私の実家では、軽のマニュアル車に乗る伝統があり、私も自動車の免許を取る時、マニュアル車で教習を受けました。
時期的には既にオートマ車限定免許が導入されていたので、女の子はオートマ車で教習を受ける方が多かったと思います。
しかし、うちにはマニュアル車しかないので私に選択の余地はありませんでした。
教習は散々でした。クラッチとギアチェンジとアクセルの関係性をなかなか理解できず、何度もエンストをしまくり、規定時間を超過する羽目になりました。
(超過料金がかかるんですよね…)
路上に出てからも、交差点の右折レーンでエンストして、後続車に追突されるかもしれないという危険に教官をさらしたり、坂道発進でずり落ちて後続車にぶつかりそうになったり(オートマ車ではあり得ないこと)、ある意味危険なドライバー予備軍でした。
免許を取って、もうすぐ20年になる今ならば笑えますが、それでも自動車教習所の教官にだけはなりたくないと、しみじみ思います。
さて、最先端の車には自動センサーが備わっていて、それが事前に危険を察知して車を安全に保ってくれるといいます。
実際に乗ったことがないのでよく分からないのですが、この技術があれば、高速道路での玉突き事故や、高齢者の運転ミスなどがなくなって、交通事故が減るのかもしれません。
でも、私はこうした技術が進んでも、交通事故が絶対的に「減る」とは断言できないと思います。
なぜなら、この技術は交通事故の最終的な問題解決にはなっていないと思うからです。
車はいわば移動や輸送のための道具、機械です。
人間ではなく、機械に安全か危険かを判断させるのは、本当に安全なことなのでしょうか。
運転しているのは人間なのに、危険を察知するのは車というのは、よく考えるとおかしなことではありませんか。
操作する人間が危険を察知して、機械を止めるのが第一の原則だと思うのですが、それができない人は車を運転する資格がないのではないかと、思えてなりません。
もちろん、身体に何らかの障害を持っている人が安全に運転をしたいと思うことを咎めるつもりはありませんし、その方面の技術革新が進むのは素晴らしいことです。(それはまた別のお話です。)
私が気になるのは、自動車の運転に対する人々の緊張感が薄れてはいないかということです。
車は何トンという重い金属の塊であって、それに人間や荷物を載せて動かすために、ガソリンを燃やして(最近では発電して)走っているわけです。
例えば、花火か爆竹に火をつけて、街中を走り回っている人がいたら、当然、人々は驚いて危険だと思うでしょう。
そんな人が自分目がけて体当たりしてきたり、また、そんな人同士がぶつかり合ったら、どんなことになるか容易に想像ができるはずです。
危険が目に見えているかいないかの違いで、実際、車の場合そんなに簡単な話ではありません。
なにせ人間の力では動かせない重量のものが、人が走るより何倍もの速さで動き、時として制御不能になった車同士がぶつかり合うのです。
また、そんな塊が無防備な人間にぶつかれば、無傷で済まされないのは考えずとも分かるはずです。
つまり、車を運転することは自分が意図しなくても誰かに傷つけられる可能性がある、そして、逆に自分が誰かを傷つけてしまう場合もあり得るということなのです。
(こんなことは、私が改めて言わなくても、免許更新の講習時に警察の方から散々指導されていますよね。)
にもかかわらず、便利さや迅速さを求めるあまり、そういったリスクに対する危機感がドライバーの意識から遠のいているのかもしれません。
自動車保険は、それらのリスクに備えるためにあるのですが、そうした保険には加入せずに無謀運転をする人もいます。
まさに狂気の沙汰としか言いようがありません。
そもそも、安全か危険か、状況を判断して対処できない人間が車を運転してはいけないと思うのです。
だから、今の日本では18歳以下の子供は免許が取れないし、高齢者には任意で免許を返納してもらうわけです。そして、飲酒運転も当然禁止です。
それでも、無免許の若者や、泥酔した人間が車を運転して事故を起こすという事例が後を絶たないのは、決して車のブレーキ性能のせいではないと私は思います。
問題は車にあるのではなく、人間にあるのです。
いくら機械を安全にしても、使う側の人間自身が安全でなければ意味がないのです。
あまり運転が得意でない私が20年近く無事故なのは、自分には走るのが難しそうな道を絶対に走らないからです。
自分の運転技術に不安を抱えたまま無理に運転を続けて、もし事故を起こしてしまった時、私にはそのすべての責任を取れる自信がありませんし、実際、取ることはできないと思うからです。
とはいえ、私は田舎住まいですし、時間に融通のきく仕事ですから、自動車への依存度は他の人よりも低いと言えます。
利便性が求められる現代社会では、「できない」なんて言ってられない時の方が多いですよね。
ですが、自動車の運転だけでなく、危ないと感じる何かがあるのならば「やらない」と決める勇気も時には必要だと思うのです。
世間的な風潮なのかもしれませんが、自分の能力を見極めて、きちんとブレーキを踏める人が少なくなっているような気がします。
人生には助手席に座って補助ブレーキを踏んでくれる教官はいませんし、まして自動的に止まって安全を確保してくれる便利なシステムは存在しません。
そして、自分が引き起こしたことの責任を代わりに取ってくれる人もいません。
車の運転も、人生も自己責任です。
話は変わりますが、私の住んでいる田舎には暴走族が駆逐されずに生き残っています。
人家の少ない、寂れた畑の一本道を徒党を組んで走ることの何が楽しいのか(何に対しての反抗なの?大自然?)まったく理解できませんが、長閑な田舎の夜が台無しです。
自動ブレーキを考えるくらいなら、バイクが爆音を立てて暴走できない装置を開発してくれないかなぁと思うこの夜更けです。
