Aino's Dream

職業写真家Aino(日本写真家ユニオン会員)のオフィシャルブログ。写真って夢みたい。。ゆるりゆるりと夢を追い続けて。。

父についての随想

2013年12月02日 | 独り言

私の父は、56歳、肺がんで亡くなった。昨日はなんとなく父のもとに行きたくて、お墓参りをしてきた。

純粋な人だった。子供だった頃よく遊んでくれたのを覚えている。そうやって、自分も遊んでいたのだろう。純粋な人だった。

なかでも、一番の想い出は、ボーイスカウトのキャンプに連れて行ってくれたことだった。あのキャンプは子供も大人もなかった。晩ご飯のあとは、飽きることなく、みんなで歌を歌った。父がそんな私を微笑ましく見守っていてくれたこと、今では涙が出るくらいに思い出される。

また、父とデートもたくさんした。思春期なんてなんのその、手を繋いで、洋服を買ってもらったり、時にはパトロンと間違えられるほどだった。

そんな純粋だった父が弁護士をやっていたのは、私にはちょっと不思議だ。もちろん非凡な人で頭の回転がものすごく早かったし、非常に忍耐強く、クライアントもたくさんいた。がんセンターから事務所に出ると、行列ができた。ただ、父が亡くなった後、私は残務処理のため事務所に住んでいたのだが、嫌な感じの電話がたくさん鳴った。この垢まみれの世界の中で、父はその純粋さと傍から見えない忍耐強さで、自分の命を少しずつ失っていたのではなかっただろうか、と思えてならない。それでも父は病床で言った。弁護士になれて良かった、と。

父は、その純粋さと頭の回転の早さとの間で随分と生き急いだように思う。それ故、父が最期に私に言った言葉は「まぁ、ゆっくり生きなよ」だった。

まぁ、ゆっくり生きなよ

なかなかムズカシイ

【略歴】

東京都麻布で生を受ける

慶應義塾大学中等部・高等学校を経て慶應義塾大学経済学部卒 法学部学士入学で卒

都庁の就職試験にて同窓のよしみで母と出会い結婚

都庁で働きながら勉強し、国家公務員I種、続いて司法試験に合格

著書に「頭のよい契約利用法」など

司法修習で長女である私ができ、続いて妹が産まれる


何が正しくて何が正しくないのか

2013年10月03日 | 独り言

 

うちの7匹の猫のうち、末っ子のリュウ(3歳 ♂ ソマリ 写真真ん中)が癌になった。気付いた時には、既に癌はリュウの体のあちこちを蝕んでいた。病院は抗がん剤治療を当然やるものとプランを提示した。オットもそれが当然なのだと思っていた。

しかし、私は違った。私は父を肺がんで亡くした。58歳だった。見つかった時には既にステージ4で、しかも肺がんの中でも最も悪性の強いものだった。それでも私たち家族は、少しでも父に長く生きてほしい一心で、父を励まし、辛い治療を強いてしまった。でも、結局、治療を始めてからたったの4ヶ月の命だった。そしてそれから15年間、私は悔いて悔いて、その気持ちには際限がない。

だから、私はオットと何度も話し合った。泣きながら話し合った。何が正しくて何が正しくないのか、結局今でも分からない。ただ、辛い決断だったが、私たちが出した答えは、辛い抗がん剤治療をさせるより、家でゆっくりと余命を生きてほしい、というものだった。なので、今は、少しの薬と食欲がないときのためのおやつと少しでも病気が楽になるように撫でてあげるくらいしか出来ない。

命のやり取りの場面では、私は本当に何が正しくて何が正しくないのか分からなくなる。村上春樹の『1Q84』でも一つの命題だったように思うが、結論は分からなかった。ただ思うのは、命について考える時、何が正しいのか分からなくても、真摯に向き合うこと、それ自体が最も大切なことなのではないか。最近では出生前診断の話も取りざたされているが、死の場合だけでなく、出生の場合にも言えることなのではないかと思う。

