☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
「理解できません」とギーベンラートはため息をついた。「あれほど才能があったのに、それにすべてがうまく
いっていたのに。学校も、試験も―それなのに、突然不幸が次々に襲ってきて!」
靴屋は教会の庭の門を通っていくフロックコートの人々を指差した。
「あそこに行く紳士方も」と彼は小声で言った。「ハンスが破滅するのに手を貸したんですよ」
「何ですって?」と父親は飛び上がり、疑念と驚きをこめて靴屋を見つめた。「なんてこった、どうしてまた?」
「落ち着いてください、お隣さん。わたしが言ったのは学校の先生たちのことだけです」
「どうして?いったいなぜ?」「いや、これ以上はやめましょう。あなたとわたし、我々も、あの子に
いろいろとしてやれたことを怠ったのではありませんかな?」
『車輪の下で』ヘッセ著/松永美穂訳(2007)光文社より
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』がどんな作品かということは、もうかなりの人がすでに知っているだろうと思います。
私がこの作品を初めて読んだのは、高校生の時でした。真面目で努力家の主人公。けれど、内向的で他人と仲良くなるのが苦手(というレベルではないが)。
何故勉強するのか分からないまま勉強し、何になりたいのか、どんな人生を送りたいのか、ゆっくり考えたいのに社会はそれを待ってはくれない。
ただ優秀になるために社会が理想と認める素晴らしい人間になるために、追い立てられるように「何か」をしなければいけない。
目的がないまま結果を求められる。こうした状況は、ヘッセが描いた社会と、現在の社会とではあまり変わりがないように思えます。
そして、そんな社会に生きる人間もまた、相変わらずの愚行を繰り返しているだけなのかもしれません。
人はそれぞれ異なる志向を抱く生き物です。
この極当たり前のことが見えなくなっている人が社会にはいかに多くいることか。
男の子も女の子も同じように育てることは、一見、平等な接し方のように思われますが、体格も体力もそれぞれに違うのですから、どちらか一方のやり方をもう一方にも押し付けることは必ずしも正しいことではありません。
私の父は、私がまだ保育園に通っていた時、小学生の兄たちと同じように、私が食事を大量に、ガツガツと食べないことを責めました。
私自身は、普通に食事をしていたつもりなのですが、父は大声で「もっとちゃんと食べろ!馬鹿野郎!」などの罵詈雑言を私に浴びせたのです。
子どもだったので、怒鳴りつけられたことが怖くて、私は泣いてしまいましたが、父は「なんで泣くんだ!泣くな!」とますます激高したのです。
子どもの時、私は父と食卓にいることが苦痛でした。早く食べ終わって、自分の部屋に戻りたいといつも思っていました。
母が作ってくれる料理は美味しくて、大好きだったのに、それを味わう楽しみは父によって台無しにされていました。
高校生、大学生になって、帰宅時間が他の家族よりも遅くなると、食事は各自別々にとることになったので、やっと苦痛から解放されたと思いました。
今でも、私は食事どころか他のことだって、父と一緒に行動したいとは思いません。
父は娘の私を「自分に従うべき存在」とは認識しているでしょうが、「一人の人間」としては見ていないのです。
そうして、無意識に私の人間性を否定しているのです。それは、私に対してだけでなく、私の母に対しても同様でした。
私は母が父から心無い仕打ちをされて泣いている姿を何度も見ました。
母が傷ついて、不愉快のあまり泣いていたって、父は決して謝ることもなく、自分の行いを改めることもしませんでした。
私の目には、父という人間には自己愛しか備わっていないように見えます。
自分が快適に生きるために家族を利用している人間。それが私の父です。
私が父のことをそんな人間だと考えていることなど、父は思いもしないと思いますし、そんなこと父にとってはどうでもいいことなんだと思います。
血を分けた親子だからといって、お互いを理解し合い、思いやりを持って接することができるわけではないということを、私は父から学びました。
そういった関係は、時が経っても事態が良くなったり、ある日突然問題が解消されたりはしません。
元来、思いやりのない人間は年齢を重ねたから、思いやりが持てるようになるとは限りませんし、他人のことを理解できない人も同様です。
娘も一人の人間なのだと思えない父親は、おそらく死ぬまでそのままでしょう。
苦しい状況を変えるには、お互いに離れて暮らすしかないのだと思います。
周囲の人たちにとっては他人事ですし、よその家庭の面倒くさい事情に関わりたい人はよっぽどのお節介な人だけで、普通は「変な家族だな」と心のどこかで感じてはいても、見て見ぬふりをするのが一般的です。(今の私もそうするでしょう)
