ブルックナー音盤日記

録音データは下記サイトより
https://www.abruckner.com/discography1/

Symphony No. 7 in E Major, Franz Welser-Moest, London Philharmonic Orchestra

2023年04月14日 | 日記
1885 Version. Ed.Leopold Nowak [1954]
27/8/91: EMI CLASSICS CMS5209432
60:49 - 19:49 20:24 8:58 11:37

CDのジャケ写で見ると少女漫画に出てくる指揮者の実写版のような容姿のウェルザー=メスト。
テンシュテットの後任でロンドン・フィルの首席指揮者、ドホナーニの後任でクリーブランド管の音楽監督と、アングロサクソン圏ばかりで稼いでる人のイメージがあったが、ネットで調べるとチューリッヒ歌劇場、ウィーン国立歌劇場の音楽監督も務めている。
超エリートなのだ。

たぶん容姿のせいばかりではないと思うが、CDは少なめでDVD/BDなど映像商品の方が多い(オペラ指揮者だからというのはあるだろう)。
わたしが持っているのはこの2枚組(ブルックナー第5交響曲とのカップリング)のCDだけだ。

ロイヤル・アルバート・ホールでのライブ録音。
速めのテンポ(第2楽章まではほぼ中庸で気持ち速め、3楽章以降はかなり速い)。

オーケストラ全体の大づかみな流れは、抑えるところは抑え盛り上げるところはきっちり盛り上げる、ツボを心得た絶妙のコントロールぶり。
しかも、さすがエリート指揮者、それにとどまらず同時に個々の声部のフレーズに表情を付け、大きな流れへの奉仕に還元されない細部の多様性を掘り起こそうとする。

ただ、個人的にはそれが小うるさく感じられて、ブルックナーはもっと鷹揚にやってくれた方がいいのに、などと思ってしまう。
それに、そういう野心的な試みは聴衆を選ぶだろう。
聴き手のキャパが小さければ、細部に気を取られて、いろんな要素が羅列され散漫に流れてゆくだけの、焦点が定まらない演奏に聞こえかねない(あっちでニョロニョロ、こっちでウッフン)。
わたし自身、特に第1楽章でそういう印象を受けた。

終楽章は野心を抑えてわかりやすく盛り上げ、ロンドンの聴衆からせっかちで盛大な拍手を獲得している。

Symphony No. 6 in A Major, Otto Klemperer, New Philharmonia Orchestra

2023年04月12日 | 日記
1881 Version. Ed. Robert Haas [1935]
6-19/11/64: EMI CD 5 62622 2
54:54 - 17:02 14:42 9:23 13:48

Otto の名はドイツ人に多い。
なんでドイツ人がイタリア語のしかも八郎ばかりなんだろう?
かねがね不思議に思っていたが、実は古高ドイツ語由来の語で「8」とは関係ないようだ。

昔バイエルン放送交響楽団とのベートーヴェン第5交響曲のCDのひたすら虚空に円を描き続けるような第1楽章にビックリして以来、クレンペラーは注目の指揮者ではある。
でもその後「これは」という録音にあまり出会っていない(「ペトルーシュカ」には興奮した記憶がある)。

たぶんクレンペラーのことが全然わかってないのだと思う。
そう思いながらも以下勝手な思い付きを書く。

巨大なものがムクムク立ち上がるような威圧的なフォルティシモはこの指揮者の特徴だろう。
フォルテの意味がただの音の強さでなく生命力の強さとして理解され表現されているかのようだ。
聴き手へのインパクトが強い、というか強すぎることがある。

たとえば第1楽章第2主題が2巡目に長調で演奏されるところ。
光溢れる輝かしい自然に心躍る、などというレベルを超え、五感が飽和するほどの田舎のむき出しの生命力が突き付けられるようで、むしろ辟易する。

朝作った味噌汁の残りを昼に温めて食べると美味しいけど、温め直した時に一瞬立ち昇る濃縮された味噌臭が嫌いだ。
その尾籠な匂いを思い出す。

クレンペラーは音楽を構造的に聴かせようとした指揮者ではないかと推測するが、そんなフォルティシモの暴力性に振り回されてそれどころではなかった、というのがわたしの感想だ。

Symphony No. 5 in B Flat Major, Eugen Jochum, Concertgebouw Orchestra

2023年04月07日 | 日記
1878 Version Ed. Leopold Nowak - No significant difference to Haas [1951]
30-31/5/64: Philips CD 464 693-2
75:54 - 20:54 18:55 12:41 23:04

ヴァントも録音があるオットーボイレン修道院でのライブ録音。
これの前に聴いたケーゲルとは音の良さもオーケストラの安定感も段違いだ。

演奏はテンポの振幅が大きい。
第1楽章冒頭を非常に遅く演奏しているのは「この交響曲全体のイントロでもあるんだよ」ということだろうが、それ以外の極端なテンポ操作のほとんどがわたしには意味がわからず(ノレず)、ムラっ気のある人が好き勝手やっているのに付き合わされているような気がしてくる。
特に速いところは滑稽でさえある。

