【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

祖(おや)の命令

2024年11月01日 | 歴史
ようやく意識が戻って来た時、寝具の上に丸裸で横たわっている私へ、武官が白い着物を放って寄こした。 
しかし、こういった場合、「自分で着る」という自発的行為が不利だと気づいた私は、最初、それを肩に羽織っただけでいたのだが、武官に注射針を刺されて、結局、着物の袖に手を通して、腰紐を締める羽目になった。
 
 
明仁のほうは、すでに私と同じ白い着物をきっちり着こんで、布団の傍に立ったまま、私を見降ろしていた。 かつて十三歳の私を強姦した裕仁は、老人の萎びた性器を勃起させるために自分で薬剤を注射していたが、明仁もまた同様の薬剤を打ったのだろう、小男がよく自分の性器を自慢するように、仰臥した私の顔の上にそれを突き出した。私はろれつが回らない舌で叫んだ。「お前は、エイズだろう。・・・うつしたら、殺してやる!」 ・・・何もかもが朦朧とした短い時間の中、着物の合わせ襟が何度か上下に動いて、直ぐにうめき声が聞こえた。膣外射精をしたようだった。
 
 
後日、私と明仁が激しく言い争っているところへ、皇后美智子が現れた。私はこの加害者の妻に対して、でき得る限り客観的に事実を説明したつもりだったが、彼女は訴える私をよそに、自分の夫のほうへ向き直ると、(まったく信じられない話だが)「許す」と小声で言った。亭主の浮気を女房が許す、という意味である。
 
 
私は、再度、繰り返した。「被害者の私としましては、最も重要な問題は、貴女のご亭主が何らかの性病かどうかということです・・・」 しかし、どうせ美智子は理解しなかっただろう。
突然、横から、「ご病気はございません」と侍従が口を挟んで、この話は中断した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

犬の餌

2024年10月28日 | 歴史

赤ん坊を抱いて来たのが誰だったか、覚えていない。それまで宮内庁の薄暗い部屋で監禁されていた私は、食事が終わるたびに、侍女から砒素を舐めさせられて(それで小さな子供が大人しくなると言うのだが)、あとは昼寝用の布団で寝ているだけだったから・・・、「外で遊びたい」と言ったのは確かに私自身だった。そば殻を入れて作った人形を持たされて、宮内庁と皇宮警察庁舎の間に植えられている樹木の一本に寄りかかると、「犬に気をつけなさいね」と女の声がした。

 

赤ん坊を連れて来たのが誰だったか覚えていないが、その子は白いおくるみに包まれて、静かに寝ていた。樹々は少し長くなった午後の影を地面に落としていたけれども、草が生えていない地面に、白い包みは直に置かれていた。


そこへ、突然、地響きとともに、四、五匹の大型犬が疾走して来た。皇宮警察が数十匹も飼っている番犬の「運動の時間」になったのだ。私は何日か前にその犬に手を噛まれたので、悲鳴を上げて、樹々の間を縫って逃げた。大方の樹には下部に枝が無かったので、よじ登ることはできなかった。以前、護衛官が「両手を着物の袖の中へ隠すのだ」と教えてくれたが、三歳ではそれも素早くできなかったから、両手を頭上へ挙げてみた。足はどうすればいいのか分からなかった。


しかし、犬の群れは、私ではなく、地面に転がっている白い包みを目がけて走って来た。そして、何匹かが一斉に噛みつくと、そのまま四方へ引っ張った。私は恐怖のあまり唇を引きつらせ、何か叫んだ。宮内庁の玄関のガラス・ドアに人影が見えたので、それへ向かってまっしぐらに走って行くと、女が一人出て来て、「何があったの?」と訊いた。その時、遠い林の向うから「そいつを中へ入れるな!」と護衛官が怒鳴る声が聞こえた。

 

女は、自分だけ建物の中へ入って、鍵をかけてしまった。護衛官が私に向かって「お前、こっちへ来い。戻れ。元の位置に戻れ」と言っていたが、私は玄関前の階段を降りなかった。不意に犬笛が鳴り、犬らは引き返して行った。一匹だけがいつまでも赤ん坊に喰いついていたが、護衛官が走って来て首輪を掴んで引きずって行った。

