南朝鮮解放区とは、2031年2月24日に北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が軍事侵攻し、設立させた行政機関である。
(あくまでも行政区分としては京畿道(きょんぎど・北西)と全羅道(ちょるらど南西)である)
・2029年12月23日、「鉄のカーテン作戦」
米、韓、日の防衛協力協定と、自由2年計画(米国の韓国側への戦闘機300機の提供、韓国の核武装開始)など、北朝鮮指導部は危機感を強めていった。12月16日の19時頃、アメリカのジェームズ・ラブバラード大統領はホワイトハウスの庭園演説で以下のように話した。「CIAと韓国国家情報院の譲歩網が、北朝鮮の電撃戦の兆候をとらえた。金日王はロケットとミサイルを韓国の北部の変電所や発電所にめがけて飽和攻撃をするつもりだ。」
さらに韓国本国でも1年前から首都機能を秘密裏に移転する計画が事前に行われていた。
これは一般的な韓国の国民には知らされておらず。陰謀論者の推理ゲームの対象となっていた。
国防総司令部はテグの大型地下シェルター「銀溝」(シルバースリット)にうつされていた。
臨時の大統領府は金海市、国民保護本部は釜山市に移されていた。最高裁判所は、晋州市移された。
12月23日15時、朝鮮労働党のスポークスマンは「我らの平等な友であられる金日王上級大将同志は、南の同胞らの為に2時間の猶予を与える。これより南朝鮮の反動当局、およびアメリカ帝国主義の寄生虫どもを一掃すると決定された。祖国解放戦争(朝鮮戦争)を完結させ、朝鮮半島と極東アジアに半永久的な和平をもたらす。」と発表した。
そして12月23日17時2分ごろ、韓国の北部、北西部のうちの17か所の変電施設を攻撃した。
また在日米軍基地の跡地、韓国空軍の基地の滑走路、レーダーサイトなどを15か所以上破壊した。
「核武装が完了すれば、北朝鮮側は南に侵略戦争を続けられないと理解していた。なので駆け込み侵略戦争を行ったのだ。」
by マイクデービス (CIA連絡員)
韓国軍側の防空能力は決して低くは無かった。だが迎撃への成功率は20%程度だった。これは北朝鮮側の「量」が西側諸国の質を圧倒的に凌駕していた証拠である。飽和攻撃によりひたすら物量で押しまくったのだ。
・12月23日19時頃、「民族の決意作戦」
朝鮮労働党のスポークスマンは「民族の決意作戦」を発表した。主力となる1個軍団、陽動作戦のための3個装甲師団で韓国側に侵攻する大規模な作戦だった。秘密裏にロシアと中国は支援していた。
特に主力の軍団の1つ「第二装甲機械化師団」は労働党幹部らの秘蔵っ子としてソウル陥落の最先方に充てられた。
ソウル市では大規模な市民の避難もあり混乱があったが、何よりも北朝鮮の工作員らによる役場や変電所、メディア局の占領が問題だった。大規模なサイバー攻撃による停電により情報が遮断されたために多くの西側諸国には混乱が生じた。
「エドワードパク大統領は自殺した」「北朝鮮にパク大統領が捉えられた」「既に日本に脱出した」などの誤情報が一斉に拡散された。
首都機能が分散していたので、韓国政府はこれで機能不全には成らなかったが北半球の諸国ではショッキングな
出来事として記憶された。
・12月25日26時(25日深夜2時)頃11分 ソウル陥落(北側視点) 「ブラッディ―クリスマス」
太陽暦の12月25日深夜2時頃、朝鮮労働党・解放戦争指導会議は以下のように発表した。
「勇敢で民主的な我が人民軍は、南朝鮮を不法占拠する米帝傀儡政府の中枢部を破壊した。青瓦台を撃砕し、世界地図から抹消した。米帝ブルジョア階級とその手先の南狗傀儡どものを征伐するという作戦は成功した。朝鮮解放戦争、祖国解放戦争を我が党、我が軍、労働者を中核とする人民は断固遂行する。ソウル解放はその始まりに過ぎない。」
北朝鮮側はソウル中心部の制圧を持って「ソウル陥落」と主張した。米韓の政府はこれに対して、近郊部での未制圧地域やソウル首都圏の大半が韓国軍の塹壕と陣営が機能しているとし「ソウルはまだ未陥落」とした。
日本政府も内閣府の広報では「同盟国の韓国の首都ソウルにおいて厳しい戦いと膠着状態がある。完全には陥落とは呼べず、公式には呼称しない。」と述べた。(グエン・サンチョン内閣官房長官)
