時には目食耳視も悪くない。

読んだ本、観た映画、聴いた音楽、ふと思ったこと、ありふれた日常・・・

紙一重の厚さ。

2018年11月11日 | 文学
 もう何年も前のことです。

 私はとある学習塾で個別指導(生徒さん1人に対して先生1人が専属で学習の補助をする形態)のアルバイトをしていました。
 ある日の授業で、私が問題の解き方を簡潔に説明し終わると、生徒さんは言いました。

 「ちょっと、何言ってるか分からないです。」と。

 私は一瞬キョトンとしました。それから、「どこが分からないの?」と聞き返しました。
 すると、その生徒さんは驚愕した顔で、もう一度同じ言葉を繰り返したのです。

 私は少し苛立って「だから、どこが?」と尋ねました。

 生徒さんは今度は何も答えず、世の中で最もつまらないものを見るような目で私を眺めるだけでした。
 当時の私には、何故そんな扱いを受けるのかが全く理解できませんでした。


 以前にも書きましたが、私は音声と映像を同時に認知し続けるのが苦手なので、テレビがあまり好きではありません。
 (あくまでも、苦手なのであって、何かの病気というわけではありませんが、)

 炊事や掃除などの家事をしている傍らでテレビがついている分には問題はありません。
 しかし、ソファに座ってテレビ画面と対峙するということをあまりしないどころか、災害情報の確認等の必要性を感じなければ、一週間テレビをつけない可能性さえあるでしょう。

 家族と一緒にテレビ番組を見ていても、私だけテレビを見ることに疲れてしまって、途中で自室に行ってしまうこともしばしばです。
 ですから、私が前述の生徒さんの言った言葉が、大人気お笑い芸人さんのキャッチフレーズだったことに気づいたのは、ごく最近のことなのです。

 語学のヒアリングを兼ねてYOUTUBE動画を沢山見るようになり、たまたま再生した芸人さんのコント動画の中で、この言葉を耳にした時、私は学習塾のアルバイトを辞めて何年もたっていました。
 その仕事をしていたことさえ忘れていたのですが、この言葉を聞いた時、私の脳裏にその頃の記憶が鮮明に蘇ったのです。

 そして、あの時、あの生徒さんがこの言葉を言うことで、私と「笑い」を共有したかったのだと思い至りました。
 知らなかったとはいえ、私はそんな生徒さんの期待を無神経に一蹴してしまったのです。(そりゃ、「世の中で一番つまらないもの」に見えて当然です。)

 それ以来、その芸人さんを見ると、あの言葉を聞かずとも私は必ずあの生徒さんを思い出します。顔も名前も思い出せないんですけどね。

 ちなみに、あの世界的にヒットしたピコ太郎さんのアップルペンのことも、別の教室の生徒さんから教えてもらいました。
 自分が教えるまで私が知らなかったことに、その小学生の女の子は軽くひいていました。。。


 *   *   *   *   *

 現代は情報氾濫社会と呼ばれるほど沢山の情報があらゆるジャンルに渡り、かつ複数のレベル(報道機関・企業・個人)で混在して提供されています。

 そのすべての情報が絶対に必要というわけではありませんが、知っておかなければいけない情報もあります。
 その情報を知らないことで、時には仕事に不都合が生じる場合もあるでしょう。(例えば、生徒さんたちから異星人を見るような目で見られたりね。笑)

 日々、大量に更新されていく情報の中から自分にとって、どれが必要でどれが不要かという境界を設けることは簡単のようでいて難しいと私は感じます。

 私は音楽を専門に扱う業種に従事していますが、音楽以外の情報が不要かというと、そうではありません。
 西洋音楽はヨーロッパで生まれ、育まれている文化です。私が生活している日本とは違う環境、考え方、人々の暮らしによって存在しているものです。

 以前、ヨーロッパに足を運んでみてすぐ気づいたのは、空がとても高く感じられることでした。
 日本では、割と低い位置に必ず雲が浮かんでいる印象が強かったので、ヨーロッパの街を実際に歩いた時に、ふと視界に違和感を抱いたのです。

