☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
「妻は夫にとって空気のようなものになればいいのです」
と後輩の結婚披露宴の時、彼はそんなスピーチをしたことがある。
「空気はなくては困ります。しかし空気は眼にはみえません。出しゃばりません。そんな空気に妻がなれば、夫婦はいつまでも失敗しません」
テーブルの男たちから笑声がおこった。なかには拍手してくれる人もいた。
「結婚生活は、ひっそりとして単調で充分なのです」
隣りの席にいる妻がこのスピーチをどんな表情をして聴いたかは磯辺の念頭にはなかった。しかしその夜、帰宅のタクシーのなかでも
家に戻ってからも彼女は何も言わなかったので、磯辺は妻も夫のスピーチを納得しながら聴いたのだろうと思った。
『深い河(ディープ・リバー)』遠藤周作(1996)講談社より
「結婚はギャンブルだ」と言っているスポーツ選手がいます。
その人は、日本人でありながら世界のトップアスリートたちの中で一目置かれるほど素晴らしい活躍をした人です。
いわば、成功者と呼ばれる部類の人から、そんな言葉が出るとは思っていませんでした。
人生において成功を勝ち取る人は、結婚相手についても、確実に自分が成功できるような人を選んで結婚し、そして結果的に自分の判断は正しかったと、自信に満ちた態度でいるだろうと、私は勝手に思いこんでいました。
しかし、それは考えてみれば、相手を好きか嫌いかで決めるわけではなく、自分の人生にとって有利か不利かという打算で決めることであり、人の心を蔑ろにすることになります。
優れたアスリートの人格がそんなに貧しいものであるはずがない。つまり、超人のような活躍をした人でさえ、ハラハラドキドキするのが「結婚」なのでしょう。
あまり人格の立派ではない私自身について言えば、少し打算的な気持ち(親から離れたいという気持ち)があって決めた結婚だったので、うまくいくかどうかは正にギャンブルでしたし、結果、離婚したので負けに負けたわけです。
自分は強運の持ち主ではないと、しみじみと実感できた経験でした。
ところで、結婚というギャンブルにおいて、「勝つ」とはどういう状況を意味すると思いますか?
私のように離婚という結果を迎えれば、分かりやすく「負け」になるのでしょうが、法律上の婚姻関係にあっても別居をしていたり、一緒に生活していても、一日中一言も口をきかない夫婦の場合でも、それはギャンブルに勝利していると思えるものなのでしょうか?
夫が人前で堂々と、「妻は夫にとって空気のようなものになればいいのです」といった発言をしても何も言わず、文字通り空気のように「ひっそりとして」いることが、その人にとっての幸せなのでしょうか。
中にはそんな人もいるかもしれません。
かつての日本では、黙っていても妻はお茶をいれて夫に差し出すものという考えは当たり前のことで、何事においても妻は夫に従うものと決められていました。(誰が決めたのかは知りませんが)
その時代における結婚には、ギャンブル性はほとんどないと言えます。
もし、夫側が妻に対して不満を持てば、一方的に離婚ができましたが、妻側から離婚を言い出すことはほとんどできませんでした。
双方に平等な条件が備わっていなければ、それはギャンブルではなく単なる不公平であり、イカサマなわけです。
かつて、日本の男たちは結婚というギャンブルにおいて、理不尽なイカサマを当然のようにやってのけましたし、人々の価値観も社会の仕組みも、それに対して異を唱えることがありませんでした。
しかし、現代社会において、かつてのイカサマをしようとしてもうまく行くはずがありません。
国際化も進み、男女平等どころかLGBTにまで話がおよび、価値観が目まぐるしく変化していく中で、未だに妻を便利で都合の良い空気扱いしたい男がいるのならば、その人は空気だと思って吸い込んだ毒気にあたって地獄の苦しみを味わうことでしょう。
そういう意味では、日本における結婚のギャンブル性は、昔よりも強くなっていると言えるのかもしれません。
個人的には、これから先、従来の結婚とは違う別の形、つまり好きな者同士が自分たちの好む生活の仕方ができる新しい制度やムーブメントが起こるといいなと少なからず期待をしています。
ヒトコトリのコトノハ vol.66
