今年、ひょんなことから、とある高校の弦楽アンサンブルの発表を聞くという機会を得ました。
校内の発表だったので、どこかのコンサートホールではなく、ちょっと古い視聴覚室に椅子を並べて客席を作ったという簡易の会場でしたが、プログラムが用意され、曲目紹介などの司会進行もしっかりしていて、適度な緊張感のある良い雰囲気の場でした。
いわゆる、進学校と呼ばれる頭のいい人たちが通っている高校なので、生徒はもちろん聞きに来ている人もおそらく、その高校のOBやOGであったり、生徒の家族や知り合いなのでしょう。
見る人見る人がみな、頭が良さそう(もしくは育ちがよさそう?)な佇まいで、なんでも人並みの呆けた私は場違いな気がして、少し居心地が悪かったです。
曲目は、ディズニーやジブリの映画音楽や、誰もが一度はどこかで聞いたことのありそうな流行りのJ-POPなどでした。
音程が悪かったり、音色がしっかりしていないところもありましたが、全員の息が合っていて、全体としてまとまりのある良い演奏でした。
頭の良い人たちは、アンサンブルに必要なポイントがちゃんと分かっているんだなぁと感心しながら聞いていました。
そして、客席で聞いているうちに、先ほどとは違った違和感を感じることに気がつきました。
聞いている人たちが、皆、微動だにしないのです。
リトルマーメイドや、トトロのテーマ曲のように軽快で楽しいリズムの音楽を、息を殺して、固唾をのむようにして、ただ見入っているのです。
そして、それはごく普通のことのようにしているのです。私にはその光景が異様なものに見えていたのですが。
まるで、自分が知らない世界に迷い込んでしまったかのようでした。
私は日常的に音楽に触れているせいか、何かの曲を聞くと、そのリズムや拍を感じ取って、自然に身体が音楽に合わせて動きます。
それは、ほんのちょっとの動きで、決して大袈裟な動きではありません。
例えば、風がそよそよと吹けば、木の枝葉がさわさわと揺れるような、ごく自然な反応です。
しかし、高校生たちの若々しい演奏を前にした動かざる人々は、音楽を聞いているのではなく、難しい講義を一言も漏らすまいと真剣に聞いているように思われました。
その光景は、とうてい音楽を楽しんでいるようには見えなかったのです。クラシック音楽に独特の、厳粛な雰囲気の曲ならば、その反応も頷けるのですが。
もちろん、せっかくの演奏の邪魔をしたくないという考えもあったのかもしれません。
その場にいた人たちを日本人の代表として考えてしまうのは極端だと思いますが、日本人が音楽と向き合う時の独特な態度について、改めて考えさせられた出来事でした。
=====
学生の時に、「もっと音に愛情を持って出しなさい」と指摘されたことがあります。
それは、無造作に音を出すなという意味であったと今は思いますが、自分が出した音に対して、もっと関心を持てということでもあると思います。
しかし、当時は「愛情」という言葉に親近感が湧かず、どういう意味なのか分かりませんでした。
今になっていろいろ考えてみると、例えば、アメリカの家庭では「love you」という言葉を家庭の中で日常的に使いますが、日本では「愛している」はおろか「好き」という言葉も、家族間であまり口に出さないような気がします。
少なくとも、私の家庭ではそうでした。(他の家ではどうなのでしょうか?)
