あぽまに@らんだむ

日記とか感想とか二次創作とか。

きっと君を護るから(SQ5)

2016年12月04日 | 世界樹の迷宮5関連













<きっと君を護るから>





あの頃の千尋は確かにいつも遠くの空を眺めている事が多かったと思う。
そんな千尋を兄姉達は常に気に掛けて、其処から救い出すかのように、何度も空が見える屋上に呼びに来た。

「お前が空気に融けて消えてしまいそうで、怖くなるんだよ」

その日、二回目に呼びに来た二番目の兄に問えば、まるで昔の恋を語るかのような複雑な表情をしてそう白状した。
そう出来るのなら、寧ろ千尋は嬉しかっただろう。
しかし、この異形な容姿の所為で、千尋はどうしてもこの世界に溶け込めないでいた。
一般的に日本人の容姿は黒髪、黒い瞳であるのに対して、千尋の容姿は異形だった。
薄紫掛かった鳶色の髪とベージュがかった琥珀と水色の瞳のオッドアイ。猫のような不思議な瞳は神秘的で、幼い頃から千尋は常に同じ年頃の子供達から敬遠された。
周辺処か国内でも有名な武道の師範の息子ともあって、苛められる事は無かったが、常に距離を置かれた。
その為、高校を出るまで親友と呼べる者は居なく、仲が良いのは道場の仲間のみであった。
千尋の家族、東雲家はみな美男美女ばかりだったが、勿論千尋のような容姿の者は居なかった。
両親は結局亡くなる迄、千尋に本当の事を告げる事は無かったし、当の本人も真実を知ろうとは思わなかった。
それは、千尋が出生の秘密を知ろうとすれば、兄姉達が凄く傷付く顔をするからだった。

「ちぃは俺の弟だ。何が有ろうと俺達が護ってやる」

両親が事故で亡くなり、否応無しに道場を継ぐ事になった一番上の兄は、千尋の手を握り何度もその言葉を繰り返した。
その晩、涙が止まらない千尋を抱き締め、上の姉が一緒に「内緒よ」と酒を飲ませてくれた。
繊細で甘える事が苦手な千尋を一人にしない為、弟や妹は常に千尋に付き纏い、世話をせがんだ。
道場を運営する兄二人と、渡米を予定していた姉を気遣い、千尋は高校を卒業すると家庭に入った。
慣れない家事を懸命にこなし、弟や妹の面倒を良く見た。
一番下の弟が大学を出る頃には千尋は既に30を越えていたのも仕方無かった。
幼い頃から千尋は家業である道場に通い、兄弟と共に武道を習っていた。
試合は勝てたが、優し過ぎる性格の所為か伸び悩んでいた頃の両親の死だった。
家事の忙しさもあったが、自然と道場に通う事は減っていった。しかしそれも自然の流れだったのだと今は思う。





千尋は舗装もされていない細い道の真ん中に転がされ、後ろ手に縄で縛られていた。
シャツは土に塗れ、周囲を見渡しても暗くて此処が何処か分からない。
周りは闇に包まれていて、真っ暗な木々が生温い風で生き物のように騒めく。
先程から少し長めの前髪を鷲掴みにされ、大きな声で怒鳴られ続けているが、語学力は無いにしても外国語の単語くらいなら少しは分かる。
その千尋が男が怒鳴る言葉のいずれにも知った単語が無い事に、早々に気付いた。
それ以前に筋肉隆々の目の前の男の頭上に、有ってはならない物が二つ、ピンと立てられている。
臀部から生えているであろう、同じく有ってはならない物二つ目が興奮で膨らんでいる事を、千尋はまるで夢でも見ているかのように眺めていた。有り得ないことだ。
非常に不味い状況であるのも分かっている。
それより重要な事。此処は日本じゃない。日本処か地球という世界ではない事を理解していた。
理解するというには語弊がある。理解するしかないが正しいだろう。
空に浮かぶ月が二つ。そして目の前には耳と尾が付いた獣人と言っても過言ではない男達。彼等は恐らく人攫いだ。
千尋は着ていたシャツを布切れのように、目の前の黒豹のような男に破られ、ほぼ半裸にされていた。
恐らく身体に傷が無いか確認されたのだろう。白い肌が闇夜に浮かび上がる。
男達の品定めのような視線に晒され、漸く千尋は自分が拉致されそうになっている事を自覚したのだ。
数時間前。暫く振りに酒を飲んだ友人は酷く泥酔して一人で歩く事も出来なかった。
世話焼きの千尋は仕方無く彼の家まで抱えて送り、勝手知ったる友の家。
友人の鞄から鍵を取り出し、友人を屋内に運ぼうと鍵を刺し、扉を開けた。
その途端、千尋は背後からの突風に身体ごと宙に飛ばされ、そして暗黒の世界に投げ出された。
どのくらい飛ばされたのだろうか。
まるで毬のように遠くへ、しかし時間にしてみると一瞬だったかもしれない。
次の瞬間、千尋は柔らかい土の上に勢い良く投げ出され、身体を叩き付けられる。
受け身も取れず大きく呻くが、急斜面の坂をそのまま転がり落ちて行く。
漸く止まったと思えば、大きな獣が牽いた馬車の目の前で、獣が千尋に驚いて嘶き、急停車する。
その馬車こそが、この人攫いの一団だったという訳だ。運が無いにも程がある。
自分に何が起こったか分からない千尋は、泥だらけのまま、徐に目の前の人影に腕を掴まれ、強引に身体を引き寄せられた。
助け起こしてくれたと思いきや、その男は瞬時に千尋の腕を後ろ手で縛り上げてしまった。
混乱する千尋を他所に、男は千尋の衣服をただの布切れにし、仲間に何か指示している。
すると近寄って来た痩身の男が持つ棒の先が仄かに光り、千尋の顔を照らした。男達が下品な声で笑い始める。
黒豹の獣人は仲間の男達に何かを叫ぶと、聴いた男達は歓喜の声を上げた。
千尋は目尻に涙を浮かべ、ただ弱々しく首を振り、怯えるしか無かった。





深い森の中、背後で紫にも見える白い月が柔らかく空に浮かんでいた。
二つの月の灯りの所為でこの世界の夜は地球世界より明るい。
そのお陰で自分に手を差し伸べてくれる重装備の男の容姿が恐ろしく整っている事、髪の色、瞳の色が自分以上に異形な事に気付いた。

