☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
叙事詩にせよ抒情詩にせよ、前五世紀までは文字によって発表されることはまずなく、詩人が自作を或いは朗唱、
或いはほんとうの歌の形式で発表した。したがってこれは、ただ読むだけのものとちがって、言葉のリズム、
音の高低や耳に訴える美醜が言葉の意味内容とは別に、大きな鑑賞の要素となる。極端にいえば、詩はなかば
文学であるとともに、なかばは音楽だった。
『ギリシアの詩』高津春繫(1956)岩波書店より
古代ギリシアでは、即興で詩を作りながら、それを歌いあげ、さらに同時に舞い踊ることを「ムーサ」という言葉で呼び、これが現在の音楽(music)の語源となったと言われています。
つまり、詩を作ることも、歌うことも、踊ることも「音楽」(音を楽しむ行為)だったと考えられるのです。
とはいえ、録音どころか文書の記録もないはるか昔のことですから、実際どうであったかは想像に頼るより他にありません。
今の社会で、自作の詩を歌いながら踊っている人が街なかにいるとしたら、周囲の人たちは多少なりとも困惑することは間違いないでしょう。
日本の戦国武将、織田信長は能が好きで、お気に入りのフレーズを口ずさみながら舞い踊ったというエピソードを聞いたことがあります。
これもあくまでも伝承ですので、真偽のほどは定かではありませんが、人は本能的に歌いながら踊りたいという衝動を持っている生き物なのかもしれません。(みなさんはどうですか?)
いずれにしろ、洋の東西を問わず、なんらかの音に親しみたいと思う要求は、古来から人間が共通に抱いているものと言えそうです。
何故、人は音楽を必要とするのか、楽器はどのように誕生したのかという謎を解くカギはこのあたりにあるのかもしれません。
古代ギリシアでは、人の声、風の音、鳥の声、打ち寄せる波の音といった、自分たちが生きる世界の森羅万象の音を歌や楽器を介して自らが生み出し、それらを調和させることが音楽の真髄であり、すなわち「音楽における調和」は「宇宙の調和」であると考えられていたと推測できます。
現代社会において「調和」というと、迎合や同調圧力と見られがちですが、ピアノやヴァイオリン、フルートなど各楽器がそれぞれの音色の個性を持ったまま響き合うように、人間関係においても自分は自分のままで、相手の個性を否定することなく共存(調和)できる世界が出来上がってもいいのではないかと思うのです。
個性を守りながら孤独でいるか、個性を消して相手と同じ音色に染まるかの二択しかない社会に響く音はなんと単調で味気ないことでしょう。
音が響き合わなくなった世界が最終的にどこへ行き着くのか、古代ギリシアの時代に既に人々は経験していたというのに、それが現代においても尚、解消されることがないのは人間が決して優れた存在ではないということの証のような気がします。
もしかしたら、音楽を愛する心、楽器を演奏したいという欲求は、無意識に調和(平和)を願う人間の本能から発しているのかもしれません。
延暦寺を焼き討ちするなど、戦いに明け暮れた織田信長が能を舞い踊ったという話が事実であるのならば、実は彼も本能的には調和を願っていたと考えることもできると思います。
人間は、音楽を使うかどうかは別として、そろそろ調和の方法を身に着けるべきだと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.47
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●本日のコトノハ●
叙事詩にせよ抒情詩にせよ、前五世紀までは文字によって発表されることはまずなく、詩人が自作を或いは朗唱、
或いはほんとうの歌の形式で発表した。したがってこれは、ただ読むだけのものとちがって、言葉のリズム、
音の高低や耳に訴える美醜が言葉の意味内容とは別に、大きな鑑賞の要素となる。極端にいえば、詩はなかば
文学であるとともに、なかばは音楽だった。
『ギリシアの詩』高津春繫(1956)岩波書店より
古代ギリシアでは、即興で詩を作りながら、それを歌いあげ、さらに同時に舞い踊ることを「ムーサ」という言葉で呼び、これが現在の音楽(music)の語源となったと言われています。
つまり、詩を作ることも、歌うことも、踊ることも「音楽」(音を楽しむ行為)だったと考えられるのです。
とはいえ、録音どころか文書の記録もないはるか昔のことですから、実際どうであったかは想像に頼るより他にありません。
今の社会で、自作の詩を歌いながら踊っている人が街なかにいるとしたら、周囲の人たちは多少なりとも困惑することは間違いないでしょう。
日本の戦国武将、織田信長は能が好きで、お気に入りのフレーズを口ずさみながら舞い踊ったというエピソードを聞いたことがあります。
これもあくまでも伝承ですので、真偽のほどは定かではありませんが、人は本能的に歌いながら踊りたいという衝動を持っている生き物なのかもしれません。(みなさんはどうですか?)
いずれにしろ、洋の東西を問わず、なんらかの音に親しみたいと思う要求は、古来から人間が共通に抱いているものと言えそうです。
何故、人は音楽を必要とするのか、楽器はどのように誕生したのかという謎を解くカギはこのあたりにあるのかもしれません。
古代ギリシアでは、人の声、風の音、鳥の声、打ち寄せる波の音といった、自分たちが生きる世界の森羅万象の音を歌や楽器を介して自らが生み出し、それらを調和させることが音楽の真髄であり、すなわち「音楽における調和」は「宇宙の調和」であると考えられていたと推測できます。
現代社会において「調和」というと、迎合や同調圧力と見られがちですが、ピアノやヴァイオリン、フルートなど各楽器がそれぞれの音色の個性を持ったまま響き合うように、人間関係においても自分は自分のままで、相手の個性を否定することなく共存(調和)できる世界が出来上がってもいいのではないかと思うのです。
個性を守りながら孤独でいるか、個性を消して相手と同じ音色に染まるかの二択しかない社会に響く音はなんと単調で味気ないことでしょう。
音が響き合わなくなった世界が最終的にどこへ行き着くのか、古代ギリシアの時代に既に人々は経験していたというのに、それが現代においても尚、解消されることがないのは人間が決して優れた存在ではないということの証のような気がします。
もしかしたら、音楽を愛する心、楽器を演奏したいという欲求は、無意識に調和(平和)を願う人間の本能から発しているのかもしれません。
延暦寺を焼き討ちするなど、戦いに明け暮れた織田信長が能を舞い踊ったという話が事実であるのならば、実は彼も本能的には調和を願っていたと考えることもできると思います。
人間は、音楽を使うかどうかは別として、そろそろ調和の方法を身に着けるべきだと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.47
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