雨宮 ピアノ教室(出張レッスン)

私のピアノ教室について・・・

演奏会に行ってきました BRASS BANdBE

2015-07-28 21:38:53 | 音楽について
こんばんは
今日は、お仕事のお休みをいただいて、
生徒さんのお母様が所属されているウィンドアンサンブルの演奏会に行ってきました🎵🎷

BRASS BANdBE という、
ウィンドアンサンブルの定期演奏会でした。
こちらの団員の皆さんは、子育てをしていたり
お仕事をしていたりする方々が、貴重な時間を使われて
練習されているのです。

そして、演奏会の時間も、午後早い時間から。
聞きに来るお客様も、未就学児👧🏼も、乳幼児👶🏻も、OK❗️

確かに、お子さんがいるのでにぎやかな客席ですが、
演奏が始まると不思議とぴたりと泣き止んでしまうのです😳
本当に楽しい時間でした。
演奏だけでなく、パフォーマンスも。

私はピアノをやってきてとても楽しいですし
これからも頑張っていきたいと思っています。

一つ羨ましいのは、ブラスバンドもオーケストラも
沢山の楽器で一つの曲を創り上げる一体感が羨ましいです。

来年も聴きに行こうと思います

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ベートーヴェン

2013-12-27 21:34:24 | 音楽について
こんばんは
とても寒いですね

以前、ドビュッシーと日本の歴史を照らし合わせながら、記事を書きました
今回、小学2年生の生徒さんから、ベートーヴェンについて教えて
と言われて、それではと思いブログに書こうと思いました

音楽家・作曲家が、とっても古ーい人々と思っている生徒さんが多いです。

日本で言うと、聖徳太子・推古天皇時代位に古いと思われていることも多いです。

そんなに古くはありません

そもそも、ピアノやチェンバロ・オルガンがある時代ですから

私もこれから日本史とベートーヴェンの生い立ちを照らし合わせて勉強してみます
出来上がりましたら、ブログにアップします。
気長に待っていてください

それから、年末年始とても寒くなるようですので、
皆さんお気を付け下さい

帰省する方も多いと思いますが、お気をつけていらしてください

私も実家に帰ってきます~



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音符や休符

2012-06-25 22:34:13 | 音楽について
こんばんは
梅雨ですね、今日は肌寒かったです。
でも、家の中は何となくムシムシしていて・・・

最近のレッスンで思ったことがあります
それは音符のや休符の長さ…拍数です
私はまずは、おんぷの形(形状)と、長さ(拍数)、休符の形(形状)と長さ(拍数)を、覚えてもらいます。
名前はとても大事ですが、4分音符・8分音符・2分休符・全休符など、小さなお子さんには覚えにくい感じがします。
なので、まずは音符の、のばす長さ、休符の休む長さ、を覚えてもらいます(というか、生徒さんたちが、覚えちゃいます)

それには、リズム打ちが良いです
まずは、視覚と体を動かす(手でたたいてみる)机をたたいてみる、口で言ってみる。
それを繰り返していくと、なんと不思議すぐに覚えてしまいます。
今、幼児の生徒さんが、何人かいらっしゃるのですが、リズム打ち大好きです
そして何度もやりたがるのです。
チャレンジ精神旺盛で、びっくりするほどです

後は音符休符カードを作っているのですが、それで遊んだりしてくれているようです
生徒さんたちが、キャッキャッと笑いながらリズム打ちをするのは、とても教えている方としても楽しいです
間違えてもいいのです
間違えたら、もう一度たたいてみればいいのですから

今後もリズム打ち、おんぷの長さ休符の長さを、レッスンに大いに取り入れていこうと思います

台風が来たり、梅雨前線が活発になっていますので、皆さんお気を付け下さいね



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ドビュッシー   最終回

2012-05-28 21:50:51 | 音楽について

前回はドビュッシーのピアノ曲について書きました。
たくさんの曲が作曲され、多くの人々に聴かれ、演奏されています
今年は、特に生誕150周年で、ドビュッシーYEARなので、
ピアニストの演奏会も多いです。
機会がありましたら、聴きに行ってみてはいかがでしょうか?

