
昨夜



昼 味噌ラーメン

次は壇ノ浦の戦いです。その前に源平池の謎の話を
もう少し・・・
願掛けは頼朝もしていました。皆さんは亀の前事件ってご存じでしょうか? 頼朝の女性トラブルです。
政子は頼朝の正室として許せなかった。浮気相手の家と家財道具を徹底的に破壊した。でも頼朝さまは私のことを想ってくれていた・・その証拠のひとつがいまも残っています。源氏池の奥に2つ並んだ大きな政子石です。政子が妊娠した時頼朝が安産祈願した石です
その政子石は源氏池の旗揚げ弁財天社の裏にあります
自然の石や岩は腐ったり朽ちることがない! 日本では昔から石に神様が宿るという考え方があった。
頼朝は政子の安全なお産を願っていた。
女性トラブルが多かったの? 頼朝は京都育ちなんですよね。当時の京都は貴族文化の中では自由恋愛は悪いことではなかった。頼朝は政子を正室として大切にしていた。この石は頼朝と政子の愛の結晶です。
いまでは夫婦円満にも後利益があるともいわあれています。源氏の発展を願った北条政子の思惑があった。
1185年の壇ノ浦の戦い
頼朝が一生懸命鎌倉で街づくりをしていた頃に義経が平家を滅ぼす。源義経 1159年~1189年享年31歳 頼朝と異母兄弟 源平合戦のリーダー
頼朝の12歳年下の弟です。頼朝さまとは生き別れたのですが・・・その後京都で弁慶と武芸をみがく。
兄の頼朝と再会したのは1180年10月21日
いまの静岡県で平家と戦っているときです。お互い
平家討伐を誓いあった。兄弟の再会が悲劇を生む・・
義経はほとんど空気を読まない人 アキも好きではない。壇ノ浦の戦いでは、船を漕いでる奴を射殺せ!
当時の戦いでは暗黙のルールとして船頭に手を出していけなかった。船頭は中立の立場 義経はルールを無視して勝利を手に入れた。 性格が仇となって身を滅ぼすことになる。
次は手紙の謎 これだけ頼朝さまのお力になっているのに・・手柄を立てた義経が自害においこまれたのか
頼朝を激怒させた手紙のミステリー 平家を滅ぼした功労者源義経 義経が書いた手紙にあった。1184年一の谷の戦い 掟破りの戦法で平家軍に連戦連勝
壇ノ浦に追い詰め平家を攻め滅ぼす。
朝廷のトップからエリートの証 官位が贈られる
鎌倉に戻って頼朝さまに報告しよう。きっと喜んでくれるはずだ.しかし義経を鎌倉に入れてはならぬ。
某反を疑い大激怒。官位をもらったと云うことは頼朝より後鳥羽上皇が云うことが第一に考えること。
面会を拒絶した頼朝 義経は頼朝に心情を綴った手紙を送るが腰越状に頼朝の怒りの原因があった。
検非違使に任命されたことは源氏にとって名誉?
検非違使に任命されたことが激怒の原因 検非違使とは犯罪者の逮捕など絶大な権威を持つ役職
頼朝と家来のルール 家来は命がけで参加 勝利すると土地を与えていた。御恩と奉公の関係です。
朝廷から官位をもらってしまうと、朝廷の味方として戦えと言われると従わなければならない。頼朝は官位がが欲しい気持ちはわかる。その時は必ず私に言いなさい。私が朝廷と交渉するから・・勝手なことをしてはいけない。義経は考えが浅い 頼朝の考えを理解できなかった。頼朝は義経を鎌倉に入れず捕えようとする。頼朝殿のやり方に不満がある者は俺についてこい
と云って京都に帰る。考え浅いから不満爆発頼朝への
某反を決意する。朝廷のあの方から頼朝を討つ命令をもらう・・・後白河法皇です。 後白河法皇は頼朝追討命令を出すが武士たちは全く動きません。拒否です
頼朝を討てと云ったが武士は云うこと効かないので
撤回して義経を討と手のひら返しです。義経の某反は失敗です。義経は全国を逃げ回ることに・・義経の恋人「静御前」が頼朝に捕まってしまった。
鎌倉に連れてこられた静御前 鶴岡八幡宮で頼朝を激怒させた和歌の踊り義経を慕う和歌を披露した。
殺されても仕方がないが北条政子が女心を組んでくださいと頼朝をなだめたのが政子であった。翌年 義経は奥州藤原氏に囲ってもらったが・・頼朝は追いかけてきた。頼朝は奥州藤原氏を追い詰め義経を自害させた。藤原氏に対してお前たちは義経を囲ったなといって大軍を率いて藤原氏を滅亡させた。
きょうはここまで疲れました。
次回は幻の寺の謎です。
5 鎌倉大仏の謎
6 暗殺の謎
7 大銀腸の謎
8 お墓の謎
1185年 壇ノ浦の戦い
1189年 源義経自害・奥州討伐
1192年 源頼朝が征夷大将軍に
1199年 源頼朝死去・13人の合議制が発足
1203年 源実朝が第3代鎌倉殿に
1204年 源頼家が暗殺される
1205年 北条義時執行に
1219年 源実朝が暗殺される
1221年 承久の乱
1224年 北条義時死去
北条政子が惚れるほどハンサムな男である。
義経は頼朝の義弟 戦に関しては天才肌の自信家であります