時には目食耳視も悪くない。

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考える葦でいたい。

2018年10月14日 | ひとりごと
 最近、社会における性差別(男女間やLGBTに関する)の問題が頻繁に取り上げられるようになりました。

 以前から、このような問題はあったのですが、世間の片隅で一部の人が声を上げている程度だったように思われます。
 最近では、多くの人がそれらの議論に積極的に参加していると感じられるのは、やはりインターネットやSNSの波及効果を認めざるを得ません。

 あまり労せずに自分の意見を表明できるのは便利ですが、不用意な発言をするととんでもないことになる(いわゆる炎上の)可能性もあるので、SNSの利用に慎重になる人もいて当然です。(中には、炎上効果を狙って利用している人もいるのかもしれませんね。。。)

 また一方では、サイバーテロによってSNSサイトに登録した個人情報が漏洩する事態も起きていますから、自己防衛も考えた上で利用する必要がありそうです。


 さて、私は女性として生まれ、女性として暮らしています。

 普段の服装は、身体が動かしやすいTシャツやGパンでいることが多く、パジャマは着心地のよいジャージだったりします。
 また、仕事以外では化粧をしませんし、足のサイズが大きいのでスニーカーを履くことが多いです。外反母趾の傾向があるので、履き心地のよい靴がなかなか見つからず、靴擦れが半端ないのが悩みの一つです。

 好きな色は黒や、青、紺、深緑といった落ち着いた色か、グレーやアイボリーのような曖昧な色が好きです。
 明るすぎる色や派手な色のものは、目が疲れてしまうので、服でも小物でもあまり持っていません。

 こういったことを今までの人生の中で、「女性らしくない」「ボーイッシュだ」「女を捨てている」と評されたことが少なくありません。

 親しくなった男性から、「自分の前では、常に化粧をして、髪は長く伸ばしたままにしておいて欲しい。」と言われたこともあります。

 私は特に「女らしくしよう」とか「女であること」を意識して生活してきたことはありませんし、今もそうです。
 私は私です。あるがままの私が、そのままの私です。

 無理をして、世間の「女性像」に合わせるのも面倒ですし、「女子力」にこだわる労力も持ち合わせてはいません。
 けれども、私は確かに女性です。

 私は今まで、自分が女性であることに疑問を抱いたことはありません。そして、自分の趣味とは区別して、仕事の時には「大人の女性」に見えるように頑張って化粧をしますし、大きい歩幅では歩けないスカートと足が痛くなる窮屈な靴を履くようにしています。

 それをしないと、世間的には「ちゃんとした働く大人」として見なしてもらえないからです。
 特に日本ではこの傾向が強いように思えます。新卒の就活スーツが良い例でしょう。
 アメリカなどでは、仕事をする時の服装や髪型にこだわらないイメージがあります。(ピアスとか刺青とか、髪型にあまり制限がなさそうですよね。)

 少なくとも、日本の今の社会では、多くの人が抱く「ちゃんとした人間像」から逸脱してしまうと、働きづらい雰囲気にあります。
 それが、LGBT差別問題にもつながっているのだと思いますが、ただの女性の私だってそうした世間のイメージに合わせる多少の骨折りをせざるを得ないのです。

 しかも、そうした努力をしていてさえ、「もっと女性らしくしなきゃダメじゃないか(笑)」というようなご意見をもらうこともあるのです。
 (私の周囲には、世間が作り上げたイメージに振り回されて生きる人たちがなんと沢山いることか!)

 そんなことを言ってくる人たちには何を言っても無駄なことを、今までの経験で分かっているので特に何も言い返しはしないのですが、時々、溜め込んだストレスが爆発して発狂しそうになります(笑)

 (普段、何も言わずにニコニコしている人が、そんなふうにして突然キレても周囲の人間はただ意味が分からないので、問題は解決されずに残るという悪循環。嗚呼。。。)


 世の中には概念が単調で、知識や経験が乏しかったり、偏っていたりする人たちがいます。
 彼らは言わば、大きな複雑な形の模型を計るのに、短くて真っすぐな定規を一つしか持っていないのと同じです。

 そして、その小さな定規で他人を計ることに何の疑問も抱きません。
 そうすることで、相手がどれだけ傷つくかという考えにも至りませんし、相手の言葉から気持ちを汲み取るということもしません。


 高校生の時、私が恋愛話に対して興味の薄い反応をしたので、「あんたレズなんじゃないの?」と冗談半分、軽蔑半分で言ってくる同級生(女子)がいました。
 確かに、高校生と言えば、恋愛が生活の大半を占めると言っても過言ではありませんが、「好きな男子がいない」というだけで私が同性愛者だと決めつけるのは、些か極端ではないかと内心思いました。

 私はただ、「恋愛」という人間関係に興味が持てなかったのです。

 子供の頃から、独裁的な親に感情や自由を抑制される日々を送っていたので、敢えて他人と親しい人間関係を築きたいとは思えなかったのです。
 身近な人間関係(家族関係)がうまく上手く行っていないと、他でも上手く行かないという顕著な例です。