さて

今回はドビュッシーの晩年について書きます

1909年以降、ドビュッシーはだんだん病に伏しがちになります。
それでも、1910年には、ピアノ曲集「前奏曲」を作曲しました。

第一次世界大戦勃発(1914年~1918年)も彼に精神的ダメージを与えました。

大戦中は、古典主義的形式に20世紀の響きを結合させる6つのソナタが計画されました。
そのうちの3曲は完成し、「チェロとピアノのためのソナタ」「フルート、ビオラとハープのためのソナタ」(共、1915年)「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」(1916年~1917年)が出来上がりました。

この3曲がドビュッシーの最後の作曲と言われていました

しかし、2001年にアメリカで自筆譜が発見された遺作、ピアノ曲「焼ける炭火に照らされた夕べ Op.150」(1917年作曲)があります


その後1918年3月25日、パリで死去
死因は直腸がんでした


1904年    明治37年    日露戦争
1910年    明治43年    「尋常小学校読本唱歌」誕生
                 文部省が初めて編集した小学校唱歌の教科書
1914年    大正3年    第2次大隈内閣 
                 第一次世界大戦
                大日本帝国がドイツに宣戦布告
1915年    大正4年   芥川龍之介「羅生門」
1916年    大正5年   森鴎外「高瀬舟」
1917年    大正6年   「大正6年の大津波」と言われる高潮水害が発生。  
                実際は台風被害の様ですが、東京の「佃」「月島」 
                「築地」「品川」「深川」が浸水→『関東大水害』
1918年    大正7年   富山で米騒動
               日本でシベリア出兵

日本も明治から大正に時代が変わっています。
こう見ると、ドビュッシーの生きた時代は
そんなに現在から離れた時代ではないと思えませんか?  


遺作の「焼ける炭火に照らされる夕べ」は印象派の影響を受けたドビュッシーらしい
曲であると、思います。

簡単でしたが、ドビュッシーについてのお話はおしまいです

日本史が好きなので、日本(たまには世界史)の歴史と照らし合わせてきました。
このことで私も再認識したこともたくさんあります。

次回は、どの作曲家について書こうかなと考え中です

気長にお待ちください

ありがとうございました


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ドビュッシー  その5

2012-05-21 23:05:36 | 音楽について
 こんばんは
 今日は金環日食見られましたか?
 私はしっかり見る事が出来ました

 前回から、だいぶ間が空いてしまいました
 先週は、体験レッスンや教材作りに勤しんでいました。

 さて前回は、ドビュッシーが印象派美術や印象派詩歌の発想を音楽で表現しようとした
 ということを書きました。


 ここで、ピアノ曲のことをお話ししたいと思います
 ドビュッシーがピアノ曲を本格的に作り始めたのは20世紀に入ってからですが
 それ以前にロマン派的な曲も作られています。
 ドビュッシーもですが、このころの作曲家でフォーレ・ラヴェルとも印象派的な
 作品はピアノ曲です。

 代表的なピアノ曲を書き出します
    ・1888年~1891年       
      2つのアラベスク
    ・1890年             
      ベルガマスク組曲
         前奏曲
         メヌエット
         月の光(彼の曲の中で最もポピュラーな曲の一つ)
         パスピエ
    ・1896年・1896年~1901年
      ピアノのために
         前奏曲
         サラバンド 
         トッカータ
    ・1903年
       版画  
        塔(Pagodes)「パゴダ」は仏教の宝塔を表します。
        グラナダの夕暮れ
        雨の庭
    ・1904年  
       喜びの島

   ・1905年
      映像 第1集
      映像 第2集

   ・1906年~1908年
      子供の領分(愛娘クロード・エマのために作曲されたもの)
         グラドゥス・アド・パルナッサスム博士
         象の子守歌
         人形へのセレナード  
         雪が降っている
         小さな羊飼い
         ゴリウォーグのケークウォーク
           ゴリウォーグとは、フローレンス・アップトンの絵本に出てくる黒人の男の子人形のキャラクターの名前で、
           ケークウォークは黒人のダンスの一種です。
   ・1909年~1910年
      前奏曲集 第1巻
   ・1910年 – 1913年
      前奏曲集 第2巻

  以下は、曲の終わりに小さく曲名が記されていたもの

   ・1882年
      亜麻色の髪の乙女 (独唱 ピアノ曲)
   ・1909年~1910年
      沈める寺 (ピアノ曲)