15年前、ずっと入院していた父にできなかったことをリュウにできたなら、と思う。


哀しみについて

2013年07月27日 | 独り言

 

先日、テレビで空海の特集を観た。空海はポジティブな言葉を非常に多く遺した一方で、こんな言葉も遺していた。

「哀しいかな 哀しいかな 哀しいかな 重ねて哀しいかな」

一番弟子が亡くなった時のことであった。

私はこのテレビを観て、空海のポジティブな面よりも、この言葉に強く惹き付けられた。もともと、私はいわゆる浪花節的な自分だけをかわいそうがっているような感じは好きではないのだが、というか、単純に楽しければいい、くらいの貧相な考えの持ち主だったが、この言葉を聞いた時に、ハッとすると同時に救われる想いがした。楽しくなるように頑張らなくっていいんだと。

人生とはなどと言うつもりはないが、みんな哀しみを抱えながら生きているのだと思う。それは赤ちゃんが泣きながら生を受けることに象徴されているような気がしてならない。そして、喜びや楽しさは、哀しいからより際立つ、というよりむしろ、もはや哀しみに内包されているものなのではないかと思う。

そう思った時に、この自分の哀しい哀しい哀しいどこまでも哀しい存在が赦せるようになった気がする。


寄り添うということについて

2013年07月26日 | 独り言

真心ブラザーズ 『サマーヌード』

 

最近、驚いたのが、この歌を人気ドラマの主題歌として、ジャニーズの山下君が歌っていることだった。それによって、私は一気に15年以上前に引き戻された。最初は、この歌よく聴いていたな、というくらいだったが、何故そんなに聴いていたのか徐々に思い出すことになった。

15年前頃、私は辛い辛い恋の最中にいた。そんな頃にこの歌に出会ったのだ。この歌の歌詞

「僕ら二人で通り過ぎるその全てを見届けよう 心のすれ違う時でも」

この部分がその時の私には必要だった。その時の恋人は私に寄り添うということはしてくれなかった。帰国子女のせいなのか独立心が旺盛だった。一方私は、精一杯努力したつもりだった。欧米の考え方や価値観も学ぼうと本を読んだりもした。しかし、私が近づこうとすればするほど、彼は心を閉ざしていった。私には内野には入ってきてほしくない、外野にいてくれ、とまで言われた。

その頃から、私は同じ景色を一緒に見てくれる人を、つまり寄り添ってくれる人を探し続けることになったのだと思う。偶然にもその彼とサヨナラをした直後に現在のオットと出会うことになった。

今なら分かる。心寄り添える人など、ほんの一握りしかいないのだと。それほどに、誰かの心象風景を一緒にみることは、困難極まりないということを。

オットはそれを軽々とやってのけた。そういうオットにこころから感謝しつつ、私もオットも含めて、誰かが困っている時に、そっと寄り添える存在でいたいと思う。

曲の話に戻るが、真心ブラザーズのぶっきらぼうな歌はやはり色あせず男臭くってとってもカッコいいと思う。山下君のは最初聴いた時には違和感を感じたが、なかなか色気があっていいんじゃないとニヤニヤしながら聴いた、彼も恋をしているのかも・・・


写真について

2013年07月24日 | 独り言

私は細々とではあるが、写真を生業としている。

しかし、写真には、私にとって生業以上の意味がある。ライフワークだと考えている。

写真を始めたのは、6年前くらいの結婚して2年くらい経ったときくらいだった。私は最初、別のテーマのブログをやっていたが、その挿絵程度にと思って、当時最も原始的なデジタルカメラを買った。仕事と家事に追われる日々、心の休息が欲しくなったのはその直後だった。いつしか写真が私の心のよりどころになり、リコーのGR DIGITALで本格的に撮るようになった。撮るのがとにかく楽しかった。