 

犬はいなくなったが、赤ん坊はまだ地面に放置されたままだった。泣き声は聞こえなかった。
この後の事態の展開を、私はどう説明すれば良いのか、わからない・・・ 私が幼かったが故に、事の重大さを理解する知能が足らなかった、という言い訳もできるだろう。
すぐに、「第二の群れ」が現れた。皇宮警察は数十匹の大型犬を飼っていたが、全部を一つの檻に入れると喧嘩をするので、五、六匹ずつを幾つかの檻に分けていた。新たに疾走して来た群れの一匹が、赤ん坊の片腕を噛んで、引っ張った。ガリっと犬の歯が何かを砕く音がした。別の一匹は赤ん坊の顔に喰いついていた。白い小さな顔にぽっかり真っ赤な穴が開いた。

 

赤ん坊が誰の子供なのか、知らない・・・ 皇宮護衛官が宮内庁の侍女に産ませた子供かも知れない。それとも、宮内庁の侍従が産ませた子供かも知れない。彼らは避妊具を一切使わなかった。きっと、あの赤ん坊は、遊んだ男にとっても産んだ女にとっても「要らない子供」だったのだろう。
護衛官らは、犬笛を吹いても戻って来ない犬を連れ戻しに来た時、おくるみから引き摺り出されて、土埃の中に転がっている赤ん坊を見たに違いない。それなのに、第二の檻を開けたのだ。・・・何かの手違いだったのだろうか? しかし、あの護衛官は、宮内庁の玄関前にいた女へ向かって、私を中に入れるなと言ったではないか・・・

 

 

 

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<数年後>

皇宮護衛官が「猫が死んだぞ」と言った。猫なんて、皇居で何年も見たことが無かったが、私はもう何も質問しない子供になっていた。「可哀そうだから、埋めてやってくれ」そう言って、護衛官は私に真新しいスコップと猫が入っているというバスケットを持たせた。

土が柔らかそうな場所を探して掘ろうとしたが、樹の根が張っていて、スコップの先端はほとんど地面に入って行かなかった。そうしているうちに、またよだれを垂らした警察犬が走って来たのだ。私は無性に腹が立って、スコップで犬を殴った。しかし、犬は怯みもせず、厚地の布ナプキンがかけてあるバスケットの中へ鼻先を突っ込んで、何かを引っ張り出した。黒く変色した一本の棒だった。赤ん坊の腕なのか、足なのか・・・ 私がなおもスコップで犬を殴っていると、二匹目、三匹目が現れて、今度は、バスケットの中から真黒い頭蓋骨が転がり出た。猫ではなく、幼い子供の頭だった。護衛官らが食堂の裏にある焼却炉で焼いたのだ。私はスコップを放って、逃げ出した。

 

 

 

 

 

 


諍い

2024年10月25日 | 歴史
斎服殿の中から、女の啜り泣きが聞こえていた。皇后良子が祭祀用の蚕を踏み潰して以来、忌屋は無防備に解放されていたが、その開け放たれた引戸の奥で、女が木製の椅子に腰掛けて泣いていた。「あっちへ行って。・・・一人にしておいて」
 
 
忌屋はあれから神聖な場所ではなく、単なる蚕の飼育小屋になってしまった。或る時は、作業着を着た職員がピンセットで蚕を一匹ずつ挟んでは、成長が悪い幼虫を選り分けて、まるで塵のように足下に捨てていた。また或る時は、降嫁した裕仁の娘らが、親が住んでいる実家へ帰って来たかのように、「私たちはここへ入ってもいいのよ」と宣言して、武官から貰った阿片を持ち込んでは、きゃあきゃあと嬌声を上げていた。
 
 
従って、私はこの時、普段着の女が忌屋を占拠して泣いていても、別段、驚きはしなかった。が、その時、女の口から漏れた言葉は、彼女自身の苦悩を説明していた。「嗚呼、あんな男の子供を産まされて・・・」
 