 代表的なものを書きました
 まだまだあるのですが、有名どころを並べてみました

 このころの日本は
  1890年~1910年
    1890年  東京音楽学校開校(東京藝術大学音楽学部の前身)  
    1894年  日清戦争、日英通商航海条約
    1898年  上野恩賜公園で西郷隆盛像の除幕式。銅像は高村光雲作
    1902年  日英同盟締結
    1909年  ハルビン駅で満州視察訪問した伊藤博文が暗殺される



 今回は長くなってしまいました。
 ピアノ曲はたくさんあるのですが、有名なのは、「亜麻色の髪の乙女」
 「月の光」「ゴリウォーグのケークウォーク」「ピアノのために」「版画」・・・
 と、挙げていくと全て書いてしまいそうです。

 ぜひ皆さん、弾いてみたり、聞いてみてください。

 曲名からしても、絵画や自然から音楽をうみだしていることがわかりますでしょう。

 今回はこの辺で・・・

 明日は気温が下がるとの事、お体にお気をつけ下さい

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ドビュッシー  その4

2012-05-07 22:11:24 | 音楽について
前回のドビュッシーのお話は、音楽だけではなく文学にも惹かれ
詩歌に関心を抱いていったことまでを書きました。


ドビュッシーの音楽は声楽から始まりました
印象派の詩歌に音楽の伴奏をつけました

それは
『牧神の午後への前奏曲』からオペラ『ペレアスとメリザント』に発展していった。

牧神の午後への前奏曲
  1892年から1894年にかけて作曲した管弦楽作品であり、ドビュッシーのの出世作である

   1892年・・・・・日本では明治25年
             8月8日 - 第2次伊藤内閣成立
             11月30日‐伝染病研究所設立(北里柴三郎・福澤諭吉)
             12月9日 - 東京湾北部でM6.2クラスの地震発生

オペラ
 ペレアスとメリザント
   1893年~1901年にかけてドビュッシーが唯一作曲したオペラ

   
   台本には、著名な象徴派の詩人「モーリス・メーテルリンク」の同名の戯曲『ペレアスとメリザンド』が、 
   ほぼそのままの形で用いられている。
   
   《ペレアスとメリザンド》は、王太子ゴローの弟ペレアスと王太子妃メリザンドによる禁断の悲恋の物語である

      1901年・・・・・日本では明治34年
             2月5日 - 官営八幡製鉄所操業開始
             10月16日 - 日英同盟交渉開始
             10月23日 - 田中正造が足尾銅山鉱毒事件で衆議院議員を辞職
            12月10日 - 田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴

             日付不詳‐与謝野晶子『みだれ髪』
                   
              
このように「海」や「絵画」「雲」といった対象物から余韻を受けそれを音楽に表現しようとしていました
このことを、印象主義といいます。

印象派美術・印象派詩歌の発想を音楽で表現しようとしたのがドビュッシーでした

今日はここまでにします。

続きはまた近日中に・・・・・




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ドビュッシー    その3

2012-04-27 00:20:38 | 音楽について
こんばんは
ドビュッシーの続きです。
以前はドビュッシーがヴァニエ家の詩集に曲をつけて夫人にプレゼントしたことを書きました
その後は・・・・


ドビュッシーは、音楽だけだはなく文学にひかれ
この時代のフランスの印象派詩歌に多分の関心を寄せました。
印象派の詩人や、画家との交友が広がっていきました。
このことはドビュッシー音楽の環境に大きな影響を与えました。

そしてドビュッシーは20世紀初頭の
現代音楽の代表的な作曲家になって行くのです。

  20世紀初頭・・・日本 日英同盟
              日露戦争勝利
              日本から西洋に目を向けるだけではなく、海外から日本への視線も
              大きく変わる。
           
             1931年 満州事変
             1932年 満州国建国 
                  五・一五事件
                   (日本海軍将校を中心とする反乱、首相官邸に乱入、犬養毅首相暗殺。

             1933年 日本 国連脱退
             1936年 二・二六事件
                   陸軍皇道の影響受けた将校が1483名を率い「昭和維新断行・尊皇討奸」を、 
                   かかげ起こしたクーデター未遂事件。

                 尊皇討奸(そんのうとうかん)・・(天皇による政治を実現したい・悪政政治家を討ちたいという
                                  思い。)
   