Facebookで写真を公開するようになってから、徐々に私の心の中で、写真というものが、ブログでの時と違うものになっていった。レスポンスの早さ、また、要求もあった。次第にプレッシャーを感じるようになっていった。FBでは作品を載せるのをやめた。

今はブログ主体で気まぐれに、また表に出さない、もしくは、しかるべき時がきたら表に出そうとしながら写真を撮っている。

生業である以上、それは最初の頃のようにただ単純に楽しいから撮れるという感じではない。ただ、写真とは、私にとって、一筋の光を頼りに闇の中でじっと自分と向き合うことなのかと思う。特に何か特別なものではなく、日常見過ごしてしまいそうなものを非日常的に撮り、世界の素晴らしさを再発見するにはどうすればいいのか、それは、一度は死を選んだ私にとって、生きることの一筋の光でもある。

写真を撮るとき、闇の中で自分と向き合いながら、常に、「どうして生きるのか?」というより逆に「生きる」ということが私に問いかけているのだと痛感する。


オンガクについて

2013年07月17日 | 独り言

 

 

私は小さい頃からオンガクが好きだった。小さい頃は歌うのが大好きで、中学生位から聴くのも好きになっていった。うちはみんな歌うのが好きだったから、毎晩毎晩、私のピアノに合わせて家族で何曲も歌っていた。家族全員が私の中学の校歌を歌えるくらいだった。

大学の頃は、友達の家で恋の歌を聴いてなんだかんだと語り合っていた。大学を卒業する頃はボサノヴァやJAZZ、世界の民族音楽を聴くようになっていった。

今も車に乗る時などは30枚以上もCDを持ち込んでいる。とにかくオンガクが好きだ。

ただし、最近は家で一人になると無音のままじっとしてしまうことが多かった。そんなとき、学生の頃実によく聴いた槇原敬之を引っ張りだした。恋の詩がほとんどだが、彼の散文的な歌詞、いや、歌詞というより一つの物語に私にとって、普遍的なものを発見した。それは学生の時に聴いた単なる懐メロではなく、一種のコミュニケーションだと思った。

オットは中学高校とお金がなくてあまり友達と遊べず、部屋でオンガクを永遠と聴き続けていたと笑って言っていた。オットもオンガクがコミュニケーションとなっていたのだろうか。

JAZZもボサノヴァもクラシックもとってもいい。でも、この暑い日本の夏にはサザンもいいなと思う。


人生の計画性について

2013年05月18日 | 独り言

 

 

私は計画的に生きることを嫌っている。もちろん、それは普遍的な意味ではなく、ごくごく個人的にだ。「嫌っている」という言葉も違うかもしれない、私は不器用なのでそもそもが計画的に生きられないということなのかもしれない。

私のモットーは、今目の前にあることに誠実に、かつ粘り強く、そして楽しくやることだけ、それだけでいい、と思っている。

具体的に言えば「何歳までに結婚して、何歳までに子供を作って、何歳までに・・・何歳からは・・・」という自分で決めたことに縛られたくはない。例えば、私はプロの写真家となったが、なろうとしてなったわけではない。たまたまJPUの理事に声をかけられ、スカウトされてプロに転向した。そのとき撮っていた写真はプロになるためのものではなかったし、純粋に楽しんで飽きることなくいつまでも、いつの時にも撮っていた写真たちだった。

今は芸術的な面でアプローチしているが、努力と技術と一定程度の才能があれば、その芽は必ずや人の目にとまるものだと思う。そこには、とても自然な流れがあるのだと思っている。

そして、私は、その自然な流れが、人生全般についてもあるのだと思っている。その流れは、静かだが、非常にダイナミックな流れだと思っている。そして、目の前にあることに一生懸命に取り組んでいくうちに、思いもよらない道が開けてくるのではないか、そういう風に考える方が、私にとっては冒険的で面白い人生が送れるのではないかと思っている。もちろん、険しい流れもあるだろう、でも、自然の流れは、最後には平穏な大海原へと導いてくれると信じている。