・全羅道(ちょるらど)の全域制圧と木浦市(もくぽ)の戦い
かつて大規模な日本人入植地でもあった、南西部のモクポ市では本格的な地上戦が行われた。
(2031年1月5日午前7時ごろ)
労働党上層部の秘蔵っ子舞台であった第二装甲機械化師団が前線に投入されたのは西側の多くの有識者の分析を裏切った。既にモクポの電力網は落ちていたので、西側諸国は詳しい戦況を把握できず苦心した。特に日本のインターネット上に流れた情報の88%は、ロシアや中国の情報工作のアカウントであった。そして2030年2月10日、韓国軍は「人道と兵士の人命の尊重」を口実にモクポから撤退した。
朝鮮人民軍は韓国西部全域を制圧した。ただし南部の島々、および済州島には上陸しなかった。
2031月2月23日15日、北朝鮮側のスポークスマンは「大韓民国は消滅した。」と宣言した。
翌日の午前10時、「南朝鮮解放区」を設定し、祖国解放戦争(朝鮮戦争)の終結と戦勝を主張した。
※これ以降の韓国側の防衛・反転攻勢は「韓国救国臨時政府」の解説になります。
西暦2023年、令和5年、皇紀2683年、5月17日、ロシア崩壊後の中央ユーラシア同盟(UCEA)は北海道・東北・北陸地方への侵攻を開始した。
ロシア崩壊後の混乱時に、日本国防軍(旧自衛隊)が択捉島に上陸したのが原因だった。
・「自由の鶴作戦」(択捉島奪還作戦)
2023年2月、地方分権派による「ロシアの春」によりロシア連邦は解体。モスクワ暫定政権は国家連合「中央ユーラシア同盟」を発足。
この混乱により、モスクワ暫定政権はクリル諸島および、サハリンはロシア連邦軍が撤退させた。
丹波首相は日本国防軍(旧自衛隊)にクリル諸島(千島列島)の占領を命令。
2個空母機動部隊による国後島・択捉島占領を実行した。
(2023年4月1日、自由の鶴作戦)
モスクワ暫定政府は最初は沈黙していたが、4月2日に日本政府に抗議を発表。
東京政権の行動はロシアへの侵略と、クリルのロシア系住民に対する略奪と侵略であると主張。
日本国防軍の「自由の鶴作戦」は南クリル(北方領土・北方四島)の無血開城という日本軍の軌跡に終わった。
当然、メディアは浮かれ騒ぎ、日本国民の7割はこれを支持、日本各地の駐屯地近くで万歳と叫ぶ国民の姿は珍しくなかった。
総司令官、有村紘一(ありむらこういち)陸軍大将と、現地指揮官で前線を統括した、笹山陸翔(ささやまりくと)空軍少将は神格化され、
国民的英雄となった。
ロシア軍守備隊は最初の5分間だけ、日本軍部隊に高射砲で抵抗したため、「五分間戦争」とも日本メディアでは呼ばれた。
・英米国の日本国支援とモスクワ暫定政権の沈黙
モスクワ暫定政権は抗議声明を出したが、イギリス・アメリカ・カナダ政府が、日本政府の行動を容認(つまり事実上の支持)、
ポーランド、ウクライナ政府は積極的に支持した。
地方政府のイニシチアブ争いで混乱するロシアはもはや、破滅のスパイラルにあり抗議声明は圧力を持たなかった。
同月5日はクリミア半島を事実上、放棄。(クリミア臨時政府はウクライナへの再併合には慎重だった)
親ウクライナ政権が立つことを
・日本民主共和国連邦 (社会主義日本国家)
「にっぽん みんしゅ きょうわこく れんぽう」は日本民族解放統一戦線・ソビエト連邦が日本列島に設置する予定だった政権である。
第二次世界大戦後、ソビエト連邦は親ソビエトの社会主義政権、
「北日本人民民主連邦 UPDNN」を成立させた。
クレムリン(ソ連中央政府)及び日本人民革命運動(JPRM)は、関東地方、新潟県南部、北陸(大津・草津以外の滋賀県含む)
に日本民主共和国連邦を成立させ、さらに「大和人民民主共和国」をその東部に設ける計画だった。
(第1段階分割計画)
日本人民軍、郷土防衛軍、民間警察予備隊、海上保安総局が暴力装置として設置される予定だった。
北日本人民民主連邦は一党独裁だが、日本民主共和国連邦は社会主義や共和主義を掲げる政党ならば多党制が認めらる予定だった。
・第二段階分割計画
第二段階においては「北日本・日本・大和」の三つの勢力を、「東側諸国の中でライバル意識を持たせ競わせる」という
計画があった。