             1926年  昭和天皇 即位


ドビュッシーの話からそれてしまいましたが
20世紀の初頭、日本はこんな感じでした。

ドビュッシーはこうして詩歌に没頭していきました。
言葉の響きのみが詩歌の命だと考えました。
そのように言葉の余韻や響きに重きを置く詩人たちを
印象派と呼びます。

なので、ドビュッシーは印象派の詩人たちにも関心を持ち
詩歌の余韻、響きをどうにか音楽で表現することを考えました
そのことは、従来の音楽規則を超えることもありました


今回は、日本史の部分が多くなってしまいました
一応説明をしておこうとか思っていたら長くなってしまいました。

この続きは、また近日中に・・・・・









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ドビュッシー   その2

2012-04-14 21:01:21 | 音楽について
この前は、ドビュッシーが普仏戦争のために、小学校教育を受けられなかったことを書きました。

しかし、裕福な伯母の家にいた時に、モォテ夫人のピアノの手ほどきを受けることが出来たのでした。
 
モォテ夫人はドビュッシーの音楽の才能を見向いてパリで本格的なピアノレッスンを始めました。
そしてわずか10歳パリ音楽院(コンセルヴァトアール)に受かり入学しました。

   
  パリ音楽院(コンセルヴァトアール)とは・・・。
   
   『のだめカンタービレ』にも出てきましたね
   
    フランスの国立音楽専門学校。1795年設立。

      
      1795年 ・・・・日本は江戸時代 元号は『寛政』
                徳川11代将軍 徳川家斉の時代です。

    1976年に100人余の教師と351人の学生でパリ音楽院を発足し、
    ヨーロッパで最古の、水準の高い音楽教育の場と広く知られて、
    フランスの名高い作曲家や演奏家でこの学校で学ばなかった者は 
    ほとんどいないとされています。
    パリ国立高等音楽院。

その後ドビュッシーは優秀な成績を収めていましたが、
貧しかった彼は、ピアノ教師として稼がなくてはなりませんでした。
そして18歳になった時にモローサンティ夫人の声楽サロンのピアニストになりました。
そのサロンで演奏しているときにヴァニエ夫人(裁判所の書記をしている人の奥さん)に
ドビュッシーの才能を高く買われ、物心両面でドビュッシーに便宜を図りました。
俗にいう(パトロン)ですね
でも音楽家はこういう事が多かったのです

ドビュッシーはヴァニエ家の蔵書の詩集を読み
その詩に音楽を(曲をつけて)つけてヴァニエ夫人に
プレゼントしていました

今日はここまでにします。

日本は江戸時代、フランスではサロンでピアニストが演奏・・・
国が違うとだいぶ違いますね。

また近日中に・・・

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ドビュッシー

2012-04-11 22:54:13 | 音楽について
こんばんは

これから、音楽について書きたいと思います。
カテゴリーは「音楽について」にしてあります。
音楽のジャンル・作曲家・ピアニスト・・・などについて調べたことや
お話ししたいことを書きます。

これは不定期なので、気長に読んでください

今回は、ドビュッシーについて書きたいと思います。


ドビュッシー(1862年~1918年)

    今年はドビュッシー生誕150周年です

    本名  Claude Achille Debussy クロード・アシル・ドビュッシー

 ドビュッシーの生まれた年

  1862年 ・・・・・・日本は、江戸時代 文久元年
          寺田屋事件・生麦事件・コレラの流行

 ドビュッシーの亡くなった年

  1918年 ・・・・・・日本は大正7年
          米騒動・シベリア出兵・スペイン風邪(鳥インフルエンザによるパンデミック)
 



  フランス、パリ郊外の貧しい家庭に生まれとても内気な子供でした。
  貧しい家庭だったので、裕福な伯母の家に時々滞在させてもらっていたようです。

  ドビュッシーが8歳の時に普仏戦争(フランスとプロイセン王国[ドイツ北部~ポーランド西部]の戦争)が起き、フランスは大敗しました。
  そのような状況から、ドビュッシーは小学校教育を受ける機会を失いました。


今日は、ここまでです

私は日本史も好きなので、日本の歴史(軽くですが)と、並行して書きますね

続きは、近日書きます・・・


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