大切なもののついて

2013年04月06日 | 独り言

先日、ある友人とかなり腹の割った話をする機会があった。

 

彼女は不妊症に悩み、性格もかなり悲観的な面がある。彼女は主婦なのに(もちろん旦那さんともうまくいっているが)、家事をほとんど放り出すくらいに外に出かけては買い物も多くし、映画を観たりその他もろもろ忙しい忙しいと言っていた。もちろん、買い物で気分転換もいいと思うし、映画など観るのもとてもいいことだとは思う。ただ、僭越であるとは思うが、私は彼女を心配していた。私から見ると彼女は何かに追われているように、あるいは何かから逃げているように見えたからだ。

いろいろと話した後、私は彼女に問うてみた、なぜそんなに出かけなければならないのかと。すると、彼女は言った。家にいるといろいろと考えてしまって外に出かけずにはいられないのだと。そして、本当は自分の居場所を探しているのだと。

私は語気を少し強めて言った。自分の居場所や大切なものは、外には絶対にない。買い物をしたりそういうことで、心を満たすことはできない、と。本当に大切なものは、自分の中にあるんだ、と。そして愛する人とのかけがえのない生活の中にあるのだと。

これはあくまで私の経験知にすぎないのだが、一番大切なものは自分の中にあると信じている。そして、それはむしろ、「自分にとって」というよりもっと「普遍的」なものが、あるのだと思っている。言葉にするのは難しいがそれは、「愛」ではないかと思っている。そしてそれが実際の現実的に現れるのは、まずは生活だと思っている。ちょっと前まで、「自分探しの旅」という言葉がよく聞かれた。今現在においても、カルト教団やちょっと理解を超える宗教が多く存在している。私は自分探しの旅をしたことがないし、宗教についてもその詳しい教義は知らない。ただ一つ言えるのは、どんなことがあってもそういうための旅やそういう宗教に私は走らなかったし、これからもそうであろうということだ。それは、大切なものは自分の中にあると信じているからだ。もちろんこれは持論なので、各々が考えるべきことだけれど、少なくとも逃げていては何も解決にならない。そして環境を変えなくても、また他の人から提示されるまでもなく、大切なものはもっともっと身近ですぐ手の届くところにあると思っている。確かに自分と向き合うことは時にとても辛い。私も随分辛い時期があった。でもそのことで、多くの気づきがあったし、何より、私は心から幸せだ、と思うことができるようになった。状況が悪くても、精神は自由だ、とフランクルも「夜と霧」の中で言っていたが、どんな状況に立たされようと、心の中の大切なもの、そこから溢れ出すかけがえのない生活、を忘れないようにしていれば、悩み悩みながらも歩んでいけるのではないかと、自戒の意味も込めて思っている。


文章を書くことについて

2013年03月24日 | 独り言

 

文章を書くことについて、幼い頃から一定の評価を得てきたように思う。いや、この際、評価など、どうでもいい。私は文章を書くのを好んでいる。

これは、遺伝も大きく関わっているように思う。私の祖父はロシア文学・演劇の評論家であった。著書・訳著をたくさん世に送り出した。そして母も文章を書くのが好きだ。しかし、母がまだ若かりし頃、父である私の祖父に、作家になりたい、と言ったことがあったそうだ。そうすると、祖父はものすごい剣幕で怒り、作家というのはそんな甘っちょろいことじゃない、大変なことなんだ、と言ったという。

今となっては私にも、祖父が言ったことの意味が分かるような気がする。何かを生み出すことは身を削るようなことなんだと。

そして、私は最近、そういう類いの、身を削るような想いで文章を書いている。それは、あまりにも赤裸裸すぎると、自分でも分かっている。しかし、書かずにはいられないのだ。私には清算することが多い。それは、私の頼みの綱である、文章を書くことによってできるのではないかと、微かな、非常に微かな願いを持っている。だからといって、ちょっとした数の人が訪れるこのブログに書くことはないではないかとも思う。でも、個人的に文章を書いたなら、それはただの自己満足で終わってしまうのではないかと恐れているのだ。