誉れ高き名盤らしいが好みでない。

Symphony No. 4 in E Flat Major, Herbert Kegel, Leipzig Radio Symphony Orchestra

2023年04月04日 | 日記
1878/80 Version (1880 with Bruckner's 1886 revisions) - Ed. Leopold Nowak [1953]
21/9/71: ODE Classics ODCL SPECIAL EDITION I - ODCL1015
69:00 - 19:01 17:40 10:41 21:14

それぞれバラで売られていたCDの中身だけを同じカタログNo.のまま箱に詰めて発売したもの。
2001年9月のレシートが箱に入っていた。
ブルックナーの3番から9番まで7枚のCDが入っているはずが9番が無くて代わりに8番がダブっていたので後日交換してもらいに行ったのだが、売り場のお兄さんに「もう売り切れて交換する品物が無いので返金ならできますが」と言われて、そのまま持ち帰ったのだ。

放送用のライブ録音。
それなりの音だが、先月聴いた8番のスタジオ録音と比べるとこっちの方が古いのによっぽどいい。

第1楽章、バフバフうるさくて好きになれない。

打って変わって第2楽章はいい。
弦楽器を中心に抑えた音で、夜の森をひっそり歩む葬列という感じ。
襤褸をまとった黒い列がぼそぼそと進みながら、ときおり白熱し輝きを発する。

残り2楽章もパワフルでよい。
終楽章第2主題の後半をいかにも田舎の踊りっぽく演奏しているのがおもしろい。

Symphony No. 3 in D Minor, Simone Young, Hamburg Philharmonic Orchestra

2023年03月31日 | 日記
1873 Original Version Ed. Leopold Nowak [1977]
14-16/10/06: Oehms Classics SACD OC 624
68:38 - 25:26 19:20 6:40 17:09

ブルックナーの版問題についてにわかに勉強した。
まず作者が一度作曲した作品を改訂したので、複数の稿がある。
その各稿についてさらに、作者生前に出版された原典版以外に、出版に際して弟子による改変を除くなどの目的でおこなわれた校訂が複数存在する。
ディスクデータに利用させてもらっている abruckner.com のディスコグラフィーでは、稿を作曲あるいは改訂がおこなわれた年号とともに Version、校訂者名を Ed. で表記している。

第3交響曲はブルックナーの生涯で大きな改訂の波が2回あったため、3つの稿がある。
よく演奏されるのはノヴァーク校訂第3稿(1879年)で、わたしが親しんできたベーム/ウィーンフィルの盤やヴァント/北ドイツ放送交響楽団の盤もこれだ。

3月7日に聴いたアーノンクールの盤について、何も知らずにただ「ノヴァーク版」と書いたが、正確にはノヴァーク校訂の第2稿で、ノヴァーク第3稿との違いのほとんどが稿の違いに由来し、3楽章のコーダだけはノヴァーク校訂の特徴のようだ。

今回のシモーネ・ヤングの盤はノヴァーク校訂の初稿(1873年)での演奏。
初稿と第2稿以降とは、第2稿と第3稿の違いが些事に思えるほど全然違う

冒頭から、トランペットソロの主題に続く木管のフレーズが倍に引き伸ばされている。
それが昔の日本の歌、たとえば月光仮面の歌なんかを連想させて、初めてでもないのに動揺してしまう。

全般に第2稿以降にない要素がてんこ盛りで、改訂の方向としては余計なものを削って必要なものだけを残したわけだ。
しかし、聴く方はほとんどが第3稿に慣れ親しんだ後に初稿に接するので、元の形のあちこちに余計なものがくっついて変形したように感じる。

マニエリスムの絵画を見るとき、ダ・ヴィンチやラファエロのスタイルを土台にしてそこに新たに加えられたものに着目することによって理解しようとする。
それと同じように、第3稿を原型としてそこに付け加えられたものによって初稿を理解しようとする。
でもそれでは向きが反対だ。

初稿を初めて接する未知のものとしてまずそのまま受けいれて、そこにどのように彫琢が加えられたかを味わうことによって第2稿、第3稿を知る、というのがスジだろう。
残念なことにわたしにはそんな能力はないので、初稿を聴くと本来の均整がとれた肉体に余計な肉が付いたりキノコが生えたりしたように感じてしまう。

それはそれとして、演奏はなかなかいい。
しかるべき緩急強弱を伴って、しかし細部に耽溺せずやや速めのテンポで推進力が切れない、辛口というかハードボイルドの演奏。

15年ぐらい前に買って聴いたときはつまらないと思い、それっきりにしていた。
今回聴き直してみて、たしかに好みではないけど、それはたぶんわたしがヤングより軟弱だからだろう。