 特に一番身近な異性であった父親は、気に入らないことがあるとすぐに大声で怒鳴り、時には叩かれましたから、私は男性に対して好意的な感情を持つのが難しくなりました。

 また、私自身がかなりのマイペース人間なので、自分の考えや行動を批判されたり、束縛されるのが嫌ですし、相手にも同様のことをしたくないと思ってしまうのです。
 お互いの意見が対立した時に、相手の意見を否定するのではなく、「自分とは違うけれど、それでいい」という立場でいたいし、そんな人と親しく付き合いたいです。(なかなかいませんが。。。)


 地球上には何十億という人間がそれぞれの場所に、それぞれのやり方で暮らしています。
 その人たちを、男や女、LGBTなどの区分にきっちり分類することに意味があるのでしょうか?

 大切なのは、性別ではなく人間性や思いやりだと思うのです。

 ある時、とあるおネエさん(男性として生まれて来たけれど、恋愛対象は男性で女性的な性格の人)と知り合ったのですが、このおネエさんは事あるごとに私の「女らしくなさ」を指摘して来て、いかに自分の方が女性らしいかをアピールしました。

 そして、そのおネエさんは、自分が他の人とは違う特別な存在であり、平凡な女の私とは立場が違うのだということをやたら強調するのです。
 (世間ではこういう行為を「マウント」というそうです。笑)

 私は別にLGBTの人に差別的な考えは持っていませんが、このおネエさんと友達でいるのは疲れるので、連絡を取ることをやめてしまいました。

 付き合う相手を思いやれない人とは、どんな立場の人とでも私は親しくなりたくないです。


 さて、人類は男と女という二種類の型で生み出されます。
 そのことに、私たちは知らず知らずのうちに概念を縛られていますし、振り回されています。

 どんなに性差別をなくしたいと思っても、この二つの性には違いがありすぎるのです。

 男女は生まれた時から平等ではありません。
 さらに言えば、同じ男性(あるいは女性)の中でも体格や外見に個人差があります。
 
 男にも女にも、それぞれできることとできないことがあり、それらの内容もそれぞれ異なるという事実を無視して、もっと言えば、私たち人間一人一人の性質と能力がそれぞれ違うにも関わらず「平等」を叫ばないで欲しいと私は思います。

 自分が本当は女性に生まれて来たかったのにできなかったからといって、女性に「不公平だ」と不満をぶつけるのは、ただの八つ当たりです。
 人は誰も「平等に」生まれてくる性別を、自分で選ぶことはできないのです。

 かつて、歴史上の偉人たちが唱えた「自由と平等」は身分制度によって支えられていた社会、あるいは男性主観の社会における身勝手な「自由と平等」でした。
 現代では、一人一人の性質(個性)を大切にしようというように、考え方が変わって来ているにもかかわらず、相変わらず昔ながらの社会的強者の自由と平等が叫ばれているような気がします。

 そんな強者の叫ぶ「平等」の影で、声を上げることもできずに傷つき、苦しんでいる人たちは沢山いるんじゃないかと思います。

 LGBTの人たちの中には、差別や偏見に対して抗議ができる人がいると思いますし、それによって今後、社会的待遇を改善することができるかもしれませんが、例えば「ただの女性」である私が受けてきた、世間が決めた「女性」というイメージの一方的な押し付けや、不愉快な扱いは、いくら訴えても誰にも相手にされないでしょう。

 「じゃあ、もっと女らしくすればいいじゃん。」と一見もっともらしく、意味不明なことを言われて終りなのです。

 実際、LGBTの人たちが直面している現実は私とは比べ物にならないほど深刻ですが、かと言って、誰からも理解してもらえない苦しみを無視されていても止む無しというのも釈然としません。

 結局のところ、男女間でも差別がなくならない現状では、誰もが幸せな人生を送るなんて夢のまた夢のような気がします。

 ともあれ、同性でも異性でも、誰かを愛することができるのであれば、それは素晴らしいことです。
 他人に興味が持てず、人間関係を築くことに恐怖や嫌悪を感じて、誰のことも愛せない孤独な人生を送るより、何倍も幸せだと思います。

 キレイゴトにしか聞こえませんが、大切なのは面倒くさくても、自分のことだけでなく、いろんな立場の人の気持ちや置かれている状況をきちんと考えて行動することだと思います。
 もちろん、考えてもすぐには答えは出ませんし、それが唯一の解決策ではないかもしれません。

 それでも、考えることをやめてしまえば、人間はただの凶器にすぎなくなるのです。
 私は例え誰のことも愛せなくても、誰かを傷つける凶器にだけはなりたくありません。

 現在の日本社会では、どう考えても平等な社会は実現しないし、差別もなくならないとしか思えないのですが、どんなに時間がかかっても、例え何の役にも立たなくても、考えることを止めずにいようと心掛ける今日この頃です。



 


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