誤解を招きたくないが、私は、文章の内容から伺えるような、真面目な人間、というのだろうか、物事の奥底をストイックに考えすぎる人間ではないかもしれない。よくわからないが、自分では非常に楽観的な人間で、本気で自分のことを運がいいと信じ込んでいるような人間である。ただ、その分、文章を書くことによって清算したいと思うことも増えることになるのだ。


生活について

2013年03月24日 | 独り言

 

私は今の生活をとても大切にしている。

朝はオットより2時間ほど前に起きる。最初にやることは、緑茶をいれることだ。ガラスのポットで湯が緑色になるのをぼーっと見ている。そうして30分かけてポットの緑茶を全部飲む。温かいあのきれいな緑色の液体が体に入っていくのを感じるのはとても素敵だ。

飲み終わると活動開始だ。ネコにご飯をあげて、新鮮な水を与える。洗い物ををして(私は後でも書くが夕飯を食べ終わった後の時間をとても大切にしているので、洗い物は次の日の朝にやる)、水で洗剤をきれいに落としながら昨日にさよならをする。その他にもいろいろなことをするが、一番楽しいのは、朝に常備菜を作ったり、夕飯のメニューを考えたりその下ごしらえをすることだ。オットが夜疲れて帰ってきた時に、何もかも吹っ飛んでしまうような温かい料理と温かい家庭でいることに、必須の条件だからだ。オットが私の作ったものを美味しいと言ってご満悦でビールを飲んでいるのを見るのが好きだ。そしてオットが起きてくると、味噌汁とご飯とちょっとしたおかずを出す。そうして、オットを元気よく送り出す。その後、私も自分の義務にとりかかる。

たまに、友達とランチをし、またたまに飲み会や友達と外食をする。

夕方、風呂に本を持ち込んで半身浴をする。汗がダラダラ出るのは素晴らしい感覚だと思う。そして、風呂を出てからはオンガクを聴きながら本を読み続ける。オットから帰るメールが届くと、なんだか生気がみなぎって、7匹のネコ達に「パパが帰ってくるよ」と告げる。オットの帰りを待ちながら料理をするのはとても幸せな気分がする。そして、1時間ほどでオットが門を開ける音がする、私はキッチンから飛び出して、玄関まで小走りする。ネコ達もついてくる。オットが玄関を開けたとき、元気に「お帰りなさい!」と言ってオットの鞄を受け取る。

夕食後は、寝室に行く。私は(オットもそうだろうが)その頃にはすっかり疲れきっているが、寝室でネコ達とテレビを観るその時間がとても好きだ。まさしくそれは「癒し」だ。テレビは大抵、お笑いを中心に観る。そうして、オットと笑う。ネコ達がくつろいでいて、私とオットが笑っていて、それはなんて幸福なひとときなんだろう、と思う。

というような、特に変わったことのない、ありふれた生活だ。でもどんなにありふれていようが、どんなにささやかなものであろうが、私はこの生活を宝物のように思っている。


孤独について

2013年03月22日 | 独り言

 

最近になって私は、孤独を愛しているのではないかと思うようになった。

もちろん、私は真に孤独ではない。家族もいるし、友達と会ったりもする。

ただ、振り返ってみると、学生時代の私は大勢の友達とありとあらゆるおしゃべりをしていながら、孤独だった。父が亡くなった時には、父の残務整理、という名目で一人暮らしを始め、独りになることを望んだ。

