☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
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●本日のコトノハ●
ああ、あなたにわたしを聖女にする力があったら!それがわたしのたった一つの願いなのに!
けれどあなたは、わたしをこの世をあてもなくさ迷う何千、何万もの人間に似せようとしたがっているだけ。
わたしを娘に、母親に、妻にしたがったわたしの父とまったく同じように―あなたはわたしをそんな尼僧に
したいと思っている。...(中略)...聖女になれないくらいなら、いっそ悪魔に憑かれていた方がましよ。
『尼僧ヨアンナ』イヴァシュキェヴィッチ作/関口時正訳(1997)岩波書店より
現代社会を生きていく中で、何か特別な存在になりたいと思ったことはありますか?
私の個人的な経験から言うと、中学生や高校生の時にはむしろ、社会の風潮として「特別にならなければならない」「優れた能力を持っていなければならない」と強要されていたように感じます。
高い学力や優れた技能を身に着け、世間でレベルが高いとされている大学に進学できなければ、社会の一員としては受け入れられないというような扱いを受けている気分でした。
誰もが認めるような優れた存在になれないのならば、その人の人生は意味がないと判断されて当然でしたし、そのことに何の疑問も湧かないような社会だったように思います。(最近では、その傾向が弱まりつつあると感じており、羨ましいような、自分が損な人生を送っているような気持になります。)
その中で、私は見事に「意味のない」人生を歩むことになりましたし、四十歳を過ぎるまで、どうにか社会から脱落しないように、今にも切れそうな細い糸を必死につかんで、世間の冷たい風に吹き飛ばされそうになりながらひたすら耐え忍ぶ人生を送りました。
私には「特別な存在になりたい」などという野望を抱く余裕などありませんでした。
せめて、人並みに普通の人生を歩みたいと、ずっと思っていました。そして、いつも同じ疑問が浮かびました。
「普通ってなんだろう?」「普通に生活を送っている人は、どんな人なのだろう?」
いくら考えても答えは分かりませんでした。
もしかしたら、他人から見れば私も「普通の人」に見えるのかもしれませんが、正直なところ、私には今の自分が「普通」かどうかの判断がつかないのです。
ただ、尼僧ヨアンナが訴えるように、周囲から「こんな人間になれ」と無言のうちに決められた役目を押し付けられているような息苦しさを感じたことは何度もありました。
二十代、三十代の頃は、自分が全く望んでいないことなのに、そのことに対しての不満も聞き入れてもらえない、にもかかわらず他にできることがないのでその状況から抜け出すことができないという精神的苦しみを嫌と言うほど味わいました。
それが、不思議なことに、ある程度年齢が高くなると、周囲の人たちは何も言ってこなくなるのです。
それに、四十代になれば、自分から付き合う人間を選ぶこともできます。今ならば、他人の生き方を勝手に決めようとする人間とは関わらないという方法で自分の心を守ることができます。それができないのならば、尼僧ヨアンナのように、聖女か悪魔のどちらかになって、不愉快な人たちを遠ざけるより他に手はないのかもしれません。
実際、人生設計を考え始める若い頃に、理不尽に選択権や決定権を奪われてしまっては、いくら年齢を重ねてから自由になれたとしても、もはや手遅れ感は拭えないのです。
余談ですが、私の父は私が大学受験の時に、音楽大学以外の受験を許さなかったにも関わらず、今になって「音楽以外の仕事をすればいいじゃないか」と言ってくるのです。(現在は音楽教室でバイオリンを教えています。)
私が以前、派遣会社に登録して音楽以外の仕事をしていた時は、父は「そんな下らない仕事をして情けない」と言わんばかりの態度でいました。
そのことについて、私は父に何も言いませんでしたが、懸命に生きようとしている努力を踏み潰されているような気持ちになりましたし、父が私に対して「父の気に入るように行動するべきだ」という考えを持っていることを再確認しました。
父の望みは、「音楽家として活躍する子供を育てた親」として周囲から尊敬されることだと思います。
私は父に振り回されてばかりの人生を送っていますが、残念なことに十分な経済力が無いために、実家で父と生活せざるを得ない状況です。
家族と縁を切るのは難しいですし、私の場合、縁を切って生きていける力がありません。
精神的に苦しい状況は今後も続くとは思いますが、父も高齢なので、あと10年も我慢すれば解決する問題かもしれないと思い、日々をやり過ごしています。
(余談が長くなりました。)
本作は、実際に起きた悪魔憑き騒動をもとに書かれたフィクションですが、このような恐ろしい事件を引き起こしたのは神でも悪魔でもなく、人が何気なく抱く様々な心理と、それらが産み出してしまう誤解や履違え、偏った考えであり、これを看過している人間社会そのものが元凶であるということを示唆するものであり、このことは、現代社会にも脈々と受け継がれ、蔓延している病原菌のようなものとなっているのです。
このような恐ろしい結果を招かないように、手指だけでなく、心の消毒もこまめにしたいですね。
ヒトコトリのコトノハ vol.46
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●本日のコトノハ●
ああ、あなたにわたしを聖女にする力があったら!それがわたしのたった一つの願いなのに!