愛情や気持ちを言葉に出して相手に伝える、あるいは伝えてもらうという経験をしないまま大人になるので、私たち日本人は自己表現の苦手なタイプが多いのではないでしょうか。
もちろん、個人差はあると思いますので、そうした表現が得意な人は音楽に向いていると言えるかもしれません。
自分が発する言葉も表現の一つだと私は思っています。
音楽やダンスなど、何かを表現するというパフォーマンスにおいて、外国の人が優れているのは日常的に気持ちや感情を素直に言葉にして、口に出しているからかもしれません。
現代日本の社会ではだいぶ緩和されてきましたが、半世紀ほど前は、年功序列、男尊女卑が根強い風潮だったので、若者(特に女性)が自由に発言したり行動することはネガティブに捉えられていたという印象を受けます。
そもそも、日本人の民族としての特徴として、自己表現をあまりしないということが挙げられるのかもしれません。(根拠はありませんが。)
日本人のパフォーマンスは、ただ楽器の音を出し、振付通りに身体を動かすことを目的として、そこに演者の気持ちや感情が存在しない傾向にあると私は感じます。
そして、学生時代の自分の演奏もそうだったと、40代まで音楽を続けてきた身として、振り返ることができます。
元々の日本人の民族性を考慮すれば、そのように音楽に親しむことも悪いことではないと思いますが、それは外国の文化である音楽の本来の在り方ではないと、今まで共演してきた多くの人の演奏を聞いたり、クラシック以外のジャンルの音楽に触れたりする中で、知ることができました。
また、日本の人は超絶技巧を評価しがちです。
簡単そうに聞こえる曲よりは、難しそうな曲を弾いている人を凄いと思いますし、信じられないほど速く弾いたり、もの凄く高い音を出したりといった分かりやすく派手な技術に目を奪われて、音楽本来の表現に気がつかない、あるいは、問題としない場合がほとんどではないでしょうか。
(まさに「目食耳視」です。)
技術として音が出ていれば良く、そこにあるべき情熱やそれを伝えたいという気持ちを受け取りたいという聞き手側の要求がないため、日本のパフォーマーは見栄えは良いが中身のないハリボテを作るだけで満足してしまうのだと思います。
実際、そのようなハリボテを作るのも一苦労なのですが、それだけでは本当の意味での「表現」にはなっていないのです。
「表現」とはいったい何か、という問題については、私自身、長年向き合い続けている課題であり、(私が音楽に従事している限りは)今後も引き続き考えていかなければいけないと思っています。
有名な音楽大学を卒業していなくても、コンクールでの入賞歴がなくても、聞く人を無条件に感動させる無名のパフォーマーは日本に沢山います。
どんな経歴の人が、どんな技術を持っているかという視点ではなく、その人が出す音を、ただ空間に生み出された音として味わって欲しいと思います。
自分の味覚がいかに優れているか自慢したいだけの口コミをグルメサイトに書き込む、上から目線の批評家気取りの人のような無責任な言葉に惑わされず、自分の耳で聞き、感じたことを大切にして欲しいと思います。
いずれにしろ、こうしたイベントなどの音楽の集いが復活してきたことはとても喜ばしいことです。
来年も、音楽や様々なパフォーマンスを、沢山の人が楽しめるような世情であって欲しいと願います。
そして、舞台に立つ人たちが十二分に楽しめるように、私なりに手助けができたらと思います。
(2024年の総括④に続く)
校内の発表だったので、どこかのコンサートホールではなく、ちょっと古い視聴覚室に椅子を並べて客席を作ったという簡易の会場でしたが、プログラムが用意され、曲目紹介などの司会進行もしっかりしていて、適度な緊張感のある良い雰囲気の場でした。
いわゆる、進学校と呼ばれる頭のいい人たちが通っている高校なので、生徒はもちろん聞きに来ている人もおそらく、その高校のOBやOGであったり、生徒の家族や知り合いなのでしょう。
見る人見る人がみな、頭が良さそう(もしくは育ちがよさそう?)な佇まいで、なんでも人並みの呆けた私は場違いな気がして、少し居心地が悪かったです。
曲目は、ディズニーやジブリの映画音楽や、誰もが一度はどこかで聞いたことのありそうな流行りのJ-POPなどでした。
音程が悪かったり、音色がしっかりしていないところもありましたが、全員の息が合っていて、全体としてまとまりのある良い演奏でした。
頭の良い人たちは、アンサンブルに必要なポイントがちゃんと分かっているんだなぁと感心しながら聞いていました。
そして、客席で聞いているうちに、先ほどとは違った違和感を感じることに気がつきました。
聞いている人たちが、皆、微動だにしないのです。
リトルマーメイドや、トトロのテーマ曲のように軽快で楽しいリズムの音楽を、息を殺して、固唾をのむようにして、ただ見入っているのです。
そして、それはごく普通のことのようにしているのです。私にはその光景が異様なものに見えていたのですが。
まるで、自分が知らない世界に迷い込んでしまったかのようでした。
私は日常的に音楽に触れているせいか、何かの曲を聞くと、そのリズムや拍を感じ取って、自然に身体が音楽に合わせて動きます。
それは、ほんのちょっとの動きで、決して大袈裟な動きではありません。
例えば、風がそよそよと吹けば、木の枝葉がさわさわと揺れるような、ごく自然な反応です。
しかし、高校生たちの若々しい演奏を前にした動かざる人々は、音楽を聞いているのではなく、難しい講義を一言も漏らすまいと真剣に聞いているように思われました。
その光景は、とうてい音楽を楽しんでいるようには見えなかったのです。クラシック音楽に独特の、厳粛な雰囲気の曲ならば、その反応も頷けるのですが。
もちろん、せっかくの演奏の邪魔をしたくないという考えもあったのかもしれません。
その場にいた人たちを日本人の代表として考えてしまうのは極端だと思いますが、日本人が音楽と向き合う時の独特な態度について、改めて考えさせられた出来事でした。
=====
学生の時に、「もっと音に愛情を持って出しなさい」と指摘されたことがあります。
それは、無造作に音を出すなという意味であったと今は思いますが、自分が出した音に対して、もっと関心を持てということでもあると思います。
しかし、当時は「愛情」という言葉に親近感が湧かず、どういう意味なのか分かりませんでした。
今になっていろいろ考えてみると、例えば、アメリカの家庭では「love you」という言葉を家庭の中で日常的に使いますが、日本では「愛している」はおろか「好き」という言葉も、家族間であまり口に出さないような気がします。
少なくとも、私の家庭ではそうでした。(他の家ではどうなのでしょうか?)