「どうしたんだ?何処か頭を打ったのか、俺の言っている事が分かるか?」

千尋は彼の言っている事は理解出来なかったが、彼が千尋の事を心配してくれているのは分かった。
自分の羽織る上着を脱ぎ、寒さと恐怖に怯える千尋の肩にそっと被せて、震える肩が落ち着くまで、膝を折りじっと傍に居てくれた。
千尋は彼を見上げた。随分と身長が高い。
彼は長めの髪を綺麗に流していた。色は青み掛かった白金。切れ長の瞳は蒼と紫だろうか、色が微妙に異なるに加えて虹彩を帯びている。慈しむような優しい、そして美しい瞳だった。
礼を言わなければ。千尋は唇を開こうとするが、震えて声にならない。
先程まで、この目の前の騎士は、仲間らしき者達と共に、千尋を始め、獣人達人攫いの集団に捕まっていた者達を助け出してくれたのだ。
千尋を捕まえていた黒豹の獣人の眉間に何かが刺さったかと思えば、それは鳥の羽根のついた矢尻だったのだ。
千尋は何が起こったか分からないまま、絶命し自分に倒れ掛かって来る黒豹の獣人に、声にならない悲鳴を上げて震えるしか無かった。
それが合図となり、両側の丘から闇夜に紛れ、何者かが賊の中に雪崩れ込んで来た。
月明かりに照らされて、騎士達が大きな盾と大振りな剣で、まるで舞うように敵を薙ぎ払っていく様を、千尋は映画でも観ているかのように呆けて観ていたのだ。
一味が取り押さえられ、騎士は動けないでいる千尋に気付き、近寄って来ると、まるで姫に傅くかのように、その膝を恭しく折り、今に至る。漸く息が出来たような気がした。唇を噛み締める。

『助けてくれて有難う…』

そっと囁くと彼は漏らさず聴き取り、数回瞬きをすると哀しそうに呟いた。

「異国の言葉だ。遠くから攫われて来たのだろう。怖かったな」

言葉は分からないが、優しい労わる声色だった。
千尋は今更、自分の身に起こった全ての事柄を突き付けられた気がして、感情が一気に押し寄せて来た。
そして30も当に過ぎた男に有るまじき事に、その金と蒼のオッドアイから大粒の涙を零し、傍らに座った彼に抱き着くと声を殺して泣き続けた。
千尋とて優男では無い普通の男だ。か弱き乙女でも無いし、薄幸の美少年でも無い。
しかし、別の世界にただ一人飛ばされ、言葉も分からず、挙句の果てに攫われ、売り飛ばされそうになったのだ。
混乱し、恐怖し、ただ誰かに縋りたかった。
目の前の彼は、救出した男に抱き着かれ、呆気に取られたようだったが、暗闇の中、口に拳を当て声を殺して幼子のように泣きじゃくる千尋を気の毒に思ったのか、そっと背中に手を遣ると、千尋が泣き疲れ眠ってしまうまで、ずっと抱き締めてやったのだった。





「月」
『ツィータ』
「星」
『ホワイタ』
「星」
『ホワィテ?』
「そうだ。ちぃは覚えるのが早いな」

ヴィクターは既に千尋がこの世界の人間ではない事に気付いていた。
ジェネッタの宿屋に戻ると、すっかり破れてしまったシャツやボトムなどの衣服を脱がせ千尋に湯浴みをさせた。
その時、千尋が破れた衣類を縋るような視線で追っていたので、廃棄すると哀しむだろうと町の洋裁店に修理を依頼した処、こんな布地はないと突っ撥ねられてしまったのである。
この世界の生地ではないと不安そうに教えてくれた馴染みの女店主は、早く処分するように忠告さえしてくれた。
千尋は外来者(ビジター)だろう。外来者(ビジター)の身体は、人魚のように頭の先から爪先まで万病の薬になると言われ、血肉などを食する者は不死になるとさえ言われている。その為、常に狙われる存在だった。
それでも数年に何人かずつ外来者(ビジター)はこのアルカディアに送られて来る。
まるで彼等をこの世界に差し出すかのような現象に、ヴィクターは憤りさえ感じていた。
そして例え千尋が外来者(ビジター)で無かったとしても、この奥手な年上の男を、一人に出来ない。
何故かヴィクターはそんな使命感を持ち始めていた。

『ヴィック、ノラハ、ヴィアッタ』
「ちぃ、「お腹、が、減った」だ」
『ノラハ、ヴィエッタ』
「そうだ。じゃあ、アル達を呼んで夕飯にしよう」

褒められて千尋は嬉しそうにはにかんだ。中年の域に達しようとしている男がはにかむとはけしからんとヴィクターは思う。
兎に角、千尋をこのまま危険なアルカディアに放り出す事など出来る筈もない。
自ギルドで保護する事に決め、他のギルドメンバーに紹介しようとヴィクターは彼のギルド、ヴァランシェルドのメンバーを呼ぶよう、スズシロに頼み、千尋の手を引き階下に降りて行った。

「へぇ…外来者(ビジター)ねぇ…初めて見た」

千尋は椅子に座らされ、目の前の彼女、リズベットを驚いた様子で見詰めている。
その視線には性的なものは一切無く、ただ単に綺麗な宝石や絵画を見詰めている視線な事にリズベットはすぐに気付いた。
純粋な眼差しはキラキラと鉱石のように輝いている。
リズベットは藍と深紅のオッドアイを猫のように細め、千尋に顔を近付け高価なアンティーク人形のように可憐に微笑んだ。

「ホント可っ愛ぃね。ギルマスが気に入るの分かるかも。護ってあげたくなる」

すると水色の髪のリズベットと相反するかのように、今度はオレンジとピンクの混じり合った不思議な長い髪をツインテールにした同じ年くらいの少女が千尋の目の前に仁王立ちした。
彼女も両の目の色が異なる。マゼンダと真紅の色。その表情は値踏みするかのようで、千尋は怯えたように小さく肩を揺らす。

「保護だけならそういう団体、この町にあった筈よ。何だっけNPPとかいう…」
「NPOですよ、ピア」

窘めるかのような優しい声に振り向くと、其処には長身で痩躯の男が立っていた。手には杖。
あの夜、杖の先の灯りで千尋を品定めした黒豹の男を思い出し、千尋は更に萎縮し始める。
この世界に来て保護されてから、千尋の傍にはヴィクターと彼の弟であるジェラールしか居なかった。
二人は千尋を勇気付け、溢れんばかりの愛情を持って彼の心を開く事に成功した。
しかし、あの救出劇から数週間しか経っていない千尋は、まだこの世界で生きて往く決心をしたばかりで、人馴れもしていない。
椅子に座ったままの千尋の頭上で行われる分からない言葉の往来は、千尋を不安がらせるには十分だった。