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●本日のコトノハ●
「妻は夫にとって空気のようなものになればいいのです」
と後輩の結婚披露宴の時、彼はそんなスピーチをしたことがある。
「空気はなくては困ります。しかし空気は眼にはみえません。出しゃばりません。そんな空気に妻がなれば、夫婦はいつまでも失敗しません」
テーブルの男たちから笑声がおこった。なかには拍手してくれる人もいた。
「結婚生活は、ひっそりとして単調で充分なのです」
隣りの席にいる妻がこのスピーチをどんな表情をして聴いたかは磯辺の念頭にはなかった。しかしその夜、帰宅のタクシーのなかでも
家に戻ってからも彼女は何も言わなかったので、磯辺は妻も夫のスピーチを納得しながら聴いたのだろうと思った。
『深い河(ディープ・リバー)』遠藤周作(1996)講談社より
「結婚はギャンブルだ」と言っているスポーツ選手がいます。
その人は、日本人でありながら世界のトップアスリートたちの中で一目置かれるほど素晴らしい活躍をした人です。
いわば、成功者と呼ばれる部類の人から、そんな言葉が出るとは思っていませんでした。
人生において成功を勝ち取る人は、結婚相手についても、確実に自分が成功できるような人を選んで結婚し、そして結果的に自分の判断は正しかったと、自信に満ちた態度でいるだろうと、私は勝手に思いこんでいました。
しかし、それは考えてみれば、相手を好きか嫌いかで決めるわけではなく、自分の人生にとって有利か不利かという打算で決めることであり、人の心を蔑ろにすることになります。
優れたアスリートの人格がそんなに貧しいものであるはずがない。つまり、超人のような活躍をした人でさえ、ハラハラドキドキするのが「結婚」なのでしょう。
あまり人格の立派ではない私自身について言えば、少し打算的な気持ち(親から離れたいという気持ち)があって決めた結婚だったので、うまくいくかどうかは正にギャンブルでしたし、結果、離婚したので負けに負けたわけです。
自分は強運の持ち主ではないと、しみじみと実感できた経験でした。
ところで、結婚というギャンブルにおいて、「勝つ」とはどういう状況を意味すると思いますか?
私のように離婚という結果を迎えれば、分かりやすく「負け」になるのでしょうが、法律上の婚姻関係にあっても別居をしていたり、一緒に生活していても、一日中一言も口をきかない夫婦の場合でも、それはギャンブルに勝利していると思えるものなのでしょうか?
夫が人前で堂々と、「妻は夫にとって空気のようなものになればいいのです」といった発言をしても何も言わず、文字通り空気のように「ひっそりとして」いることが、その人にとっての幸せなのでしょうか。
中にはそんな人もいるかもしれません。
かつての日本では、黙っていても妻はお茶をいれて夫に差し出すものという考えは当たり前のことで、何事においても妻は夫に従うものと決められていました。(誰が決めたのかは知りませんが)
その時代における結婚には、ギャンブル性はほとんどないと言えます。
もし、夫側が妻に対して不満を持てば、一方的に離婚ができましたが、妻側から離婚を言い出すことはほとんどできませんでした。
双方に平等な条件が備わっていなければ、それはギャンブルではなく単なる不公平であり、イカサマなわけです。
かつて、日本の男たちは結婚というギャンブルにおいて、理不尽なイカサマを当然のようにやってのけましたし、人々の価値観も社会の仕組みも、それに対して異を唱えることがありませんでした。
しかし、現代社会において、かつてのイカサマをしようとしてもうまく行くはずがありません。
国際化も進み、男女平等どころかLGBTにまで話がおよび、価値観が目まぐるしく変化していく中で、未だに妻を便利で都合の良い空気扱いしたい男がいるのならば、その人は空気だと思って吸い込んだ毒気にあたって地獄の苦しみを味わうことでしょう。
そういう意味では、日本における結婚のギャンブル性は、昔よりも強くなっていると言えるのかもしれません。
個人的には、これから先、従来の結婚とは違う別の形、つまり好きな者同士が自分たちの好む生活の仕方ができる新しい制度やムーブメントが起こるといいなと少なからず期待をしています。
ヒトコトリのコトノハ vol.66
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