 そして、日本に帰ってきてすぐに乗った電車の窓から、低く垂れこめた雲の群れを見て、「ああ、日本に帰って来たんだ!」という実感が湧いたのです。
 この二つの環境の違いは、音の響き方にも少なからず関係があるようです。

 上方に遮るものの少ないヨーロッパでは、音は常に上昇し続けるものと認識されていますが、遮るものの多い、いわゆる天井の低い日本では、音は上昇しようと思っても跳ね返されて地面に落ちてしまいます。
 以前、オーケストラの指導に来日したヨーロッパのヴァイオリニストさんは「常に上を意識して音を響かせるように」とおっしゃいました。

 もしかしたら、自国と日本とでは音の聞こえ方が違っていたのかもしれません。
 これは、日本で生活しているだけでは分からない感覚です。

 また、楽器を演奏するための身体の動きを知るために、多少は医学的な情報も必要ですし、教室を運営するのならば、経理や法律の知識が求められることもあるでしょう。

 自分に必要な情報を正しく取捨選択することは意外と難しいのです。
 不要だと判断した情報が後から必要になることもあるかもしれません。

 反対に、「無駄なものなどありはしない」と考えて、すべての情報を受け入れるのも一つの手です。(容量に余裕があればの話ですが…)
 一見、無駄に思えたことが、実は自分の人生を豊かにするものだったなんて話も、たまに聞きます。

 両極にあると思える二つのものが、実は隣り合わせに存在することを、日本では「紙一重」と言ったりします。
 東洋の陰陽思想では、二つの相反するものが調和して初めて、自然の秩序が保たれると考えられています。
 ここでは、陰は決して「悪いもの」ではなく、同様に陽も別に「善いもの」という概念ではありません。

 どちらも世界を構成するために必要なものとして見なされるのです。
 光と影、昼と夜、男と女、強さと弱さ、破壊と創造、偽りと真実、生産性と非生産性、等々。

 これらのどちらか一方がなくなれば、もう一方も存在することはできません。
 そういう意味では、世間を徒に騒がせるフェイクニュースや、LGBTの人たちを非生産的だと言う人たちも、社会の中には必要だということになります。
 決して、そんな言動を許してはいけないと、人々の心に強く訴えかけるために。

 もっとも、後者のことについて言えば、直接子孫を残さなくても、社会で生活していれば青少年の育成に少なからず関わることがありますし、人々が支え合って成立しているのが地域社会というものです。
 (私の住んでいる生活班には、子供のいる世帯がありませんが、班として地域の小学校に教育支援の寄付をしています。)

 他にも、非生産的に見える物事が、実は生産的活動の一端を担っていることはそう珍しいことではありません。
 私たちの誰一人として、全くの独力で生きているわけではないということに、選挙によって選ばれた政治家さんが気づけないのは、本当に悲しいことです。

 人間に対しても、その他の物事に対しても、感謝を忘れずに生きて行くって、難しいことでしょうか?
(私なんか、寒さから守ってくれるアームウォーマーにも感謝するこの頃です。。。)

 昔は限られた人しか手にすることのできない貴重品だった紙も、今では「紙切れ一枚」とか「紙は無駄だ」みたいな言われ方をします。
 「紙一重」という言葉に込められた紙の希少価値や存在感が、時代の移り変わりと共に薄れて行くのと同様、社会の風潮も自分が想定していなかった方向へと変わって行ってしまうのかもしれません。
 (しかも、猛スピードで。私はすでに置いてけ堀をくった感が否めません。。。)


 最後に、紙の本に敬意を表して、本を一冊ご紹介します。(とは言っても、電子書籍になってますけど、)

《「のび太」という生き方―頑張らない。無理しない。》横山泰行(2004、アスコム)

 別に、のび太と同じ生き方をしよう!と言っているわけではなく、世の中の変化についていくことがしんどく思える時に、パラパラとめくってみてもいいかと思える本です。



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