「これは決定だ。千尋をNPOなんぞに預ける気は更々ない。皆も気に掛けてやってくれ。以上だ」

ヴィクターの澄んだバリトンの声がジェネッタの宿屋の1階に響き渡る。
ピアニーやカガリホムラの「え~」「横暴じゃねぇの」という批判の声も上がったが、ヴィクターは千尋とジェラールと同卓に座り、夕食の注文を始め出してしまった。
他のメンバーもヴィクターの性格は重々承知していたし、放り出した外来者(ビジター)の成れの果てなど分かり切って居た為、それ以上追及する事は無かった。
周知は終了と各々、夕食を頼み始めている。千尋は気兼ねしているらしく、不安そうにヴィクターの裾を引っ張った。

『ヴィック、ファルィカ、レリパウ』
「ちぃ、「しんぱう」じゃない、「心配」だ」
「なかま、しんぱい」
「お前が気にする事はない。それにあいつ等は分かってくれる。「心配」「ない」だ」

優しい性格の千尋は、自分の所為でヴィクターが仲間と揉めてしまったのではと心配だったのだろう。
大丈夫と分かった途端、安心して花が綻ぶかのような笑顔になる。
眉間にシワが寄っていたヴィクターもつられて微苦笑してしまう。
護ってやりたい。
ヴァランシェルドは結成されて間も無く、幼いメンバーばかりの弱小ギルドだが、その分伸びしろは幅広い。
もうすぐ世界樹の迷宮に挑んでもいい頃だろう。
千尋の体調が戻り次第、金策も兼ねてヴィクターは世界樹の迷宮のミッションに挑むつもりだった。





初めは習慣となっていた柔軟と武道の型を行うだけのつもりだった。
軽い怪我や捻挫も治り、再開しようと台所前を通り掛かった千尋は、今朝は天気も良いし、身体が軽いと気分がとても良かった。
しかし、現在ヴィクター達ヴァランシェルドの一行が世話になっている宿屋の若き主人、ジェネッタが困った顔で勝手口に立ち尽くしているのを観てしまい、従来の人の良さから千尋は聴いたのだ。

「なに、こまってる」

ジェネッタはセリアンの種族である。
セリアンとは獣の血を引くという武人の種族で、多くは力と俊敏性に長じた職業に就く事が多い。
それは主に剣を扱うマスラオ、獣を思いのまま操るハウンドの二つであることが多い。
しかし、彼等もアルカディアでは主に見られる種族である。
街中にも普通に暮らしている者も少なくない。
ジェネッタもハウンドではあるが、代々家族で経営しているこの宿屋で、姉妹三人で健気に商売をしているのだ。
女性三人だけの為、力仕事は街の男達に頼んでいる事も多い。

「あ。千尋さんおはようございます。ん~今日薪割りを頼んでいた人に急用が出来ちゃって、夕食の分の薪が足らないかもしれないんですよ」

早口のジェネッタの言っている事の半分も、千尋は理解出来なかったが、共に裏庭に出て、少なくなった薪と大きな株に突き刺さったままの重そうな斧を見て、大体の事情は呑み込めた。
要は薪割りをする人が居ないのだろう。
千尋は自分を指差してジェネッタに微笑んで見せる。
それでジェネッタも吃驚して千尋を見て、両手を勢い良く顔の前で横に振った。

「飛んでもない!お客さんに薪割りなんてして頂けません!他の人に頼んでみますので、気にしないで下さい!あ、千尋さん!駄目です!この斧はハウンドでも重いくら…い…っ…!?」

この世界、アルカディアで最も繁栄しているのはアースランと呼ばれる種族である。
アルカディアで現在確認されている種族は主に四種族。セリアンとアースランはその内の二つで、見た目は地球人と変わらないアースランは、平均的に優れた能力を有しているが、他の種族より比較的、持久力が高く力が強い。
事情の知らないジェネッタは、千尋を遠い異国から来たアースラン族だと思っていたのだが、アースランにしては一見華奢にも見える線の細い千尋が、オークが持つような大きな斧を、片手で棒でも持つかのように、軽く持ち上げてしまったのを呆然と見ていた。
驚いたのは千尋本人も同様で、最初、両手で取ろうとした斧の柄を握った感触は、「子供のプラスチックの玩具」を握ったそれだった。
不審に思いつつも、そのまま片手で株から引き剥がそうとした処、いとも簡単にそれは抜けてしまったのだ。
思ったより軽い。
あんなに重厚な斧に見えたのにと千尋は不思議に思う。
しかし、これでジェネッタの手伝いが出来そうだと安堵したのだった。腕捲くりをして、初めての薪割りの開始である。

「千尋さん…力持ちなんですね。その斧、セスタスやマスラオの方くらいしか持てないのに凄いです!」

そしてジェネッタは我に返る。
例え持てたとしてもお客様である千尋に、然も現在ジェネッタの宿の一番の顧客であるヴァランシェルドのギルドマスター、ヴィクター兄弟の賓客である千尋をこき使う訳にはいかない。
ジェネッタは半べそを掻きながら千尋に止めるよう頼むが、千尋は笑顔で「だいじょぶ。ひみつ」と繰り返しながら、結局其処に集めて置いた薪を全部割って薪棚へ運び終えてしまった。
ジェネッタは何度も頭を下げ、千尋の汚れた手を握ってお礼を言った。
そして千尋の顔を見てトマトのように顔を真っ赤に染める事になる。
千尋は年頃の娘であるジェネッタに手を握られ、どうしたらいいか迷い、最初はうろうろと視線を彷徨わせていたが、結局は恥ずかしそうにだが微笑んだのだ。
千尋はこの世界でも身体を動かせること、人の役に立てたこと、自分にも出来ることがあることを実感し、心底嬉しかったのだ。

「ジェネッタ、わらう、オレ、うれしい」

斧に付いた炭で顔を汚したまま幼子のように微笑む千尋に、ジェネッタがまだある筈もない母性本能を刺激されてしまったのは仕方無い事だろう。





しかし千尋はその夜、外出から戻ったヴィクターにこっぴどくお説教される羽目になる。
10歳近く年の違う男にお説教される三十路過ぎの男を自覚して、千尋は絶望に近い感覚を味わっていた。
兄二人と姉がいる千尋は怒られる事も度々有ったが、主にそれは千尋を心配しての小言だった為、頭ごなしに怒られる事はほぼ無かった。
いい事をしたつもりだった千尋は、何でヴィクターが鬼のような形相で怒っているのか分からなかったし、そして何より哀しかった。
千尋は褒めて欲しかった訳でも無いし、ヴィクターに喜んで欲しかった訳でもない。
でも、言い訳をするでも無く、真っ青になったまま黙り込む千尋を見て一層不機嫌になっていくヴィクターに、千尋はとうとう消えてしまいたくなった。

