ジェリョーナ ウクライーナ リスプブリカ
Green Ukraine republic
緑ウクライナ共和国
緑ウクライナ共和国、あるいは、極東ウクライナ移民政府(極東ウクライナ植民地集団)とは、
1920年代から1940年代までに存在していた集団である。
ソ連政府、反ソ派ウクライナ政府も存在を否定し、国際的認証も無かった事から主権国家としては考えられない。
後述(コウジュツ)するように「離散したウクライナ人移民たちの政治運動」と考えられるのがロシアでも一般的である。
ソ連政府、ウクライナ独立派の双方からこの集団は日本のスパイであると敵視・異端視されていた。
「極東ウクライナ」という概念がいつ登場したのかは具体的な資料は乏しく、不明な部分が多いが、
極東ウクライナ人という集団はおおむね、
世俗的には、ロシア帝国やソビエト連邦の圧政から逃れたウクライナ人難民、スターリンの強制移住政策によって、
自由意思で開拓精神から移住した開拓者たちだと信じられている。
シベリア東部(極東ロシア)に離散したウクライナ人達は、モンゴル系ロシア人領域・満州・沿海州・カムチャツカ・樺太(サハリン)などに離散していた。
小規模な移民集団に離散していたウクライナ人達を使って「共和国」を作ろうと企画したのは日本帝国系諜報機関だと信じられている。
この共和国には公式な政府が存在せず、代表者も存在してい無かった。
というよりウクライナ人達の移民集団の長老達の連合体制だった。
正規軍も存在せず、農民や猟師らが個人的に武装していた。
・ユーラシア極東にウクライナ人移民の経過
1930代後半には西はバイカル湖周辺、東は樺太(サハリン)まで、ウクライナ人移民達の生活共同体は集結していく傾向にあった。
1937年7月には「極東ウクライナ人拓殖開拓運動」という政治団体が、日本軍の情報機関(特務機関)の支援で成立した。
この拓殖開拓運動が緑ウクライナ共和国の事実上の政府と見る場合もある。
しかし、日本陸軍はロシア系勢力との関わりが深まり、ウクライナ・ナショナリズムは都合が悪い存在となる。
・日本軍による「処分」と歴史認識問題
1941年、大東亜戦争後半に太平洋戦争がはじまると通称「緑ウクライナ共和国」の処分が秘密裏に行われた。
政府は支援を打ち切り、日本陸軍はソ連軍からの極東ウクライナ人達の保護を放棄した。
1944年9月の満州北部、1945年8月の樺太島(サハリン)で、日本軍により「ソ連のスパイ」とレッテルを張られた極東ウクライナ人が
大量に処刑されたとする流言が飛び交った。
(日本帝国軍による極東ウクライナ人虐殺問題)
ロシア政府やウクライナの民族派右翼・親ソ派は日本軍が主導して極東ウクライナ人虐殺を行ったと主張している。
しかし、日本国の大学教授や歴史家の多くはこれを「荒唐無稽なソ連のプロパガンダ」だとしている。
日本国内ではソ連軍によるウクライナ人虐殺を日本の敗戦に便乗して押し付けた、むしろ日本軍や現地日本人がソ連や共産主義者から
極東ウクライナ人移民を守ったという意見が主流である。
・現在の極東ウクライナ人移民の子孫
2018年、「緑ウクライナ共和国」は完全に過去の物となっており、極東や北方領土のウクライナ系住民でこの事を覚えている人は居ない。
さらに極東ウクライナ人は「ウクライナ民族」なのか、「極東ウクライナ人」という新しいカテゴリーの集団なのかも意見が分かれている。
現ウクライナ共和国は「極東ウクライナ人、緑ウクライナ人はロシア人である」として自国の難民や移民とは認めていない。