 
その男は、しばらくすると慌てた様子で走って来た。自分の妻が皇居内で泣いているという体裁悪さのせいか、軍服を着た男は興奮して怒鳴り散らし、女が言い返すと、すぐに諍いが始まった。 
「そんなに厭なのか・・・ お前はいつもそうだ」 男の声が言うと、泣いていた女が何か甲高く叫んだ。
「もう死にたい」と言ったのか、「殺してやる」と言ったのか、私の記憶ははっきりしない。
それから声が止み、長い時間が過ぎた。
 
 
不意に私は背中を突かれた。振り向くと、それまで何処かに隠れていた侍従が、いつの間にか私の背後に戻っていて、声には出さず、中の様子を見て来い、と戸口を指差した。厭々、私が忌屋へ近づいて行き、そうっと中を覗いた時、男は屈んでいた体をこちらへ向き直って、一瞬、驚愕の表情を見せたが、すぐに足早に小屋を出て行き、建物の裏手のほうへ消えた。
しかし、女のほうは・・・ 最初に見た時と同じ木製の椅子に腰掛けて、上半身は机に伏したまま、微塵も動かない。
「誰か、来て」 
呼ぶと、すぐに数人が駆けて来て、ぐったりした女を担いで、何処かへ運んで行った。それきり、照宮成子に会っていない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

目撃者

2024年10月24日 | 歴史
東久邇成子(しげこ)は自害しようとしたのだ、と女官が言った。
「お可哀想にね・・・ 誰にも言っちゃ駄目ですよ」
 
 
たしかに、成子は・・・忌屋で、夫の東久邇盛厚と喧嘩をしていた時、「もう死んでしまいたい」と言って泣いていた。
しかし、肝心な「その瞬間」を誰一人見ていない。成子に追い払われた私は、建物の戸口から二十メートルくらい離れた場所にいたし、そこから先は通路が壁に沿って直角に曲がっており、私を案内してきた侍従が一人、また少し離れたところに護衛官が一人いただけで、誰も忌屋の内部を見ることができない位置にいた。
 
 
私は内心、盛厚を疑っている。何故なら、そこには最初から盛厚と成子の二人きりしかおらず、諍いの声はかなり激情的だった。
何より、侍従に背中を押された私が忌屋の戸口から覗いた時、ぐったりと机に伏せている成子の背後に覆い被さるような格好でいた盛厚は、振り向きざま、そこに怯えた子供を発見すると、慌てて、手に持っていた長い針を軍服の胸ポケットに仕舞ったのだ。
 
 
後日、私は子供の単純な正義感から、自分が目撃したままを女官の一人に話した。しかし、その時すでに侍従や護衛官から何度も毒針を刺されて脅されていた私は、それがいかに無意味かを承知していた。子供の正義などに何の価値も無いのだった。
翌年、私は東久邇盛厚に拉致されて、自衛隊基地へ連れて行かれた。椅子一つ置かれていない空虚な部屋で、盛厚は自衛官の一人に、私の殺害を命じた。
 
 
背が高く、若い自衛官は無表情で、子供の痩せた片腕を無造作に掴んで、砒素の注射器を突き立てた。
当然のことだが、私は可能な限り大声で泣き叫び、自分の上腕に深く刺さっている注射器を引き抜いて暴れたので、運良く中身の液体は極少量しか体内に入らなかった。その男が最初から私を殺すつもりは無かったのか、或いは、私の悲鳴が予想以上に大きくて、廊下まで響いたために躊躇したのか、どちらとも言えない。注射を打つ前に、男は薬剤の用意をしながら「この分量で運が決まるのだ」と占い師のようなことを言った。しかし、事前の生体実験は充分に実施されていただろうから、今更、毒薬の分量で運を占う理由は無い。きっと兵隊特有の馬鹿らしい信心だったのだろう。
 