「兄様、ちぃはジェネッタが困っているのを見て手伝ってあげたのでしょう。怪我も無いようですし、そんなに叱らないであげて下さい」

見兼ねたジェラールが千尋を庇うかのように、前に進み出る。
ジェラールはヴィクターの実弟で、ヴィクター同様アースラン族であり、竜騎兵ドラグーンでもある青年だった。
本来その優し気な容貌から竜を駈り大楯で仲間を護る職業にはとても見えない。
しかし、兄と同じく意志の強そうな瞳からは、ジェラールがドラグーンである事が見て取れた。
兄弟と言えど、二人はそれぞれ片親に似たのだろうか、兄のヴィクターとは容姿が異なり、ジェラールは萌黄がかった白金の髪と水色がかった藤色の瞳をしていた。
瞳に虹彩が掛かって見えるのは同じだったが、オッドアイでは無い。
その藤色の瞳が哀しみに揺れている。千尋の表情を見てしまったのだろう。千尋の異なる色彩の瞳に大粒の涙が光って見えた。

「ちぃ?兄様はちぃが心配だから怒っているのだよ。この宿屋内では安全だけれど、街中は色んな人種がいる。誰がちぃの素性を知ってしまうか分からない。ちぃは、その、特別だから」





繰り返し聴かされる言葉が二つある。『フェルベエスカ(特別)』と『ヴィゲーヒェン(外来者)』。
千尋にはまだ難しく、意味は理解出来なかったが、異端扱いされている事は本能的に分かった。
明日、ヴァランシェルドは世界樹の迷宮に挑む為のミッションに臨む事になった。
多くのギルドメンバーが今後、入れ替わりでこの宿を留守にする。
勿論ギルドマスターであるヴィクターは、第一線で迷宮にほぼ入り浸りになる事だろう。
ヴィクターが自分の身を心配してくれるのは嬉しい。
しかし、彼が帰るまで千尋は恐らく宿屋から、最悪部屋から出して貰えないだろう。
アルカディアに来る前、家族の面倒を見る為、遊びたい盛りの18歳で家庭に入った千尋は、麗らかなある日の昼下がり、広い縁側で山のように積み重なった洗濯物を、ただ一人黙々と畳んでいた。
帰宅した弟妹達は良く手伝いをしてくれたが、自分が出来なかった勉強や友人との遊びを優先させてやりたくて、千尋はなるべく皆が帰宅するまでに家事を終えるよう毎日必死にこなした。
空は良く晴れていた。何が哀しいのかと聴かれても千尋には答えられなかっただろう。
しかし、青い空を一人見上げ、ただ涙が流れた。
両親は遺産として大きな邸宅と道場、敷地を残してくれていた。
既に社会人になっていた上の兄達が道場を巧みに運営してくれたし、無事に渡米した姉も数年で運良く有名な女優の専属スタントに抜擢され、充分ではない給料の中から仕送りしてくれていた為、日々の生活に困る事は無かった。
ただ、千尋は常に一人だった。
兄達としては、異形の弟を世間から護っているつもりだったのだろう。
傷付けたく無くて、なるべく人の目にも触れさせないようにした。その所為か、家族という檻の中のみ、千尋は息をする事を許されているような気がしていた。
弟達はいずれ社会に出て、この家から巣立って家庭を築くだろう。
インターネットが流通しているこの社会、千尋のような異形の存在は多くないにしろ、決していない訳ではない事を知っても尚、千尋は自分がこの世界では異端だと思っていた。
だから、アルカディアに来て、最初は不安や恐怖しか無かったが、次第に慣れていくに連れ、オッドアイや獣人、不思議な髪の色の人種が大勢居る事を知り安堵した。
自分のこの容姿が普通な世界。千尋は寧ろ、このアルカディアこそが千尋の本当の世界ではないかと思い始めていたのだ。
しかし、ヴィクターやジェラールを始め、千尋はこの世界でも異端だったのだと思い知らされた。
『ヴィゲーヒェン』
何を意味しているのか分からない。しかし、千尋が自分の居場所を見失い、絶望するには充分だった。

「ヴィック。わかた。オレ。ここ。いる」

眉間に大きなシワを寄せていたヴィクターの顔が安堵に綻ぶ。
大きな手で千尋の癖っ毛を掻き混ぜ、いつもの困ったような優しい笑顔を見せてくれる。
ヴィクターは漸く千尋が自分の立場を理解してくれたのだと思い込んだ。
ジェラールはまだ心配そうに千尋を気遣ってくれていたので、千尋は二人を安心させたくて微笑もうとした。
だが、それが上手くいったか自信は無かった。





しかし、事件は起こるのである。
明け方に出発したヴィクター達パーティを見送り、ジェラールは午前中売り切れない内にとアイオリスの大市であるセリクの店に出掛けて行ってしまった。
その間、ジェネッタの宿から出ないという約束をしっかりさせられたので、千尋は仕方無くジェネッタに何か手伝える事がないか、聴いてみようと階下に降りて来た。
そこでジェネッタが誰かと言い争いをしているのを聴いてしまうのである。
姿を見られないように、階段の踊り場で屈んで身を隠す。

「だ~か~ら~!おねいちゃんはいないし、今はウチしかいないのだから無理ですってば!急ぐなら他を当たってからにして下さい!」

カウンター越しに身を乗り出すかのように、二人組の男がジェネッタに必死に頼み事をしているようだった。
ジェネッタと同じ獣耳と尾を持つセリアンの男と、目立つ容貌ではないもう一人の体格のいい男は恐らくアースランだろう。
二人とも冒険者にも見えるが、街中だからだろうか、目立つ武器を持っている様子も無い。
千尋は困っているジェネッタに助け船を出そうか思い悩んだ。
ヴィクターやジェラールになるべく人と接触しないよう注意されている。
何故なのか理由は分からないが、他のギルドメンバーもさり気無く千尋が外出する際や、人と接触する際は同伴するよう留意してくれていた。
今日の担当は最初の紹介の際、自分を値踏みするかのように見ていたピアニーという少女だった。

「勝手に部屋から出ないでよね。迷惑だから!」

ヴィクター達を見送った後、ピアニーはそう言って千尋に念押しすると部屋に籠ってしまった。
先程躊躇ったが、遠慮がちにドアを叩き、階下に降りる旨伝えると「分かった」とだけ返答があった。
ピアニーに言うべきだろうか、千尋は悩んだが、やがてジェネッタが悲鳴を上げた。咄嗟に身体が動いた。