子どもの私が家族の中で、ストレスを抱えて日々を過ごしていることに気づいていた人がどれくらいいたのか分かりませんが、実際に私に声をかけてくれた人が一人だけいました。
ほとんどの大人が、父に対して好意的(もしくは、見て見ぬふり)だった中、その人だけは「お父さんに負けちゃダメだよ」と言ってくれました。
「お兄さんたちに潰されたらダメだ」とも。
その時、私は中学生くらいでしたが、今思うとその人には父が自己中心的で偏った考えを持った人間に見えており、兄たちにもそのDNAが引き継がれていると感じたのかもしれません。
中学生の女の子なら、自分の好きなようにオシャレを楽しむのが自然であるところ、その頃の私の外見は、髪を短く切り、質素なトレーナーにジーンズ、スニーカーというものでした。
当時父が、私の髪を伸ばすな、女の子みたいな恰好をさせるなと母によく言っていました。
そのおかげで、男の子によく見間違われたのを覚えています。
私の姿は、まるで兄たちのオマケのように見えていたのかもしれません。私に「負けちゃダメだ」と言ってくれた人には、私の家族は異様にみえたことでしょう。
家族の中で、私だけがなんとなく浮いた存在なのを、その人は鋭く感じとって、私に言葉をくれたのだと思います。
他人のことや、その人がおかれた状況を適切に理解することは難しいと思います。
そして、正しく理解できたとしても、よその家庭の事情に介入することはもっと難しいでしょう。
後にも先にもたった一人、一度だけの出来事でしたが、誰にも理解されない苦しみを分かってもらえたこと、そして、決して父の考えや教育が正しくないと判断する大人がいたことが、私の心を支えてくれました。
『車輪の下で』に登場する靴屋のおじさんは、唯一、ハンスを理解できる人でした。
願わくば、たった一人でも自分の理解者がいるということをわずかな希望として、ハンスには生きのびて欲しかったと、中年オバサンは思わずにはいられません。
(理解者がいたからなんだって思う人もいるかもしれないけれどね。つらい現実に耐えられる希望も人によって違うし、耐え続けて長く生きたとしても、それで良かったかどうか決めるのは他人ではないし、嗚呼、人生って難しいですね。)
ヒトコトリのコトノハ vol.74
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●本日のコトノハ●
「理解できません」とギーベンラートはため息をついた。「あれほど才能があったのに、それにすべてがうまく
いっていたのに。学校も、試験も―それなのに、突然不幸が次々に襲ってきて!」
靴屋は教会の庭の門を通っていくフロックコートの人々を指差した。
「あそこに行く紳士方も」と彼は小声で言った。「ハンスが破滅するのに手を貸したんですよ」
「何ですって?」と父親は飛び上がり、疑念と驚きをこめて靴屋を見つめた。「なんてこった、どうしてまた?」
「落ち着いてください、お隣さん。わたしが言ったのは学校の先生たちのことだけです」
「どうして?いったいなぜ?」「いや、これ以上はやめましょう。あなたとわたし、我々も、あの子に
いろいろとしてやれたことを怠ったのではありませんかな?」
『車輪の下で』ヘッセ著/松永美穂訳(2007)光文社より
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』がどんな作品かということは、もうかなりの人がすでに知っているだろうと思います。
私がこの作品を初めて読んだのは、高校生の時でした。真面目で努力家の主人公。けれど、内向的で他人と仲良くなるのが苦手(というレベルではないが)。
何故勉強するのか分からないまま勉強し、何になりたいのか、どんな人生を送りたいのか、ゆっくり考えたいのに社会はそれを待ってはくれない。
ただ優秀になるために社会が理想と認める素晴らしい人間になるために、追い立てられるように「何か」をしなければいけない。
目的がないまま結果を求められる。こうした状況は、ヘッセが描いた社会と、現在の社会とではあまり変わりがないように思えます。
そして、そんな社会に生きる人間もまた、相変わらずの愚行を繰り返しているだけなのかもしれません。
人はそれぞれ異なる志向を抱く生き物です。
この極当たり前のことが見えなくなっている人が社会にはいかに多くいることか。
男の子も女の子も同じように育てることは、一見、平等な接し方のように思われますが、体格も体力もそれぞれに違うのですから、どちらか一方のやり方をもう一方にも押し付けることは必ずしも正しいことではありません。
私の父は、私がまだ保育園に通っていた時、小学生の兄たちと同じように、私が食事を大量に、ガツガツと食べないことを責めました。