時期的には既にオートマ車限定免許が導入されていたので、女の子はオートマ車で教習を受ける方が多かったと思います。
しかし、うちにはマニュアル車しかないので私に選択の余地はありませんでした。
教習は散々でした。クラッチとギアチェンジとアクセルの関係性をなかなか理解できず、何度もエンストをしまくり、規定時間を超過する羽目になりました。
(超過料金がかかるんですよね…)
路上に出てからも、交差点の右折レーンでエンストして、後続車に追突されるかもしれないという危険に教官をさらしたり、坂道発進でずり落ちて後続車にぶつかりそうになったり(オートマ車ではあり得ないこと)、ある意味危険なドライバー予備軍でした。
免許を取って、もうすぐ20年になる今ならば笑えますが、それでも自動車教習所の教官にだけはなりたくないと、しみじみ思います。
さて、最先端の車には自動センサーが備わっていて、それが事前に危険を察知して車を安全に保ってくれるといいます。
実際に乗ったことがないのでよく分からないのですが、この技術があれば、高速道路での玉突き事故や、高齢者の運転ミスなどがなくなって、交通事故が減るのかもしれません。
でも、私はこうした技術が進んでも、交通事故が絶対的に「減る」とは断言できないと思います。
なぜなら、この技術は交通事故の最終的な問題解決にはなっていないと思うからです。
車はいわば移動や輸送のための道具、機械です。
人間ではなく、機械に安全か危険かを判断させるのは、本当に安全なことなのでしょうか。
運転しているのは人間なのに、危険を察知するのは車というのは、よく考えるとおかしなことではありませんか。
操作する人間が危険を察知して、機械を止めるのが第一の原則だと思うのですが、それができない人は車を運転する資格がないのではないかと、思えてなりません。
もちろん、身体に何らかの障害を持っている人が安全に運転をしたいと思うことを咎めるつもりはありませんし、その方面の技術革新が進むのは素晴らしいことです。(それはまた別のお話です。)
私が気になるのは、自動車の運転に対する人々の緊張感が薄れてはいないかということです。
車は何トンという重い金属の塊であって、それに人間や荷物を載せて動かすために、ガソリンを燃やして(最近では発電して)走っているわけです。
例えば、花火か爆竹に火をつけて、街中を走り回っている人がいたら、当然、人々は驚いて危険だと思うでしょう。
そんな人が自分目がけて体当たりしてきたり、また、そんな人同士がぶつかり合ったら、どんなことになるか容易に想像ができるはずです。
危険が目に見えているかいないかの違いで、実際、車の場合そんなに簡単な話ではありません。
なにせ人間の力では動かせない重量のものが、人が走るより何倍もの速さで動き、時として制御不能になった車同士がぶつかり合うのです。
また、そんな塊が無防備な人間にぶつかれば、無傷で済まされないのは考えずとも分かるはずです。
つまり、車を運転することは自分が意図しなくても誰かに傷つけられる可能性がある、そして、逆に自分が誰かを傷つけてしまう場合もあり得るということなのです。
(こんなことは、私が改めて言わなくても、免許更新の講習時に警察の方から散々指導されていますよね。)
にもかかわらず、便利さや迅速さを求めるあまり、そういったリスクに対する危機感がドライバーの意識から遠のいているのかもしれません。
自動車保険は、それらのリスクに備えるためにあるのですが、そうした保険には加入せずに無謀運転をする人もいます。
まさに狂気の沙汰としか言いようがありません。
そもそも、安全か危険か、状況を判断して対処できない人間が車を運転してはいけないと思うのです。
だから、今の日本では18歳以下の子供は免許が取れないし、高齢者には任意で免許を返納してもらうわけです。そして、飲酒運転も当然禁止です。
それでも、無免許の若者や、泥酔した人間が車を運転して事故を起こすという事例が後を絶たないのは、決して車のブレーキ性能のせいではないと私は思います。
問題は車にあるのではなく、人間にあるのです。
いくら機械を安全にしても、使う側の人間自身が安全でなければ意味がないのです。
あまり運転が得意でない私が20年近く無事故なのは、自分には走るのが難しそうな道を絶対に走らないからです。
自分の運転技術に不安を抱えたまま無理に運転を続けて、もし事故を起こしてしまった時、私にはそのすべての責任を取れる自信がありませんし、実際、取ることはできないと思うからです。
とはいえ、私は田舎住まいですし、時間に融通のきく仕事ですから、自動車への依存度は他の人よりも低いと言えます。
利便性が求められる現代社会では、「できない」なんて言ってられない時の方が多いですよね。
ですが、自動車の運転だけでなく、危ないと感じる何かがあるのならば「やらない」と決める勇気も時には必要だと思うのです。
世間的な風潮なのかもしれませんが、自分の能力を見極めて、きちんとブレーキを踏める人が少なくなっているような気がします。
人生には助手席に座って補助ブレーキを踏んでくれる教官はいませんし、まして自動的に止まって安全を確保してくれる便利なシステムは存在しません。
そして、自分が引き起こしたことの責任を代わりに取ってくれる人もいません。
車の運転も、人生も自己責任です。
話は変わりますが、私の住んでいる田舎には暴走族が駆逐されずに生き残っています。
人家の少ない、寂れた畑の一本道を徒党を組んで走ることの何が楽しいのか(何に対しての反抗なの?大自然?)まったく理解できませんが、長閑な田舎の夜が台無しです。
自動ブレーキを考えるくらいなら、バイクが爆音を立てて暴走できない装置を開発してくれないかなぁと思うこの夜更けです。
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