「ここは宿屋です!お客さんのしゅひぎむって奴があります!誰が泊まってるかなんて教えられません!お役所に申請してお役人さまと一緒に出直して下さい!」

いつも朗らかに対応するジェネッタが声を荒げている。
男の一人に腕を掴まれてもセリアン族特有の武人の血の所為か怯む様子を見せない。
千尋は階段を降り、ジェネッタに声を掛けた。
しかし、振り向いた二人の男の視線にぎくりと身体を硬直させる。ジェネッタも千尋の姿に金切り声を上げた。

「ピアニーさぁぁん!!早く!早く来て下さぁぁい!!」

捕食者の目だった。獲物を見付けた肉食獣の目。千尋は思い出した。
アルカディアに来た初日の夜に出逢った黒豹の獣人達人攫いと同じ目。
否、男達の目はそれ以上に不気味な暗い色を潜ませていた。悪魔のように大きな口が弧を描く。
セリアンの男は舌なめずりをして笑いながら口を開いた。

「何だ。やっぱり居るじゃないか。お嬢さん、嘘はいけないなぁ」
「旨そうな外来者(ビジター)だ。バラす前に楽しませて貰わなきゃなぁ」

厭らしい笑みを浮かべ、男二人は口元に布を当てる。千尋は恐怖で脚が竦み動けなくなっていた。
アースランの男が持つ茶色い草が鈍く燃えて煙が立ち込めて来る。何かの香だろうか。
階下の騒ぎに漸くピアニーが降りて来た。しかし、目の前で倒れていくジェネッタと千尋に咄嗟に反応出来ない。
そして思いっ切り香を吸い込んでしまったピアニーもまた、その場に崩れ落ちる。
麻痺の香。
冒険者として経験の浅いピアニーは、悪態を吐きつつ、自分の身勝手な行動で、切り刻まれる千尋の姿を想像して絶望した。





ジェラールが戻って来たのはそれから1時間も経過していなかった昼頃だった。
取り乱して泣き続けるジェネッタから状況を何とか聞き出し、目の前が一瞬真っ白になったが、痺れる身体で街中に出払っているギルドメンバーを集めつつ、情報収集をしているピアニーの事も気になった。
間も無くピアニーがシャーマンの二人、ハナミカヅキとスズシロを連れて戻って来た。
ハナミカヅキはすぐに天啓を授かる準備を始めた。
ハナミカヅキはシャーマンの能力以外にも巫女の能力がある。占いや天啓などそれは神憑りと言っても過言ではない。
巫女姫と呼ばれる彼女は、早々に千尋の居場所を探り始めた為、一同は口を噤む。

「まだ街中におるようじゃぞ。夜になれば闇夜に紛れて逃げてしまうつもりじゃ。早ぅせねば」

硬く握った掌を額に翳し、ハナミカヅキが告げる。
次第に集まって来たギルドメンバー達は、精根尽きて倒れそうなピアニーの情報を集め、分析するとジェラールの指揮の元、対策を練った。
時間がない。
ジェラールは強く気を引き締めると街の地図を円卓に拡げた。





誰かが泣いてる声がする。
あぁ、泣かないで。
千尋は弟であり、兄でもあったから、幼い弟達をいつも宥め、慰めていた気がする。
幼くして両親を失った末っ子には特に甘くなってしまって、強請られるまま好物のおやつを作ってやっていた気もする。
愛情を請う分、人の気持ちには敏感になってしまう。
満たされない癖に家族や友人に対して誠実に愛情を満たそうとする健気な処を、千尋を知る者は皆愛した。
目を開けようとするのに、瞼がまるで鉛で固められたかのように重くて開く事が出来ない。
あぁ、慰めてあげたいのに。
大丈夫だよと頭を撫でてあげたいのに。

『……だいじょ…ぶ…、だ…じ…ぅぶ…だか…ら……』

身体が動かない。意識は浮上しつつあるのに、瞼が、腕が動かない。
周りで大勢の声がする。焦って千尋を呼ぶ声もした気がした。
泣き声は止まない。
あぁ、誰か、この腕を上げて欲しい。
この嘆く声に応えてあげて欲しい。
千尋は最早、掌ほどしかない力を振り絞って目を微かに開いた。

「…うぇっ…生きてて…くれた…。ちひろ…、生きててくれた…うぁぁぁん!!」

目の前で泣いているのは、夕闇の中、鮮やかに輝くオレンジとピンクの髪。ピアニーだった。
年頃の娘がまるで幼子のように顔を真っ赤にして泣いている。
そんなに目を擦っては明日腫れてしまうのにと虚ろに思う。
千尋は状況が分からず動かない身体はそのままに、視線だけで周囲を見渡した。
千尋を拉致した人攫い集団は皆、ヴァランシェルドのメンバーが抑え込み、次々と衛兵達に引き渡されていた。
後ろから千尋を抱きかかえているのは、ジェラールだった。
泣き続けているピアニーを心配して、ハーバリストのロビンが千尋の腕に包帯を巻きながら声を掛けている。

「ピアニーさん、もう薬草で傷はほぼ塞がりましたし、命の危険はありませんから、大丈夫ですよ」
「…だって…!だって…ちひろ、こんなに傷だらけで…、こんなに血が出てたのに…!!」
「人攫い達も、ちぃに死なれては困るので、回復させながら傷付けていたのでしょう。早く宿で休ませてあげましょう。あんな無茶をしたのです。貧血になるかもしれません」
「…そうですね…。ヴィクターさんを庇って…勇ましい人です」
「これで兄様も僕の気持ちを分かってくれたんじゃないかな。さぁ、ピアニー。手伝ってくれるね。僕とロビンだけじゃ心許ないんだ」

最後の一人を衛兵に引き渡したマスラオのユキフサが合流し、衰弱した千尋を担ぎ上げる。
ヴィクターはまだ動けないようだった。
先に宿へ戻るようジェラールは指示した後、兄の許へやって来た。
ピアニーの仕事は完璧だった。
唯一千尋の身元を知っているのは千尋の衣類の修繕を依頼した洋裁店だけだ。
あの女店主は口が堅いが、数人いるお針子の内の一人、エイミーだけは男が毎週変わる女だった。
エイミーは冒険者と名乗る男との情事の後に、今週あった事をぺらぺらと話して聴かせた。
男はその価値が全く分からなかったので、その話を情報として柄の悪い男に安く売ってしまった。
その男は勿論、その価値を充分に分かっていたので、人攫いを専門にしている頭目に誘いを掛けた。大儲けが出来るネタとしてだ。
ほんの数時間でそこまで調べあげたピアニーは麻痺の香の毒が悪化し、ジェネッタの宿で昏倒した。
スズシロが回復を行い、キトラと狼のレインが戻ってくる。
二人も既に人攫い達の潜伏先を発見し、フランシスの放った死霊が見張っている状況だった。
ピアニーの情報で敵の人数も職業、スキルさえも全て周知された。
そしてギルドメンバーほぼ全員で突入した際に、それは起こったのだ。