けれどあなたは、わたしをこの世をあてもなくさ迷う何千、何万もの人間に似せようとしたがっているだけ。
わたしを娘に、母親に、妻にしたがったわたしの父とまったく同じように―あなたはわたしをそんな尼僧に
したいと思っている。...(中略)...聖女になれないくらいなら、いっそ悪魔に憑かれていた方がましよ。
『尼僧ヨアンナ』イヴァシュキェヴィッチ作/関口時正訳(1997)岩波書店より
現代社会を生きていく中で、何か特別な存在になりたいと思ったことはありますか?
私の個人的な経験から言うと、中学生や高校生の時にはむしろ、社会の風潮として「特別にならなければならない」「優れた能力を持っていなければならない」と強要されていたように感じます。
高い学力や優れた技能を身に着け、世間でレベルが高いとされている大学に進学できなければ、社会の一員としては受け入れられないというような扱いを受けている気分でした。
誰もが認めるような優れた存在になれないのならば、その人の人生は意味がないと判断されて当然でしたし、そのことに何の疑問も湧かないような社会だったように思います。(最近では、その傾向が弱まりつつあると感じており、羨ましいような、自分が損な人生を送っているような気持になります。)
その中で、私は見事に「意味のない」人生を歩むことになりましたし、四十歳を過ぎるまで、どうにか社会から脱落しないように、今にも切れそうな細い糸を必死につかんで、世間の冷たい風に吹き飛ばされそうになりながらひたすら耐え忍ぶ人生を送りました。
私には「特別な存在になりたい」などという野望を抱く余裕などありませんでした。
せめて、人並みに普通の人生を歩みたいと、ずっと思っていました。そして、いつも同じ疑問が浮かびました。
「普通ってなんだろう?」「普通に生活を送っている人は、どんな人なのだろう?」
いくら考えても答えは分かりませんでした。
もしかしたら、他人から見れば私も「普通の人」に見えるのかもしれませんが、正直なところ、私には今の自分が「普通」かどうかの判断がつかないのです。
ただ、尼僧ヨアンナが訴えるように、周囲から「こんな人間になれ」と無言のうちに決められた役目を押し付けられているような息苦しさを感じたことは何度もありました。
二十代、三十代の頃は、自分が全く望んでいないことなのに、そのことに対しての不満も聞き入れてもらえない、にもかかわらず他にできることがないのでその状況から抜け出すことができないという精神的苦しみを嫌と言うほど味わいました。
それが、不思議なことに、ある程度年齢が高くなると、周囲の人たちは何も言ってこなくなるのです。
それに、四十代になれば、自分から付き合う人間を選ぶこともできます。今ならば、他人の生き方を勝手に決めようとする人間とは関わらないという方法で自分の心を守ることができます。それができないのならば、尼僧ヨアンナのように、聖女か悪魔のどちらかになって、不愉快な人たちを遠ざけるより他に手はないのかもしれません。
実際、人生設計を考え始める若い頃に、理不尽に選択権や決定権を奪われてしまっては、いくら年齢を重ねてから自由になれたとしても、もはや手遅れ感は拭えないのです。
余談ですが、私の父は私が大学受験の時に、音楽大学以外の受験を許さなかったにも関わらず、今になって「音楽以外の仕事をすればいいじゃないか」と言ってくるのです。(現在は音楽教室でバイオリンを教えています。)
私が以前、派遣会社に登録して音楽以外の仕事をしていた時は、父は「そんな下らない仕事をして情けない」と言わんばかりの態度でいました。
そのことについて、私は父に何も言いませんでしたが、懸命に生きようとしている努力を踏み潰されているような気持ちになりましたし、父が私に対して「父の気に入るように行動するべきだ」という考えを持っていることを再確認しました。
父の望みは、「音楽家として活躍する子供を育てた親」として周囲から尊敬されることだと思います。
私は父に振り回されてばかりの人生を送っていますが、残念なことに十分な経済力が無いために、実家で父と生活せざるを得ない状況です。
家族と縁を切るのは難しいですし、私の場合、縁を切って生きていける力がありません。
精神的に苦しい状況は今後も続くとは思いますが、父も高齢なので、あと10年も我慢すれば解決する問題かもしれないと思い、日々をやり過ごしています。
(余談が長くなりました。)
本作は、実際に起きた悪魔憑き騒動をもとに書かれたフィクションですが、このような恐ろしい事件を引き起こしたのは神でも悪魔でもなく、人が何気なく抱く様々な心理と、それらが産み出してしまう誤解や履違え、偏った考えであり、これを看過している人間社会そのものが元凶であるということを示唆するものであり、このことは、現代社会にも脈々と受け継がれ、蔓延している病原菌のようなものとなっているのです。
このような恐ろしい結果を招かないように、手指だけでなく、心の消毒もこまめにしたいですね。
ヒトコトリのコトノハ vol.46
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