 
床を転げ廻って、苦悶の数時間が経過した後、再び、盛厚が部屋へ入って来た。「なんだ、生きてるじゃないか。・・・もう一度、やれ」
すると、軍国の狗(いぬ)である兵隊は、口から汚物を吐いて倒れている私の腕を掴んで、立ち上がらせようとした。その右腕を私が振り払うと、結局、反対側の左腕に二本目の注射器を突き立てた。
悲鳴とともに、意識が遠のいて行く私の耳に、女の声が聞こえた。「嗚呼・・・あんな男の子供ばかり、産まされて・・・」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

兵隊服の男

2024年10月21日 | 歴史

天皇裕仁と東久邇盛厚が差し向けた「密偵」は、何度も私の家を襲って来た。玄関前で遊んでいると、突然、物陰から兵隊服の男が飛び出して来て、青酸カリの丸薬を飲まされそうになったこともある。また、気がつかない間に男が家の中へ忍び込んでいて、痺れ薬を塗った針で刺されたこともある。夏に海水浴に行った時は、浜辺で日光浴をしていた男が走り寄って来て、海中で毒ガスを嗅がされて、溺死しそうになった。
しかし、私は生き延びた。子どもの強靭な生命力が目に見えない先祖の加護となって、私の身体を包んでいたのかも知れない。殺されたのは父親である。
 
 
或る夜半、物音で目を覚ますと、すでに四人の「密偵」が勝手口から台所へ侵入していた。母と弟は土間の暗がりで倒れており、父は板間で正座させられて、灰色の兵隊帽を深く被った男に毒針で頭頂部を何度も刺されていた。四回か、五回刺された時、父の身体が座ったまま、前のめりに倒れた。
私は電話がある玄関のほうへ走った。が、すぐに背後から別の男に捉まって、脚を、青酸カリを塗った針で刺された。激痛が一気に膨れ上がって、悲鳴が頭蓋を突き破ると、今度は麻酔薬を注射された。以前に自衛隊基地で殺されそうになった時、私の叫び声が廊下まで響いたため、「密偵」らは必ず強い麻酔薬を用意していた。
 
 
地獄の泥沼へ沈み込むような数秒間は、苦痛が遠のくだけ「幸福な気絶」と言えるが、勿論、これは一時のことで、そのうち麻酔が切れて来ると、脳の深淵から泡が湧くように再び激痛が襲って来る。麻酔が完全に切れてしまう前に、電話まで行き着かなければならなかった。距離はほんの五、六メートルだったが、それは私が前方へ伸ばした手の彼方の、絶望的な闇の中にあった。 
私は意を決して、起き上がった。しかし、受話器を掴んだと思った瞬間、焼けた鉄棒が私の体に突き刺さった。絶叫とともに、玄関のタタキへ転げ落ちて行った。それを合図に、男らは裏口から逃げ去り、騒ぎを聞き付けた隣家の人の呼び声が玄関の外で聞こえた。
 
 
その後も、父は夜間に帰宅するところを毒ガスで襲われた。父を診察した町医者は、血圧が異常に高いと言ったが、それから一年くらい経って、脳梗塞で死んだ。初七日が済んだ頃、和服を着た女が訪ねて来て、畳に崩れるように伏している母の前に、青酸カリを一粒、置いて行った。
 

 
 
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高校への入学準備のため、自分で申請して入手した戸籍簿を見て、私は衝撃を受けた。父はその後、伯父に付き添われて、遠い街の病院まで精密検査に行ったのだが、日帰りが難しいために病院近くの宿泊所に泊ったところ、その宿で、父の病状は一層悪くなった。すぐに入院したが、そのまま昏睡状態に陥り、数日後の深夜、棺に入れられて帰宅した。

戸籍簿には、次のように記載されていた。「遊街の宿にて賃貸の夜具にくるまり、懇意にしていた女に世話をさせた後、悶死した」
私は謄写のインクが滲んだ文字を何度も読み返した。役所の男が薄笑いを浮かべて、「すでに記載したから、もう直せない」と言う声が、耳鳴りのように響いた。その男も・・・、また、その隣に座っている女も・・・、たぶん、この国の人間全部を、私は叫びたいほど憎悪している。