「お前等動くんじゃねえ!こいつがどうなってもいいのか!外来者(ビジター)は死体だって高く売れるんだぞ!」

他の仲間達が捕らえられていく中、千尋の身体を切り刻み弄っていたアースランの男は、観念する処か千尋を盾に退路を開けろと往生際悪く脅迫して来たのだ。
上半身のシャツは切り刻まれ、血塗れで息をしているのかさえ怪しい千尋に、メンバー全員が蒼白になりその場で立ち竦む。
一人では立てないのか、何度か男が千尋の身体を抱え直す様に誰かが悲鳴を上げた。
しかし、鳥のような高い声で咆哮した何者かが、まるで一振りの刃のように千尋達に躍り掛かって来た。
自身より大きな死神の鎌を振るうリーパーの少女、ピアニーだった。
普段はマゼンダと紅の異なる両の瞳は、今は怒りで真紅に染まっている。
ピアニーは男が我に返る隙も与えず大鎌の柄の先でその顔面を殴り付けた。
弾かれるように千尋が男の手から解放された処に、ピアニーが自分の身体を滑り込ませ千尋を庇うようにその前に立ち塞がった。
男は顔面から血を流しながら鬼のような形相になる。
やがて聴くに耐えない罵詈雑言を吐くと、その拳を握り締めた。
ピアニーがその気迫に一瞬、身を竦ませる。男はその間を逃さなかった。
大鎌ごと、小柄な少女が男の拳に弾け飛ぶ。虚ろだった千尋がその様を見てしまい、掠れた声を振り絞り泣き叫んだ。
この世界では誰も分からない悲痛な声は硬直していたギルドメンバーを奮い立たせるには充分だった。
ヴィクターが大楯の重量感など無いかのように大きく跳躍すると、千尋と男の前に着地し、素早い動きでピアニーをメディカで回復させる。
カナリアが背後から周囲のメンバーにキュアハーブを掛けて行く。
しかし、男は怯むことなくヴィクターの大楯に突進して来た。
まるで恐怖が麻痺してしまったかのような自虐的な行為だったが、その行動は全て現状を把握しての行為だったという事をヴィクターは身を以て実感する羽目になる。
鉄が弾ける音がして、ドラグーンであるヴィクターの大楯が男の体当たりで後方に押し返される。
恐るべき力だった。上半身を起こし、ピアニーが呻く。

「セスタスの…こいつの力量は…私達より遥かに弱かった筈なのに…何故…」

弾かれても弾かれてもヴィクターは千尋とピアニーを護る為、大楯を構え直す。
しかし、じりじりと男の力で後退させられているのは事実だった。
背後から他のメンバーが攻撃を仕掛けても逆に傷を負わされ、男は周囲をギルドメンバーに囲まれつつも、疲れを見せる様子が見られない。

「そうか…。こいつ…千尋の血を…。だから今、無敵の状態なんだ」

後衛のメンバーの指揮を取っていたウォーロックのシェラザードは、漸くその事実に気付き、改めて外来者(ビジター)の血肉の効果が真実だったのかと顔を歪ませた。
防御力の無い後衛のメンバーが襲われれば一溜まりも無い。
距離を置き、少しずつ血の効果が薄れるまで待つよう素早く指示を出した。
しかし、男も馬鹿では無かった。時間稼ぎをされればお終いだ。
それに、血を舐めただけで力が上がり、ほぼ疲れ知らずになる外来者(ビジター)の身体をこのまま失う訳にはいかなかった。
外来者(ビジター)さえ居れば自分は無敵だし、大金持ちにもなれるのだ。
こんなチャンスはもう一生ないだろう。
男は獣のように咆哮し力を溜め、ヴィクターの大楯に肩から突っ込み更に体当たりを仕掛けた。
男の鉄の肩当とヴィクターの大楯が当たり火花が散る。
大きく呻いたヴィクターの腕から大楯が弾け飛ぶ。
剣を抜く暇を与えず、熊のような大きな掌がヴィクターの喉を掴み、締め上げた。
軋む肉の音に千尋が息を呑む。しかし、苦痛に身を捩るヴィクターの表情に、男が下衆な笑みを浮かべた。

「へえ…どうやら今日の俺は付き捲くってるみたいだぜ。藍玉双異眼まで見付けちまうなんてな」

ヴィクターの目が驚愕に見開かれる。
彼らしくない程に震える肩を見てしまい、千尋は次第に眼の前が真っ赤に染まっていくような感覚に陥っていく。

クルシンデイル。

自分を助け、保護し、導き、慈しんでくれた恩人の男が。

ウバワレテシマウ。

藍玉双異眼(クドリャタール)と言われた時のヴィクターは、此処に来た時の自分だった。

マモラナケレバ。

千尋はその胸の奥底から囁く声にその身を委ねた。





カタカタカタカタと千尋を攫った男達が潜伏していた廃工場全体が揺れる感覚がして、捕らえられていた男達もギルドメンバー達も、地震かと思い周囲を警戒する。
しかし、揺れているのはこの建物だけのようだった。
しかし、その揺れは次第に大きくなっていく。
そしてその震源が突如、血に塗れた身体で立ち上がり、獣のように咆哮したのだ。
その凄まじい怒りの声はビリビリとその場に居た者を恐怖で金縛りに合わせてしまう。
傍らでピアニーが呆然とその姿を見上げ、顔を歪めると涙を零す。

「駄目だよ……ちひろ…動いちゃダメだよ…、死んじゃうよ…逃げて…逃げてよぉぉ…」

いつも後ろで束ねていた長めの髪は解かれ、今は怒りの為か蜃気楼のようにゆらゆらと顔の周りを揺れている。
少し離れていた処に居た後衛のハーバリスト、ロビンが急いでキュアハーブを掛けようとした処、まるでそれを避けるかのように千尋は、大きく跳躍すると、ヴィクターの喉を締め上げている男の顔面を渾身の力で叩きのめした。
肉がへしゃげる鈍い音がして、男が後方によろめく。
漸く喉が解放されたヴィクターは弱々しく咳込んでその場に崩れ落ちた。
急いでピアニーと一番近くにいたセスタスの少女、ココアロッカが近寄って来て、ヴィクターにメディカを使う。
後衛でシェラザードの横にいたシャーマンのハナミカヅキが呻くように呟く。
余りもの神気で息苦しいようだった。隣のスズシロも辛そうだ。

