時には目食耳視も悪くない。

読んだ本、観た映画、聴いた音楽、ふと思ったこと、ありふれた日常・・・

未練を残さず。

2017年11月03日 | 文学
 別れてしまった恋人に対してとる行動は男女でかなりの差があると言います。

 女の人の場合、元カレに関係する物をキレイさっぱり跡形もなく処分することが多く、次の人を見つけるのも早いそうです。
 反対に、男の人は元カノの思い出の品を取っておいたり、別れてからも心の片隅で一途に想っていたりするようです。

 女の人の方が思い切りがよく、男の人の方が未練がましいのでしょうか?
 それも、人によるとは思いますが。。。

 「もう、君のことなんか好きじゃないよって、面と向かって言ってやりたいんだけどな…」

 というような意味の和歌を詠んだ男性がいます。
 藤原道雅さん(992-1054)です。

 『今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな』(小倉百人一首 第63番)

 この道雅さん、かなりの乱暴者(というか犯罪者!?)だったらしく、「悪三位」という有難くない渾名がついているほどです。

 まあ、確かに喧嘩っぱやくて腕っぷしは強かったと思いますが、当時の政治情勢は必ずしも彼に有利なものではなかったので、彼の仕業となっている悪行の一つや二つは濡れ衣かもしれません。

 人付き合いがあまり上手ではなく、言葉より手が先に出てしまったり、目上の人に媚びへつらうのも苦手で、世渡りが下手な人だったのではないかと、私は勝手に推測します。

 そんな彼、流石は名門藤原一族の出身で、和歌を詠む教育はしっかり受けています。
 その腕前は中古三十六歌仙に選ばれるほどの実力者です。

 晩年には、歌会を催してもいますから、この道の才能はかなりのものだったようです。
 (優れた和歌の才能が、当時の宮廷では評価の対象であったにもかかわらず、道雅さんがあまり恵まれない境遇であったのは、少なからずきな臭い陰謀を感じずにはいられません。あくまでも推測ですが。)

 ちなみに、本妻(正室)さんは、かの有名な紫式部(生没年不詳・平安中期)の義理の娘(実子との説も)さんです。

 道雅さんの祖父・藤原道隆(953-995)さんは平安随一の権力者、藤原道長(966-1028)さんの兄で、この二人がいかに権勢を競い合ったかは、平安の才女・清少納言(966?-1025?)が記した《枕草子》からも伺えます。
 その道隆おじいさんが病気で亡くなると、道長さんが権力を独占し、道雅さんのお父さんの伊周(974-1010)さんは失脚して、実家は没落しました。
 道雅さんも、思うように出世できなかったり、左遷されたり(自身の素行の悪さもあって)と、あまりパッとしない人生だったようです。

 さて、この歌を送った相手は、三条天皇(976-1017)の娘さん、当子内親王(1001-1022)です。パパは、この娘さんをとっても可愛がっていたようです。
 道雅さんは25歳くらいで、彼女は9歳年下でした。

 いろいろ大人の事情があって、内緒で付き合っていた二人でしたが、ある日娘さんのパパにばれて、カンカンになったパパに仲を引き裂かれてしまいます。
 パパにしてみれば、「よりによって、あんな評判の悪い道雅みたいなゴロツキに、大事な娘をやれるかー!」という感じだったのでしょう。

 しかし、娘さんの方は一途に道雅さんを想っていたらしく、その後、失意のうちに尼さんとなり、数年後には亡くなってしまいます。(享年23歳は若いですよね…)

 道雅さんの歌は、まだ娘さんの生前に送られたことになっていますが、諸々の事情を考えると感慨深いものがあります。

 歌に書かれている言葉だけを見れば、別れた相手に未練はないのだと当て擦りのような強がりを言っているようにも思えますが、出家してしまった彼女に送ったのであれば、恨み言さえ直接伝えることができない彼の苦しい胸のうちが切なく伝わってきます。

 また、彼女の死後に詠まれたのであれば、もう二度と直接、自分の言葉を彼女に伝えることができないという、生前の恋人の存在を偲ぶ挽歌のようにも思えてきます。
 ただ、そうすると「人づてならで」の解釈がややこしくなります。
 あの世にいる彼女にメッセンジャーを送るみたいな図式になってしまうので、やはり、この歌は彼女の生前に詠まれたと考えるのが自然です。

 とかく、悲恋話は人の心を惹きつけるものです。
 小倉百人一首の選者である藤原定家(1162-1241)さんも、彼らの恋愛騒動とこの歌に何か心惹かれるものがあって選んだのかもしれませんね。



コメントを投稿