日本語の難しさは、一つの読み方に数種類の漢字が当てはまり、それぞれ言葉の意味が違ってくる点にあると言われたりします。
例えば、「おさまる」「おさめる」という読み方には「治」や「収」、「修」や「納」などの漢字を使い、今回のウイルス感染問題が「解決する」という意味では、「収」を使います。
しかし、ウイルスによって乱れた社会情勢が落ち着きを取り戻したと言う時には、「治」を用います。
いずれにしろ、口頭で伝える分にはどちらの漢字を使っているかなんて問題にならないと思います。
美術や音楽などの芸術分野で重要視される「創造力」ですが、この「そうぞう」という読み方にも「想像」という別の熟語が当てはまり、こちらも芸術作品の創造には欠かせない要素であると考えられているようです。
さて、クラシック音楽のジャンルにおいて、現代を生きる演奏家たちがどうして、百年も二百年も前の作品を相も変わらず演奏しているのか、ということを疑問に思ったことはありませんか?
クラシックの演奏会でお馴染みの作曲家といえば、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキーなどの人たちですが、これらの作曲家たちが活躍した時代には、録音技術がない、もしくは未熟だったため、実際に人間が繰り返し演奏する必要がありました。
しかし、現代では録音技術が進歩し、レコードやCDなどの形に演奏を残すことができますし、さらに、データ配信などの新しい媒体が次々に開発されています。
そのような状況の中で、何人もの演奏家が今まで通り、バッハやモーツァルトなどの作品を弾き続けることに、どんな意味があると思われますか?
確かに、一人一人の弾き方は同じではありませんし、同じ人がいつもまったく同じ演奏をできるわけでもありませんので、そういった違いを楽しみたい人もいると思います。
しかし、将来的には、AI(人工知能)が演奏すればいいじゃないかと考えている人がいるということも事実です。
今回のコロナ禍の影響もさることながら、今後もクラシックの音楽家たちは険しい道を歩まざるを得ない運命にあるようです。
そもそも、クラシック音楽は西洋の文化ですので、他国の文化をこれほどまでに、教育や推進する国というのも珍しいと思うこともあります。
では、一方、自国の文化である日本の伝統音楽が一般に馴染みがあるかと考えると、そうとも思えません。
日本の伝統芸能の場合、ほとんどが流派を継承するものですので、習得形態が特殊といえます。
言い換えれば、自主学習や独習が難しいのです。
ピアノのように、家で一人で毎日練習すれば上達するという話ではありません。
一つの流派には秘伝の技があり、それは学習書として本屋さんで買うことのできる類のものではないのです。
演者が表現するものは、あくまでも受け継いだ技であり、その人独自の新たな創造ではありません。
ただ、現在では、そうした伝統芸能のジャンルの中でも、より多くの人が楽しめるような斬新な演目に取り組もうという試みも見られます。
受け継ぐ(伝承)という概念にも、変革期が訪れているのかもしれません。
そんな日本の伝統音楽について分かりやすく紹介している《おもしろ日本音楽史》釣谷真弓(2000 東京堂出版)は、自国の文化にもっと目を向けて欲しいという著者の思いが伝わってくる本です。
どうして日本の学校教育における音楽では、日本音楽よりクラシック音楽を多く取り上げるのかということや、日本語の中に息づいている伝統芸能に因んだ口語表現など、知っておくと、誰かに話したくなる雑学も沢山見つけられます。
ウイルス感染が収まってきたら、友だちと一緒に読んで楽しむのもいいと思います。
そして、興味を持った芸能がありましたら、実際に公演に足を運んでみて下さいね。
※雑談動画【本の林】第二十三冊を再生するには、コチラをクリックするか、「本の林」で動画検索をお願いします。
例えば、「おさまる」「おさめる」という読み方には「治」や「収」、「修」や「納」などの漢字を使い、今回のウイルス感染問題が「解決する」という意味では、「収」を使います。
しかし、ウイルスによって乱れた社会情勢が落ち着きを取り戻したと言う時には、「治」を用います。
いずれにしろ、口頭で伝える分にはどちらの漢字を使っているかなんて問題にならないと思います。
美術や音楽などの芸術分野で重要視される「創造力」ですが、この「そうぞう」という読み方にも「想像」という別の熟語が当てはまり、こちらも芸術作品の創造には欠かせない要素であると考えられているようです。
さて、クラシック音楽のジャンルにおいて、現代を生きる演奏家たちがどうして、百年も二百年も前の作品を相も変わらず演奏しているのか、ということを疑問に思ったことはありませんか?
クラシックの演奏会でお馴染みの作曲家といえば、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキーなどの人たちですが、これらの作曲家たちが活躍した時代には、録音技術がない、もしくは未熟だったため、実際に人間が繰り返し演奏する必要がありました。
しかし、現代では録音技術が進歩し、レコードやCDなどの形に演奏を残すことができますし、さらに、データ配信などの新しい媒体が次々に開発されています。
そのような状況の中で、何人もの演奏家が今まで通り、バッハやモーツァルトなどの作品を弾き続けることに、どんな意味があると思われますか?
確かに、一人一人の弾き方は同じではありませんし、同じ人がいつもまったく同じ演奏をできるわけでもありませんので、そういった違いを楽しみたい人もいると思います。
しかし、将来的には、AI(人工知能)が演奏すればいいじゃないかと考えている人がいるということも事実です。
今回のコロナ禍の影響もさることながら、今後もクラシックの音楽家たちは険しい道を歩まざるを得ない運命にあるようです。
そもそも、クラシック音楽は西洋の文化ですので、他国の文化をこれほどまでに、教育や推進する国というのも珍しいと思うこともあります。
では、一方、自国の文化である日本の伝統音楽が一般に馴染みがあるかと考えると、そうとも思えません。
日本の伝統芸能の場合、ほとんどが流派を継承するものですので、習得形態が特殊といえます。
言い換えれば、自主学習や独習が難しいのです。
ピアノのように、家で一人で毎日練習すれば上達するという話ではありません。
一つの流派には秘伝の技があり、それは学習書として本屋さんで買うことのできる類のものではないのです。
演者が表現するものは、あくまでも受け継いだ技であり、その人独自の新たな創造ではありません。
ただ、現在では、そうした伝統芸能のジャンルの中でも、より多くの人が楽しめるような斬新な演目に取り組もうという試みも見られます。
受け継ぐ(伝承)という概念にも、変革期が訪れているのかもしれません。
そんな日本の伝統音楽について分かりやすく紹介している《おもしろ日本音楽史》釣谷真弓(2000 東京堂出版)は、自国の文化にもっと目を向けて欲しいという著者の思いが伝わってくる本です。
どうして日本の学校教育における音楽では、日本音楽よりクラシック音楽を多く取り上げるのかということや、日本語の中に息づいている伝統芸能に因んだ口語表現など、知っておくと、誰かに話したくなる雑学も沢山見つけられます。
ウイルス感染が収まってきたら、友だちと一緒に読んで楽しむのもいいと思います。
そして、興味を持った芸能がありましたら、実際に公演に足を運んでみて下さいね。
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