音に魅力が無いのは残念。
鈍色といおうか、これも辛口要素ではありオーケストラの特性なのかもしれないが、録音の問題も大きいと思う。
ハイブリッドSACDをふつうのCDとして聴いているので文句は言えないかな。

12枚組の交響曲全集を買ったものか迷っている。

Symphony No. 2 in C Minor, Horst Stein, Vienna Philharmonic Orchestra

2023年03月28日 | 日記
1872/77 Mixed Versions. Ed. Robert Haas [1938]
29/11/73: Australian Eloquence 442 8557
56:50 ー 17:52 16:16 6:09 16:33

どの楽章も速い演奏。

特に第1楽章は、この曲の良さがまだよくわからないわたしが「何かがまちがっているのではないか」と思うぐらい速い。
「かなり速く ziemlich schnell」と楽譜に書かれているそうだから、こっちの方が作曲者の意図に忠実なのかもしれないが、聴いていると変な感じがする。

でもこの快速テンポが第4楽章の第1主題をノリノリに聴かせてくれる。
流動物が加速度的に沸騰、発酵、あるいは増殖するような、この曲を聴いていてほとんど唯一楽しく感じる場所、一番ブルックナーらしいところ。

魔法使いのあばあさんが大釜に取り付けたハンドルを指さして「回してごらん」という。
おそるおそる回し始めると、スープは徐々にプツプツと泡立ち、やがてたぎり立ち、釜からこぼれ出して、とうとう部屋いっぱいに溢れかえる。

グルグルグルグルグル ラッタッタッタッタ...

Symphony No. 9 in D Minor, Carlo Maria Giulini, Vienna Philharmonic Orchestra

2023年03月25日 | 日記
1894 Original Version. Ed. Leopold Nowak [1951]
Jun-88: DG CD 427 345
68:30 - 28:02 10:39 29:30

ジュリーニのブルックナーをはじめて聴いた。
本当はこのCDを買った時に聴いたはずだが、なんにも覚えてないからはじめてということにしておく。

ジュリーニの写真を見ると、分厚い文化資産を継承しなおかつ豊かな人生経験をあわせ持つ人物に違いない、などという想像がいつのまにか働いてしまう。
ハンサムというにとどまらない意味で容姿に恵まれているのだ。

この曲だからもちろん寂寥感はある。
でもジュリーニの演奏はなぜかその裏にあたたかいものが流れているように感じる。
のほほんと生ぬるいということではなくて、懐深い人格に裏打ちされた諦念というか。

旋律をていねいに歌わせていることは要因のひとつかもしれない。
でも、ジュリーニの視覚イメージが無意識裡に仕事をしている可能性も否定できない。

わたしがブルックナーに求めるものとはちょっと違う気がするが、よくわからないのでいずれ他の盤も聴いてみたい。

1楽章には「茫洋」と呼びたくなるゆるやかな箇所がある一方で、2楽章にはびっくりするほど急テンポの箇所がある。

Symphony No. 8 in C Minor, Herbert Kegel, Leipzig Radio Symphony Orchestra

2023年03月24日 | 日記
1887/90 Mixed Versions. Ed. Robert Haas [1939]
13-19/3/75: Pilz CD 44 2063-2
78:52 - 15:54 14:49 24:03 23:50

立派な演奏なんだと思う。
でも取り付く島が無く、楽しめない。

録音のせいかもしれない。
音が鳴り響く空間が感じられず、落ち着かない。
壁も天井もない真っ暗な空間の微妙に離れたところで演奏されているような感じ。

でもたぶんケーゲルが提示する音楽のせいもある。
オーケストラは上手い。
この時代の東独の録音だからベルリンやドレスデンから呼ばれた助っ人も入っているのかもしれない。
速めのテンポだが、軽いわけでもないし漫然とした演奏でもない。
インテンシティもある。
というかインテンシティしかない。
それ以上はつかみどころがなく、指揮者が何をしようとしているかわからない、というより、そんなものを求められることを拒絶しているかのようにも思える。

Symphony No. 7 in E Major, Lovro von Matacic, Czech Philharmonic Orchestra

2023年03月23日 | 日記
1885 Version with some Modifications by Bruckner. Ed. Albert Gutmann
24-30/3/67: Denon CD COCO 73076
68:54 ー 21:30 24:00 10:36 12:48

ずっと3, 4, 5番ばかり聴いてきて6番以降に縁がなく、中でも7番は一番苦手だった。
今回、第2楽章の良さをはじめて知った。
明るくなったり暗くなったり陰影に富む曲想だが、葬送音楽として聴くと陰影がより深く生き生きと感じられる。

演奏がすばらしい。
指揮者の意志でコントロールする部分と奏者の自発性に委ねる部分とが絶妙に融合している。
勇壮なスケルツォで特にそう感じた。