時には目食耳視も悪くない。

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強い人は「逃げ上手」。

2018年09月09日 | 映画
 子供の頃、怖かったのは父親に怒鳴りつけられることでした。

 私の父は、子供の行いを正すために怒るというよりは、自分のストレスの捌け口として私や兄たちを怒鳴りつける(時には叩きもしました)ことが多かったように思います。

 大人になった今思うことは、怒ることと叱ることは違うということです。
 この違いを、父がはっきりと区別できていなかったのは明らかですが、そのことについて、何ら指摘する人は今も昔もいません。

 故に、彼は自分がしてきたことが間違っていなかったと盲目的に信じているのです。
 (父ははっきりと「子供は獣と同じだから、暴力をもって言うことをきかせるのが当然。子供の意志など考えなくてよい」と公言するような人間です。)

 上手に人を叱るのは、とても難しいことです。
 私自身、何人かの子供と接する中で、子供を叱る難しさを感じます。

 普通の口調で、何回か注意しても、子供の問題行動(他の子の物を取ったり、嘘をつくなど)が直らない時、私は次第に苛立ちが募り、かつての自分の父親のように大声で怒鳴りつけたい衝動に駆られるのです。

 しかし、それでは何の意味がないことも同時に分かっているのです。
 私がただ大声で喚いても、子供の問題行動は直りません。

 何故それをしてはいけないのか、誠実さや思いやりの気持ちがどれだけ大切なことなのかを子供自身がすっかり理解し、次からはそんな問題行動を止めるようにならなければ、叱っても意味がないのです。

 ですが、幼い子供にはそんなことを理解できません。できないからこそ、彼らは「子供」なのです。
 彼らがそのことを理解するには、沢山の人と出会い、時間をかけていろいろな経験を積まなければなりません。

 周囲の大人は、そんな彼らの成長を辛抱強く見守り続ける必要があるのです。
 ですから、本来、子供を叱るという行為は、叱る側の不快な感情をぶつけるのではなく、自分の何が悪くて怒られているのか、子供が分かるようになされるべきでしょう。(子供が理解する、しないに関わらず)

 大人の罵声に恐怖心を覚えたり、何らかのトラウマを残すことは、その後の子供の精神的成長に少なからず影響を与えてしまいますし、恐怖心を植え付けるようなスパルタ教育が必ずしも成功するとは限りません。

 子供の将来に積極的に関わり、栄光へ導きたいと思うならば、一番身近な教育者たる親はその子の気質を慎重に見極め、適切な課題と目標を与えなければいけません。

 ところが、世間では残念なことに、親の勝手な思い込みによる無鉄砲な教育方針に振り回される子供が少なくないのが現状です。
 日本では、子供の努力よりも親の指導力を評価する傾向にあるので、その教育法がうまく実を結ばなかった時、原因は子供の資質にあると思われることの方が多いように思います。

 教育という名の下に子供に対して為される親の言動は、多少常軌を逸していても看過されがちです。
 家庭という特殊な集団内で行われる行為が、傍から見ると異常に思えても(例えば日常的に行われる暴力行為など)、周囲の人々はなかなか働きかけができない、という悩ましい実情もあります。

 このことは親子関係に限らず、スポーツや芸能などの師弟関係についても起こり得る事象かもしれません。


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 《アーロと少年(原題:The Good Dinosaur)》は2015年に製作されたアメリカの映画です。


 古代、恐竜が絶滅せずに文明を築いたという仮定に基づいた世界のお話です。
 (私が子供の時も恐竜は子供たちに人気でしたが、今もなおその人気は衰えませんね。)

 この世界では、恐竜が言葉を話し、植物を栽培し、家畜を飼い、家族単位で定住しています。

 主人公アーロは、少し小柄な草食恐竜(青年)です。

 人類も出てきますが、原始人という設定なので、言葉を話さず、四足と二足歩行が混在している段階のようです。

 アーロは他の兄弟よりも体格が小さく、力も弱い恐竜です。
 とても臆病で、家畜の鳥にさえビクビクし、餌をやっていても逆に追い回されてしまいます。

 そんな弱虫のアーロが、原始人の少年と出会い、彼と行動を共にする中で成長していくという物語です。

 恐竜と人間には共通言語がないという設定なので、アーロと少年は終始、身振り手振り(いわゆるボディランゲージ)で意思の疎通を図ります。
 恐竜だけが言語を使い、人間は動物的な叫び声しか発しないという点に反感を覚える方もいるかもしれませんが、この世界観に慣れると言語学習(単語を覚えたり、話せるように努力すること)がさほど対人関係において重要ではないことに気づかされます。

 大切なのは言語能力ではなく、「伝えたい」「分かりたい」という気持ちですよね。
 (つい忘れがちです。)

 さて、アーロの父親は臆病な息子を心配し、試練を与えることで彼を強く育てようとします。

 「恐怖を乗り越えた先に見える世界がある。」という父親の言葉は、一見、もっともらしく思えるのですが、私は少し違和感を覚えました。

 「恐怖心」はいわば危険察知能力の一つです。怖いと思うから近づかない。危険なことから身を遠ざけることは危機管理においては常識ですし、危険を回避することができれば生存していけます。
 種の保存のために最も大切なことは、各個体が生き延びることです。

 ここに、西洋と東洋の考え方の違いを感じました。
 アメリカの社会では、「強さ」を崇拝する傾向にあるように思えます。「強いアメリカ」という概念は、代々アメリカの指導者たちが重視してきたことです。
 思い出せる限りで、アメリカの歴代の指導者が自らの過ちを認める発言をしたり、何かに対して謝罪をしたという記憶がありません。
 (あるのかなぁ???)

 また、西洋では「戦うことこそが正義だ」という考えが支配的なのではないかと思います。
 戦いに背を向けることは卑怯な行為であり、争いに臆病であることは恥でしかないという考えが根強いのかもしれません。

 しかし、それでは戦いにおいて、命を落としかねないリスクを背負うことになり、自ら寿命を縮めていることになるのです。

 東洋では、「危険因子を排除し、争いを回避する」のが上策だと考えられています。
 「三十六計逃げるにしかず」や「上善水の如し」などの言葉からも、その思想性を窺うことができます。

 戦地に赴いた時点で、戦闘に加わった時点で、もうその人の負けは決定しているのです。
 一番いいのは、そういう立場に自分を立たせないことです。

 「戦わずして勝つ」や「漁夫の利」なんて言葉もありますよね。

 いくら他人から見下されても、戦わない(争わない)選択ができること、それが本当の強さだと思います。
 大切な人(もの、こと)を守るために必要な「強さ」とは、格闘技を習うことでも、武器を所持することでもありません。
 冷静に自分の能力を見極め、自分に嘘をつかないことです。

 世間体や人々の無責任な非難を恐れることなく、自分の弱さや悪い点を認め、プライドを捨てて、自分の欲求を満たすことよりも、争いを回避することを選ぶことができるかどうか。
 そういう「心の強さ」が真に必要とされるのです。(なかなか難しいですね。。。)

 アーロの父親は自分が思い描く「強さ」を、無理やり息子に押し付けていたことに気がつき、謝りました。
 親(または大人)といえど、決して完璧な存在ではないのです。

 もしも、自分の言動が間違っていたと気がついた時、アーロの父親のように謝れるような人間になりたいですし、無益な争いを避けられるような「逃げ上手」にもなりたいものです。



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