北日本人民民主連邦は親ソ連(というよりソビエトの指導下)におき、
日本民主共和国連邦は「日本の中のユーゴスラヴィア的な位置」におき独立させる。
大和人民民主共和国は中国共産党の影響下に置くというものだった。
・第三段階分断計画
第二段階が成熟するならば、第三段階では首都を長野県長野市に置き、日本列島は「日本人民民主共和国」として統一させる。
北海道は「イゾル自治ソビエト社会主義共和国」としてロシア連邦ソビエト社会主義共和国の一部とする。
琉球列島は中華民国に併合。
・計画の廃止
この計画は1973年、いわゆる「ブレジネフ密約」によりソ連軍占領地帯(北海道・留萌釧路ライン)が変換されると
廃止された。
ジェリョーナ ウクライーナ リスプブリカ
Green Ukraine republic
緑ウクライナ共和国
緑ウクライナ共和国、あるいは、極東ウクライナ移民政府(極東ウクライナ植民地集団)とは、
1920年代から1940年代までに存在していた集団である。
ソ連政府、反ソ派ウクライナ政府も存在を否定し、国際的認証も無かった事から主権国家としては考えられない。
後述(コウジュツ)するように「離散したウクライナ人移民たちの政治運動」と考えられるのがロシアでも一般的である。
ソ連政府、ウクライナ独立派の双方からこの集団は日本のスパイであると敵視・異端視されていた。
「極東ウクライナ」という概念がいつ登場したのかは具体的な資料は乏しく、不明な部分が多いが、
極東ウクライナ人という集団はおおむね、
世俗的には、ロシア帝国やソビエト連邦の圧政から逃れたウクライナ人難民、スターリンの強制移住政策によって、
自由意思で開拓精神から移住した開拓者たちだと信じられている。
シベリア東部(極東ロシア)に離散したウクライナ人達は、モンゴル系ロシア人領域・満州・沿海州・カムチャツカ・樺太(サハリン)などに離散していた。
小規模な移民集団に離散していたウクライナ人達を使って「共和国」を作ろうと企画したのは日本帝国系諜報機関だと信じられている。
この共和国には公式な政府が存在せず、代表者も存在してい無かった。
というよりウクライナ人達の移民集団の長老達の連合体制だった。
正規軍も存在せず、農民や猟師らが個人的に武装していた。
・ユーラシア極東にウクライナ人移民の経過
1930代後半には西はバイカル湖周辺、東は樺太(サハリン)まで、ウクライナ人移民達の生活共同体は集結していく傾向にあった。
1937年7月には「極東ウクライナ人拓殖開拓運動」という政治団体が、日本軍の情報機関(特務機関)の支援で成立した。
この拓殖開拓運動が緑ウクライナ共和国の事実上の政府と見る場合もある。
しかし、日本陸軍はロシア系勢力との関わりが深まり、ウクライナ・ナショナリズムは都合が悪い存在となる。
・日本軍による「処分」と歴史認識問題
1941年、大東亜戦争後半に太平洋戦争がはじまると通称「緑ウクライナ共和国」の処分が秘密裏に行われた。
政府は支援を打ち切り、日本陸軍はソ連軍からの極東ウクライナ人達の保護を放棄した。
1944年9月の満州北部、1945年8月の樺太島(サハリン)で、日本軍により「ソ連のスパイ」とレッテルを張られた極東ウクライナ人が
大量に処刑されたとする流言が飛び交った。
(日本帝国軍による極東ウクライナ人虐殺問題)
ロシア政府やウクライナの民族派右翼・親ソ派は日本軍が主導して極東ウクライナ人虐殺を行ったと主張している。
しかし、日本国の大学教授や歴史家の多くはこれを「荒唐無稽なソ連のプロパガンダ」だとしている。
日本国内ではソ連軍によるウクライナ人虐殺を日本の敗戦に便乗して押し付けた、むしろ日本軍や現地日本人がソ連や共産主義者から
極東ウクライナ人移民を守ったという意見が主流である。
・現在の極東ウクライナ人移民の子孫
2018年、「緑ウクライナ共和国」は完全に過去の物となっており、極東や北方領土のウクライナ系住民でこの事を覚えている人は居ない。
さらに極東ウクライナ人は「ウクライナ民族」なのか、「極東ウクライナ人」という新しいカテゴリーの集団なのかも意見が分かれている。
現ウクライナ共和国は「極東ウクライナ人、緑ウクライナ人はロシア人である」として自国の難民や移民とは認めていない。