愛情や気持ちを言葉に出して相手に伝える、あるいは伝えてもらうという経験をしないまま大人になるので、私たち日本人は自己表現の苦手なタイプが多いのではないでしょうか。
もちろん、個人差はあると思いますので、そうした表現が得意な人は音楽に向いていると言えるかもしれません。
自分が発する言葉も表現の一つだと私は思っています。
音楽やダンスなど、何かを表現するというパフォーマンスにおいて、外国の人が優れているのは日常的に気持ちや感情を素直に言葉にして、口に出しているからかもしれません。
現代日本の社会ではだいぶ緩和されてきましたが、半世紀ほど前は、年功序列、男尊女卑が根強い風潮だったので、若者(特に女性)が自由に発言したり行動することはネガティブに捉えられていたという印象を受けます。
そもそも、日本人の民族としての特徴として、自己表現をあまりしないということが挙げられるのかもしれません。(根拠はありませんが。)
日本人のパフォーマンスは、ただ楽器の音を出し、振付通りに身体を動かすことを目的として、そこに演者の気持ちや感情が存在しない傾向にあると私は感じます。
そして、学生時代の自分の演奏もそうだったと、40代まで音楽を続けてきた身として、振り返ることができます。
元々の日本人の民族性を考慮すれば、そのように音楽に親しむことも悪いことではないと思いますが、それは外国の文化である音楽の本来の在り方ではないと、今まで共演してきた多くの人の演奏を聞いたり、クラシック以外のジャンルの音楽に触れたりする中で、知ることができました。
また、日本の人は超絶技巧を評価しがちです。
簡単そうに聞こえる曲よりは、難しそうな曲を弾いている人を凄いと思いますし、信じられないほど速く弾いたり、もの凄く高い音を出したりといった分かりやすく派手な技術に目を奪われて、音楽本来の表現に気がつかない、あるいは、問題としない場合がほとんどではないでしょうか。
(まさに「目食耳視」です。)
技術として音が出ていれば良く、そこにあるべき情熱やそれを伝えたいという気持ちを受け取りたいという聞き手側の要求がないため、日本のパフォーマーは見栄えは良いが中身のないハリボテを作るだけで満足してしまうのだと思います。
実際、そのようなハリボテを作るのも一苦労なのですが、それだけでは本当の意味での「表現」にはなっていないのです。
「表現」とはいったい何か、という問題については、私自身、長年向き合い続けている課題であり、(私が音楽に従事している限りは)今後も引き続き考えていかなければいけないと思っています。
有名な音楽大学を卒業していなくても、コンクールでの入賞歴がなくても、聞く人を無条件に感動させる無名のパフォーマーは日本に沢山います。
どんな経歴の人が、どんな技術を持っているかという視点ではなく、その人が出す音を、ただ空間に生み出された音として味わって欲しいと思います。
自分の味覚がいかに優れているか自慢したいだけの口コミをグルメサイトに書き込む、上から目線の批評家気取りの人のような無責任な言葉に惑わされず、自分の耳で聞き、感じたことを大切にして欲しいと思います。
いずれにしろ、こうしたイベントなどの音楽の集いが復活してきたことはとても喜ばしいことです。
来年も、音楽や様々なパフォーマンスを、沢山の人が楽しめるような世情であって欲しいと願います。
そして、舞台に立つ人たちが十二分に楽しめるように、私なりに手助けができたらと思います。
(2024年の総括④に続く)
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