そして今もそれは変わらない。どんなにたくさんの人が周りにいても、私はごく少数の人と友達になろうとする。人を遠ざけてしまうのだ。あるいは、人生というのはそういうものなのかもしれない。人と出会うということは、そのほとんどが「こんにちは」といい、そして何かの波に乗せられたように「さようなら」と言って通り過ぎていく、そういうものなのかもしれない。

高校時代の恩師が言っていた。どんなに愛する人とでさえ、完全に一つになることはできないのよ、と。

この頃その意味が分かってきたように思う。人は誰でも孤独という闇を持っている。その闇を見まいとしているのかもしれない。同時に人は独りでは生きてはいけないとも思う。

私には親友がいる。同い年で乳飲み子のときから友達だった。私の初めての友達。彼女とはいつも二人で確認し合っていた、「私たちは赤ちゃんのときから友達だよね」と。そして私たちは飽きることなくリカちゃんごっこをやり、あらゆる物語を一緒に作った。私がわからないこと(例えば網戸と雨戸の違い)について、他の友達は子供がよくそうするように「そんなのも知らないのぉ~?」ってはやしたてたけれど、彼女だけはいつでも絶対にそんなことは言わずに丁寧に私にいろいろと教えてくれた。彼女が引っ越す時になったときには、毎日まだ幼かったけれど、引っ越し先の住所を彼女が言い、それを私が復唱して覚えた。そして手紙を出すと約束した。

彼女とは今でも年賀状をやりとりしている。そして、それにはとても強い意味がある。「私たちは赤ちゃんの時からの友達だよね」そう、確認するものだ。会わなくても心はいつでも通じ合っている。

孤独の闇は、ほんの少し、温かくて光があるものなのかもしれない。だから私は孤独を愛せるのかもしれない。


「愛」について

2013年03月21日 | 独り言

 

私はオットと出会って、「愛」というものにくるまれているような、そんな気分になることが多くなった。

オットは口数も多い方ではないし、いささかロマンチシズムに欠けるところがあるから、滅多に「愛してる」なんて言わない。つき合っている時からそうだった。それでも、私はいつも、オットの愛をひしひしと感じるのだ。

私はあの晩、アルコール度96%のウォッカを3瓶と大量の薬を飲んだ。

5日目に気づいた時には病院のICUのベッドにいた。オットが私の命を救ったのが分かった。私は母と妹、それにオットに心底申し訳なくなって泣いた。オットが面会に来た時、私はまだ意識がなかったはずなのに、泣きながら何度も謝ったという。母が来た時は、(その時も意識がなかったはずだが)母が幼い私に歌ってくれていた子守唄を歌うと私は顔をくちゃっとさせて泣いたという。妹は私が意識を取り戻した時に、誰にも語ったことのない心の奥底の哀しみを私に語った。

退院した後、私はウォッカを飲んだあたりから記憶がないので、オットにいろいろと聞いた。そしてその中でオットは、「そんなに辛かったんだ、それならこのまま死なせてあげた方がいいのではないかと思った」とポツリと言った。

オットに以前、「私のどこが好きなの?」と聞いたことがある。こんなにいい人が何で私なんかと暮らしているのだろう、と不思議に思ったからだ。オットは30秒ほど考えていた。彼はこういう時に適当に愛の言葉を並べるような人ではないのだ。そしてゆっくりと口を開いた。「愛乃の存在自体かなぁ」それは私にとってこれ以上にない愛の言葉だった。

「愛とは」などと定義するつもりもないしそんな権利も私にはない。ただ、神様が本当にいるのかどうか全然分からないけれど、私は愛を信じようと思っている。それはエゴイズムのはびこった愛ではない。言葉にするのはとても難しいが、それは赦すということに近いのではないかと思う。人を憎み憎み、そして悩み悩み、そういうところで愛があれば赦すことができるのではないかと思う。私の名前は「愛乃」という。父が遺してくれたものの中で一番大切なものだ。そして私が愛乃という名前であることに今の私は少し必然性を感じてしまう。

愛の・・・そこに続きはあるのだろうか。