「本来なら発現しない、外来者(ビジター)の真の姿じゃ…。呼び覚ましてしまうとは…何と愚かな…」

男は千尋の血の効果のお陰か、辛うじて致命傷には至らなかったが、何が起こったのか理解出来て居ないようだった。
殴られ、折れた歯が咥内に突き刺さり、ごぽりと大量の血を吐き出す。
鼻は既にひしゃげ、見る影もない。しかし、千尋は止まらなかった。
更に跳躍し、男の懐に一瞬で間を詰めると、鋼のようだった男の腹に拳を減り込ませる。
雷が落ちたような衝撃波が二人を囲むように拡がり、男が更に血反吐を撒き散らし蛙のような声で呻いた後、その場に蹲る。
それでも哀しい事に意識を失えない。
歯が無く、まともに喋れないのか、男が必死に千尋に命乞いをしているのは分かった。
しかし、千尋は表情を失い、自分に縋ろうと伸ばした男の手から逃れ、羽根のようにその身を翻す。
金と蒼のオッドアイだけが炎のように揺らめいた。
千尋は男の背後に回ると、拳を再び振り翳す。ココアロッカが息を呑んだ。
セスタスでマスタースキルを取ろうと思っている自分なら分かる。あれは狂戦士の異名でも知られるセスタスのマスター、「衝撃の拳士」の構えである。
外来者(ビジター)でセスタス職でもない千尋が、何故マスタースキルを使えるのかと身体が震える。
このスキルは、敵一体に近接攻撃を行うもので、残り体力の割合が自身より高い敵に対して威力が上昇する。
敵の残りの体力の割合がスキル使用者より1%でも多ければ大威力になるのだ。
男は千尋を散々嬲り、然も千尋の血で恐ろしい程パワーアップしている。その効果は最大限に生かされるだろう。
背後に千尋が居ると分かっても、男は恐怖で身体が動かない。
しかし、千尋は無表情のまま心の奥底から響く声に従おうとしていた。
両手は男の歯が減り込み、衝撃に耐え切れなかった千尋の血肉が裂けて、血で真っ赤に染まっている。
年若く世界樹の迷宮のモンスターと闘うばかりで人間と闘う事の少ない年少者達の中には、見て居られなくて顔を両手で覆ってしまう者も居た。千尋は迷わなかった。

ヤラナケレバ。

例えまた一人になろうとも、彼等を失う訳にはいかなかった。皆は一人だった自分を受け入れ、優しくしてくれた。そして何よりも、誰よりも、ヴィクターを失いたく無かった。

カレヲマモル。

彼を苦しませる全ての事から護りたかった。この世界の住人では無い自分を拾い、大事にしてくれた彼を今度は自分が護る。獣の咆哮を上げ、狂戦士と化した千尋がその血塗られた拳を振り上げたその時。

「千尋ぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉ」

悲痛な叫びが廃工場内に響き渡った。
千尋が拳を振り上げたまま、その場で巌のように動かなくなる。
声の主は勿論ヴィクターだった。
未だ呼吸も困難な状況の筈なのに、必死に喉を震わせ叫んだのだ。ヴァランシェルドを護る為、何よりヴィクターとピアニーを救う為、千尋は更に自分を追い詰めようとしている。
そんな時に喉が痛いなどと言っている場合では無かった。
何よりあんなに優しい千尋が人を殺してしまえば、心が壊れてしまうだろう。
そんな辛い想いをさせる事も、哀しい目にも遭わせるも出来る筈が無かった。
拳を振り上げたまま千尋がヴィクターに視線を向けた。瞳はまだ揺れている。
ヴィクターは努めていつも通りの声で千尋を呼んだ。

「いいんだ。もういいんだ千尋。私もピアニーも皆も、無事だ。だから帰ろう」

モウイイ。
ブジ。
カエロウ。

千尋は何回かその言葉を自分でも繰り返しているようだった。その様子を見守りヴィクターが囁く。

「もう…全部終わったんだ。千尋。…お前のお陰だよ」

漸く外来者(ビジター)の血の効果が切れたのか、血塗れで昏倒したセスタスの男は、瀕死の状態で衛兵達三人がかりで連行されて行った。
その様子をぼんやり見遣っていた千尋は、心配しつつ近寄って来たジェラールの目の前で糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ堕ちた。
そしてピアニーが泣き始めたのだ。
ギルドメンバーも漸く我に返り、賊達の拘束を再開し始め、次々と衛兵に引き渡して行く。
手の空いたメンバー達が懇々と眠る千尋を心配し、ハーバリスト姉弟に手当をされている周辺に集まり始める。
千尋は傷だらけではあったものの、無事、ヴァランシェルドの元に保護されたのである。





引き攣る瞼を開けると馴染みの天井がぼんやりと見えた。
ジェネッタの宿に戻って来て数日経過しているようだが、身体はまだ動かない。
回復力だけは人並みのようだ。これで漫画やアニメのように一瞬で傷が治ってしまっては本当の化け物だ。
でも、地球世界と同じように、また異形を見る目で見られるかと思うと、その身が引き裂かれる程辛かった。
昨夜のこと。意識を取り戻した千尋の部屋をハナミカヅキが訪れた。

『ヴィゲーヒェン(外来者)』

外来者(ビジター)と呼ばれる存在の意味、能力を、ハナミカヅキが根気良く、千尋が分かるように説明してくれた。
地球以外の世界からも外来者(ビジター)は送られて来るが、彼等に共通するのは、その血肉がアルカディア人にとって希少な事。
常に捕獲者に狙われる存在である事。
その血肉は不死さえ叶えると言われている事。
そして何より、外来者(ビジター)自身がアルカディア人より強く、異能の力を持つ者であると言うのだ。
蒼褪める千尋に、ハナミカヅキは気遣いながらも退室していった。
此処も、アルカディアでも自分は受け入れて貰えないのだ。涙が溢れて来る。
地球世界に帰る術も分からない。こんな自分の為に、皆に迷惑を掛けられない。千尋はただ一人、捕獲者から逃れ、このアルカディア世界を彷徨うしか無いのだ。
廃工場に囚われ、異能の力でセスタスの男を殴打していた際、僅かだが千尋には意識があった。
だから覚えているのだ。恐怖に見開かれた皆の目、血塗れの自分を直視出来ずに顔を覆う年少者達。
地球での千尋は、皆と容姿が異なる「ただの男」だった。
だが、アルカディアでは、容姿は普通ではあったが、『フェルベエスカ(特別)』、「化け物」だった。