私自身は、普通に食事をしていたつもりなのですが、父は大声で「もっとちゃんと食べろ!馬鹿野郎!」などの罵詈雑言を私に浴びせたのです。
子どもだったので、怒鳴りつけられたことが怖くて、私は泣いてしまいましたが、父は「なんで泣くんだ!泣くな!」とますます激高したのです。
子どもの時、私は父と食卓にいることが苦痛でした。早く食べ終わって、自分の部屋に戻りたいといつも思っていました。
母が作ってくれる料理は美味しくて、大好きだったのに、それを味わう楽しみは父によって台無しにされていました。
高校生、大学生になって、帰宅時間が他の家族よりも遅くなると、食事は各自別々にとることになったので、やっと苦痛から解放されたと思いました。
今でも、私は食事どころか他のことだって、父と一緒に行動したいとは思いません。
父は娘の私を「自分に従うべき存在」とは認識しているでしょうが、「一人の人間」としては見ていないのです。
そうして、無意識に私の人間性を否定しているのです。それは、私に対してだけでなく、私の母に対しても同様でした。
私は母が父から心無い仕打ちをされて泣いている姿を何度も見ました。
母が傷ついて、不愉快のあまり泣いていたって、父は決して謝ることもなく、自分の行いを改めることもしませんでした。
私の目には、父という人間には自己愛しか備わっていないように見えます。
自分が快適に生きるために家族を利用している人間。それが私の父です。
私が父のことをそんな人間だと考えていることなど、父は思いもしないと思いますし、そんなこと父にとってはどうでもいいことなんだと思います。
血を分けた親子だからといって、お互いを理解し合い、思いやりを持って接することができるわけではないということを、私は父から学びました。
そういった関係は、時が経っても事態が良くなったり、ある日突然問題が解消されたりはしません。
元来、思いやりのない人間は年齢を重ねたから、思いやりが持てるようになるとは限りませんし、他人のことを理解できない人も同様です。
娘も一人の人間なのだと思えない父親は、おそらく死ぬまでそのままでしょう。
苦しい状況を変えるには、お互いに離れて暮らすしかないのだと思います。
周囲の人たちにとっては他人事ですし、よその家庭の面倒くさい事情に関わりたい人はよっぽどのお節介な人だけで、普通は「変な家族だな」と心のどこかで感じてはいても、見て見ぬふりをするのが一般的です。(今の私もそうするでしょう)
子どもの私が家族の中で、ストレスを抱えて日々を過ごしていることに気づいていた人がどれくらいいたのか分かりませんが、実際に私に声をかけてくれた人が一人だけいました。
ほとんどの大人が、父に対して好意的(もしくは、見て見ぬふり)だった中、その人だけは「お父さんに負けちゃダメだよ」と言ってくれました。
「お兄さんたちに潰されたらダメだ」とも。
その時、私は中学生くらいでしたが、今思うとその人には父が自己中心的で偏った考えを持った人間に見えており、兄たちにもそのDNAが引き継がれていると感じたのかもしれません。
中学生の女の子なら、自分の好きなようにオシャレを楽しむのが自然であるところ、その頃の私の外見は、髪を短く切り、質素なトレーナーにジーンズ、スニーカーというものでした。
当時父が、私の髪を伸ばすな、女の子みたいな恰好をさせるなと母によく言っていました。
そのおかげで、男の子によく見間違われたのを覚えています。
私の姿は、まるで兄たちのオマケのように見えていたのかもしれません。私に「負けちゃダメだ」と言ってくれた人には、私の家族は異様にみえたことでしょう。
家族の中で、私だけがなんとなく浮いた存在なのを、その人は鋭く感じとって、私に言葉をくれたのだと思います。
他人のことや、その人がおかれた状況を適切に理解することは難しいと思います。
そして、正しく理解できたとしても、よその家庭の事情に介入することはもっと難しいでしょう。
後にも先にもたった一人、一度だけの出来事でしたが、誰にも理解されない苦しみを分かってもらえたこと、そして、決して父の考えや教育が正しくないと判断する大人がいたことが、私の心を支えてくれました。
『車輪の下で』に登場する靴屋のおじさんは、唯一、ハンスを理解できる人でした。
願わくば、たった一人でも自分の理解者がいるということをわずかな希望として、ハンスには生きのびて欲しかったと、中年オバサンは思わずにはいられません。
(理解者がいたからなんだって思う人もいるかもしれないけれどね。つらい現実に耐えられる希望も人によって違うし、耐え続けて長く生きたとしても、それで良かったかどうか決めるのは他人ではないし、嗚呼、人生って難しいですね。)
ヒトコトリのコトノハ vol.74
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