくてかわいくて仕方のない猫たちも、愛するオットも老いた母のことも、何もかも頭の中からなくなった。
理由はいくつかあったと思う。でも一番の理由は、写真家として創作し続ける厳しさや自信喪失など、そこには絶えず写真がつきまとっていたように思う。今でもそれは変わらない。
だけど、どんな理由があろうと、私はオットを裏切り、母を悲しませた。そのことを否応なく思い返すと、どうしたらいいのかわからなく混乱した。そういう時オットが、「とにかく生きてくれ」、と言ってくれた。去年と変わらない辛い7月を乗り越えられたのは、このオットの言葉のおかげだ。
今日、私はちょっとした一歩を踏んだ。ほんのちょっとの一歩だ。でもその一歩は7月の終わりの日に、かけがえのない一歩となった。
ラベンダー畑の道をゆく
癒しのはずのラベンダーの香りが
今の私には、少しきつい
それでも、両脇をラベンダーに支えられるようにして
一歩、また一歩と、歩を進めていく
喜びや幸福や輝きが多いほどに
哀しみも増し
その膨れ上がった生きるという重力
時々、投げ出したくなる
しかし、だから、私はまだ、生きている