『は…ははは…、化け物……か…、まだ髪や目の色が変わってるだけの方が…マシだったじゃないか…』

涙が溢れて止まらなかった。東雲家の兄弟達の顔がただ、ただ、懐かしかった。
皆に名を呼んで欲しかった。『フェルベエスカ(特別)』などでは無く、ただの男、ただの弟、ただの兄として、あの場所に、地球世界の東雲家に、ただ帰して欲しかった。
長男の一真から、末っ子の京伍(けいご)まで八人の兄弟姉妹の名前を呼んでは泣くを繰り返した。
哀しくて、淋しくて、千尋はまるで迷子の子供のように泣き続けた。
涙が枯れ、泣き疲れると、ヴィクターの事が気になった。
ヴィクターはハーバリストのロビンが付きっ切りで看る程、重症だった。
致命傷では無かったものの、負傷したのが喉だった為、完治に少し掛かっているようだった。
ヴィクターが畏怖した藍玉双異眼(クドリャタール)の言葉の意味は分からない。
ただ、あの言葉を聴いた途端、ヴィクターの肩が、一瞬強張り、震えたのだ。
それを見てしまってから千尋の記憶は曖昧になる。
でも、彼が無事なら、彼を助けられたのなら、それで良かった。
一ヶ月以上も親身になり、大切にして貰った。
自分の為に彼を危険な目に遭わせる訳には行かない。
自分が居れば、いつもこの身を狙い、誰かがやって来る。
世界樹の迷宮踏破という目的を持つギルドメンバーに、自分の問題を増やしたく無かった。

『一人だと……いい訳ばっかだ……』

結局は怖い癖にと目尻に涙が浮かぶ。皆の目が怖くて逃げ出したいのにと自嘲する。
ヴィクターにもジェラールにもピアニーにもカナリアにも、ヴァランシェルドの皆にも嫌われたく無かった。
化け物の自分を見られたくなかったのだ。ハナミカヅキの最後の言葉が胸に降りて来る。

「一人で抱え込んではならぬぞ。完治したら皆と話そう。先ずは身体を治すのじゃ」

身体はまだ動かない。でも、無理をしてでも行かなくてはならない。
此処から、この宿から、皆の許から去らなければならない。
千尋は痛みに耐え、唸りながら身を捩った。傷が開いて包帯に血が滲む。何とか側臥位になる。
しかし、そんな千尋の行動など予測していたのだろう。小さくドアがノックされ、千尋はベッド上で硬直する。
躊躇いがちに聴こえて来たのは、一番聴きたく無かった声だった。

「ちぃ、千尋、私だ。ヴィクターだ。…………開けるぞ」

千尋は恐慌状態になった。片言のアルカディア語で返答する余裕なんて勿論無い。感情に任せて日本語で拒否の声を上げる。
しかし、その異常にヴィクターは逆に焦れて大きな音を立てて居室に踏み込んで来た。
案の定、千尋はベッドの横に座位の状態で倒れており、息を荒げていた。
無理矢理動いた所為で幾つか傷が開き、包帯の所々が血で斑になっている。
ヴィクターはその様子で全て悟ってしまった。千尋の恐れと願いは自分でも良く知っているものだったからだ。

「ちぃ、私の声が聴こえるか」

共に来ていたカナリアがキュアハーブで応急処置をしている間、声を掛け続ける。
僅かに瞼が震え、千尋はおずおずとヴィクターをその瞳に映した。金と蒼の異なる瞳は今は曇って硝子玉のようだ。

「ちぃ、今、お前に何を言っても信じて貰えないかもしれない。でも、私の願いはただ一つ。ただ一つだけだから、出来る事なら聴いて欲しい」

ヴィクターは、まるで姫に傅く騎士のように千尋の前で膝を折ると、そっとその包帯塗れの手を取り、両手で包み込んだ。
触れただけで千尋は仔ウサギのように身を竦ませ震えた。傷以上に痛々しい。

「例え、お前が何であろうと、私達の、私の傍に居て欲しい。千尋、お前に居て欲しいんだ」

これはギルドの総意でもあるんだと付け加える事も忘れない。
ピアニーもカナリアもロビンもハナミカヅキもユキフサも皆、お前を待っていると告げると、千尋は瞳を揺らし首を横に振った。
金と蒼の大きな瞳から涙が滴となって飛び散る。あぁ、綺麗だなとヴィクターはこんな状況にも関わらず見惚れた。

「ダメ。オレ、みな、めいわく」
「迷惑だなんて奴は一人も居ない。今度は皆でお前を護る」
「オレの、からだ、ちがう。みな、こわい」
「そんな奴居ない。寧ろ、怖がってしまって謝りたいと皆言っている」
「…………」
「……ちぃ……」

千尋は暫く躊躇った後、意を決して口を開いた。

「まもられる、ダメ。オレ、ヴィック、みな、まもる」

今度はヴィクターが絶句する方だった。千尋は握られて居なかった方の手をヴィクターの手の上に重ね、強く握った。
両親を亡くした時、護ってやると兄は言ってくれた。ヴィクター達もそうだ。
自分はいつもその身を嘆くだけで護られてばかりだった。皆に嫌われるのは怖い。畏怖の目で見られるのは辛い。
でも、この異能の力が有れば、皆を護る事が出来る。千尋は掌で涙を拭うとヴィクターにぎこちなく微笑んだ。

「オレ、ヴィック、まもる」

ヴィクターは千尋の想いまで全て理解する。
だから何も言わず大きく頷いて破顔した。
ヴィクターの年相応の、無邪気な青年の笑顔に千尋は一瞬、きょとんとしてから嬉しそうに笑い返す。
ヴィクターの思惑に気付く事無く微笑む外来者(ビジター)は知らない。
ヴィクターがヴァランシェルド全員で彼を慈しんでいる事を自覚出来るよう全力を注ぐ事を決意した事に。
そして千尋は包帯が取れて皆に回復祝いを開いて貰った時に、嫌という程それを実感させられる羽目になるのだった。



<了>

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何とか終わりました。
一ヶ月近く掛けて直して直して書き続けましたが、取り敢えず出します。
千尋はもっと欲を出して欲しい。次回は「衝撃の拳士」になる話を考えています。
絶対揉めたと思いますし。


















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